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エピソード

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雄藩のおこり(薩摩の調所広郷、長州の村田清風)
 田沼意次の教訓は別として、享保の改革寛政の改革天保の改革は、失敗に終わりました。
 逆に、改革に成功した藩があります。田沼時代では、松平治郷(不昧)の松江や細川重賢(銀台)の熊本です。寛政時代では、上杉治憲(鷹山)の米沢や佐竹義和の秋田です。
 共通しているのは、学校を建て、卒業生の中から、門閥にとらわれない人材を抜擢し、町人がすると賤しんできた殖産興業(産業や商業)に手を出したことです。
 松平治郷は、藩校を開き(残念ながら名前を調べたが分かりませんでした)、鉄や朝鮮人参などの生産を奨励し、専売制に踏み切りました。抜擢した人物も分かりませんでした。ワンマンだったのかもしれませんね。
 細川重賢は、藩校(時習館)を開き、堀平太左衛門を大奉行に抜擢し、製蝋や養蚕などの生産を奨励しました。
 上杉治憲は、藩校(興譲館)を開き、莅戸九郎兵衛を抜擢し、養蚕に注目し、染色・機織については、技術者を招聘し、米沢織を興し、専売制に踏み切りました。その他、製塩・製紙・製陶などの産業を奨励しました。
 佐竹義和は、藩校(明徳館)を開き、匹田定常を登用し、「木山方・開発方・鉱山方」と呼ばれる産業振興部門を新設しました。石川瀧右衛門を産物方支配人に抜擢し、桑の植え立てを奨励し養蚕・絹織の普及をはかっています。絹方役所を設立し、浜茄子を染料に工夫した秋田黄八丈を生産しています。
 天保時代になると、商品経済にどっぷりつかった諸藩は、深刻な財政難に陥ります。財政再建をするには、大幅なリストラ(Re-construction=再構築)が必要となりました。門閥にとらわれない、優秀な人材の登用が不可欠となりました。
 1827(文政10)年、薩摩の島津重豪は、多くの者の財政再建の意見の中から、下級武士の調所広郷(50歳)を登用します。
 調所広郷によると、薩摩藩の年貢収入73万石(73万両)であるのに対し、累積借銀500万両に達していました。そのために、まず藩債を整理する。これは250年かかって支払うという乱暴なものでした。これを250年賦といいます。この提案に債権者は大反対をしました。調所広郷は、「藩が倒れては、1両も支払えない」と説得しました。現実的な債権者は、「どのような方法で支払うのか」と詰問しました。調所広郷は、砂糖を専売にし、琉球との貿易(密貿易)を提案し、債権者の協力を要請しました。下級武士だから提案できた内容です。
 その結果、債務を完済し、藩財政は黒字に転化しました。調所広郷は、蓄財に励みましたが、次代の島津斎彬の時には、西郷隆盛らによって、造兵工場(集成館)や洋式機械工場(鹿児島紡績工場)が建設されました。まさに、殖産興業の時代に突入しました。
 1840(天保11)年、長州の毛利敬親(22歳)は、多くの者の財政再建の意見の中から、下級武士の村田清風(50歳)を登用します。
 村田清風によると、長州藩の年貢収入2万5000両であるのに対し、累積借銀170万両に達していました。紙や鑞は、既に専売を行っていましたが、それに反対する一揆がおこっていました(防長大一揆)。そのために、まず藩債を整理する。これは37年かかって支払うという乱暴なものでした。これを37ケ年賦皆済仕法といいます。この提案に債権者は大反対をしました。村田清風は、h摩の先駆者である調所広郷の話を聞いていて、同じように説得します。債務の完済には、もう専売を使えません。村田清風が提案したのは、専売制を廃止して商人による自由な取引を許し、その代わり、商人に対しては運上銀を課税するということです。2つめは、越荷方を設置し、豪商の白石正一郎らを登用しました。越荷方とは長州藩が下関で運営する金融兼倉庫業をいいます。他国船の越荷(他国から、えてきた物)を担保に資金を貸し付けたり、越荷を買っては委託販売をしました。
 その利益は膨大で、軍艦の購入にも使われました。
 肥前藩の鍋島直正は、18歳の時、自ら改革を実施しました。肥前藩は、年貢収入9万両であるのに対し、累積借銀33万両に達していました。
 寄生地主(町人地主)の所有地の一部を藩に返上させ、本百姓体制の再建をはかりました。これが均田制です。均とは、平均の均で、「ひとし」とか「ならす」といいます。つまり、江戸初期のように同じ面積の土地を持つ百姓(本百姓)に戻すというアナクロ政策です。これでは、幕府の改革と同じです。
 鍋島直正が非凡であったのは、藩主自ら有田焼伊万里焼の専売制に踏み切ったということです。
 以上改革に成功した藩は、外様大名ながら西南雄藩として、幕末の政治史に華々しくデビューします。
 一方、改革に失敗した土佐藩などは、坂本竜馬などの英雄の登場を待つことになります。
武士が商売に手を出す(町人になる)時代
 私の住んでいる相生から電車で20分の所に世界文化遺産の姫路城があります。この城の城主が姫路藩の酒井公です。郷土史も、日本史の授業には大切な、分野です。
 1808(文化5)年、藩主の酒井忠道は、家老の河合道臣(寸翁)に財政再建を命じました。時に42歳でした。姫路藩の年貢収入は10万両に対して、累積借銀は73万両に達していました。
 寸翁は、藩校の好古堂があるにも関わらず、お城が正面に見える山頂に、私塾仁寿山黌を開きました。ここでは、門閥にとらわれない生徒を募集し、頼山陽など著名な学者を講師に招き、領民一人一人を尊重し、国に役立つ人材の養成を目指しました。寸翁は、木綿会所を創り、大坂を通さず江戸に直売する木綿の専売制を確立しました。
 赤穂の塩、龍野の醤油の専売については、先述した通りです。
 幕府も学校(昌平坂学問所)を建て、人材を登用(遠山景元、いわゆる金さん)までは、進みましたが、武士の意地が邪魔して、殖産興業には手を出せませんでした。
 薩摩藩が砂糖の専売で暴利を得たことは、上に述べました。一方、沖縄にはこのような話が残っています。
 川で溺れていた薩摩役人の子を、地元の子が助けました。その子の母は、お礼に砂糖入りのおやつを与えました。その後、地元が子が危篤になりました。親が「何でも欲しいものをいいや」(これ播州弁)というと、子は「砂糖が入ったおやつがほしい」といいました。
 父親は、役人の子の母にお願いしましたが、冷たく拒絶されました。仕方なく、サトウキビを盗んで、甘い蜜を飲ませました。幸せな顔をして、地元の子は息を引き取りました。しかし、サトウキビを盗んだ父親は、死刑という罰を受けました。
 専売制の裏には、こんな悲しい、哀れな話が残っているのです。「誰かが儲けたら誰かが損をする」
 越荷方がどうして膨大な利益を産むのか、色々調べましたが、私が納得する書物はありませんでした。見つかれば、後日報告します。

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