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エピソード

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ペリー来航と日米和親条約と五カ国条約
 1853(嘉永6)年6月3日、アメリカ東インド艦隊司令長官のペリー(60歳)は、軍艦4隻を率いて浦賀に来航し、米大統領フィルモアの親書を提出しました。その内容は、カリフォルニアから中国に行く船が多い。捕鯨のため日本海岸に近づく者も多い。これらの船が遭難した場合救助して欲しい。「我が国の蒸気船及び其他の諸船、石炭食料及び水を得んが為に、日本に入ることを許されんことを請ふ」というものでした。西部開拓は進み、カリフォルニアから太平洋を横断して中国へ行くアメリカ船には、日本はどうしても必要な寄港地であることが分かります。
 6月9日、幕府は、使節のペリーが海軍の司令長官であること、軍艦4隻を率いての交渉に押されて、久里浜でフィルモアの親書を受け取りました。
 6月12日、ペリーは、国書の回答を来年に延期することを認めて、琉球へ去っていきました。
 6月24日、ペリーは、琉球王を威嚇して、貯炭所建設の権利を得ました。
 7月1日、老中阿部正弘(35歳)は、慣例を無視して、国書を諸大名・幕臣に示し、意見を聞きました。その結果は、開国が16人、攘夷が34人、白紙が4人でした。これにより、諸大名が幕政に関与して発言する道が開かれました。
 7月3日、老中阿部正弘は、水戸の徳川斉昭、越前の松平慶永、h摩の島津斉彬、宇和島の伊達宗城を登用しました。また、幕臣の永井尚志岩瀬忠震川路聖謨井上清直らを抜擢しました。
 7月18日、ロシア極東艦隊司令長官のプチャーチン(51歳)は、軍艦4隻を率いて、長崎に来航しました。
 8月、幕府は、高島秋帆の禁錮を解きました。
 9月、幕府は、江戸海岸に低地のある諸大名に対して、品川台場などを築造するよう命じました。
 10月、トルコは、ロシアに宣戦布告しました。これをクリミア戦争といいます。
 11月、幕府は、水戸藩に大船の建造を命じました。
 12月、プチャーチンは、長崎に再来し、国境・通商に関し、長崎奉行と協議しました。
 1854(安政元)年1月16日、ペリーは、軍艦7隻を率いて再び神奈川沖に来航し、条約締結を要求しました。
 2月3日、幕府は、アメリカの軍艦の見物を禁止しました。
 3月3日、日本側の林絳・阿部正弘は、ペリーと日米和親条約神奈川条約)を締結しました。
 その内容は、次の通りです。色が不平等な条項
(1)下田・箱館をの開港し、下田には領事を駐在させる
(2)片務的最恵国待遇
(3)アメリカ船に燃料や食料を供給。
 3月23日、プチャーチンは、再度長崎に来航し、樺太国境および通商に関する覚書を手渡しました。
 3月24日、幕府は、下田奉行を設置しました。
 3月28日、吉田松陰(25歳)は、下田でペリーの軍艦に乗り密航を企て、捕らえられました。 
 4月、吉田松陰の密航に関し、佐久間象山(44歳)は、密航を勧めた容疑で逮捕されました。
 6月、幕府は、箱館奉行を設置しました。
 8月、幕府は、イギリス東インドシナ艦隊司令長官のスターリング日英和親条約を締結しました。
 その内容は、長崎・箱館を開港するというものでした。
 9月、幕府は、オランダと日蘭和親条約を締結しました。
 その内容は、下田・箱館を開港するというものでした。
 12月、外国奉行の川路聖謨は、プチャーチンと日露和親条約を締結しました。
 その内容は、次の通りです。
(1)長崎・下田・箱館を開港
(2)国境は、択捉以南は日本の領土、得撫以北は露の領土、樺太は雑居とする
 1855(安政2)年、フランス艦隊司令長官のゲランは、琉球と日仏和親条約を締結しました。米露英蘭仏と和親条約を結んだので、安政の五カ国条約ともいいます。
江戸時代、日本の後進性は、外交にあり
 1853年に来航したペリーは、江戸城めがけて空砲を鳴らしました。この時の轟音が、江戸城に響きました。
 1854年に再来したペリーと、幕府はいとも簡単に和親条約を締結しました。空砲の轟音が、効果的だったのです。私は、ペリーを単なるアメリカ使節と思っていました。しかし、教科書の記述を見ると、アメリカ東インド艦隊司令長官とはっきり書いています。軍人は、戦争して手柄を立てて「なんぼ」という性格を持っています。
 対等に交渉できない日本外交の後進性を、ここに証明したといえます。
 国際法で、「最恵国待遇とは、他の国と結んだ条約において、日本がアメリカに与えたよりも有利な条件を認めた時は、アメリカにも自動的にその条件がみとめられる」となっています。双方的なものです。しかし、日本が締結した内容は「片務的」なものでした。国際法に通じていれば、双方的な内容をアメリカ側に確認していたでしょう。確認しないどころか、日本にのみ義務を課されました。
 国際法を知らない日本外交の後進性を、ここに証明したといえます。一部の学者や小説家が、江戸時代はそれほどひどい時代ではなかったと主張しています。しかし、不平等条約によって、日本の立場が不利になったことを、日本人は知っています。為にする議論は、破綻します。
 軍艦を見物した人の中には、坂本竜馬や吉田松陰、佐久間象山がいました。三谷幸喜さんは、NHK大河ドラマ『新撰組』の冒頭部分で、桂小五郎、坂本竜馬、近藤勇、佐久間象山を登場させています。
 三谷さんの狙いは、黒船を見て近藤はフアメリカの星条旗を奪おうとする。坂本は「あの船に乗って世界中を見てみたい」と考える。桂は「黒船を作るような国と戦えば日本は滅ぶ」と言う。佐久間は「同じ物を見ても違うことを考える」と面白がる。
 私の描く坂本竜馬は、ペリーの黒船を見て、千葉周作道場の跡取りを反故にして、脱藩します。そして、日本最初の海軍である海援隊を作ります。
 黒船が来た。「らしいね」と思う人。黒船を見学に行く人。黒船を見て、何かを感じた人。黒船を見て、感じて、行動した人。人それぞれです。坂本竜馬は「見た、感じた、行動した」人になります。今必要なのは、行動する人です。
 追伸(1)
 先日、『たけしのTVタックル』をみました(2005年5月)。私も読んだことのある『タッチ』というマンガを描いたヒゲの漫画家が出演していました。彼は「ペリー来航」と「米占領軍」によって日本がダメにされたと語っていました。別なゲストが、「ペリーの来航によって日本に民主主義という考えがもたらされた」と発言すると、ヒゲの漫画家は「日本では、江戸時代に民主主義は確立していたんだ」と反論しました。
 皆さんは、どうお考えになりますか。
 私は、常々、自分に出来ないことをコメントするコメンテーターが日本をダメにすると発言してきました。ヒゲの漫画家は漫画家としては、プロですが、歴史や外交に関しては、素人です。自分が日本をダメにしているとは思わず、「ペリー来航」がダメにしたと断言します。
 坂本竜馬は、ジョン万次郎から「百姓のリンカーンが大統領(日本の将軍)になっている」「男女が手をつないで街を歩いている」という話を聞いて、アメリカの民主主義、アメリカの自由主義を感じとりました。封建制・身分差別に立脚する日本の後進性では、アメリカに対抗できないと、脱藩して、海援隊を組織したのです。
 ペリーの来航によりダメになった日本人はいません。
 追伸(2)
 以前では考えられないような発言をする出演者が、TVに出てくるようになりました。時代の変わり目を感じています。
 例えば、歴史教科書を「自虐史観」に彩られているとする立場の人は、なんら根拠も示さず「韓国の歴史家のレベルはそうとう低い」と発言しています。また政治評論家のかなりの人が、バカな中国人は「中国の覇権主義・大国主義」を押し付けてくる断定しています。
 しかし、経済評論家は、日本の貿易額は、対米より対中が1番になっているとか、日本のGDPが上昇したのは、中国経済の影響だと評価しています。つまり、日本は、自立しながら、世界の色々な国と友好関係を結ぶことで、経済的にも外交的にも、やっていけるのです。
 ナショナリズムは一見、威勢良く聞こえます。しかし、相手もナショナリズムに走るとどうなりますか。その結果は、戦争になります。それを望んでいるのかも知れませんね。
 追伸(3)
 2005年8月発行のゴーマンな漫画家の本を初めて買いました。「あとがき」に「欧米列強さえ来なければ幕藩体制で良かったのだ。たとえ身分制度があり、差別のある社会だったとしても」という一文が気になったので。
 ヒゲの漫画家といい、ゴーマンな漫画家がどのような発言をしようが、現在の日本は、民主主義で、職業選択の自由や言論の自由が保障されています。その恩恵を誰よりも厚く受けていながら、攘夷論を語るとは、滑稽ですらあります。
 漫画家として呼ばれたのではなく、評論家として呼ばれたのであれば、もう少し、冷静に、先入観なく、歴史の勉強をして欲しいものです。

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