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エピソード

157_01

ハリスと日米修好通商条約・安政の五カ国条約
 1855(安政2)年7月、幕府は、永井尚志に命じて、長崎海軍伝習所(海軍学校)を設置させました。そこで学んだのが、榎本武揚(20歳)・五代友厚(21歳)・勝安芳勝海舟)(33歳)でした。
 10月、開明派の堀田正睦(46歳)は、老中首座となり、攘夷派の徳川斉昭を解任しました。
 1856(安政3)年2月、幕府は、洋学所蕃書調所と改称しました。
 4月、幕府は、江戸築地に講武所(陸軍学校)を設置しました。
 8月、アメリカ総領事のハリス(53歳)は、日米和親条約により、下田に着任し、玉泉寺を領事館としました。
 10月8日、中国でアロー号事件がおこりました。イギリス船が清国官憲に臨検されたことに抗議して、イギリス軍が広東を占領し、天津に侵入した事件です。
 10月11日、ロシア使節ポシェットは、下田に来航しました。
 12月、オランダ人のクルチウスは、長崎奉行にオランダ人の外国貿易中継の許可を要請しました。
 1857(安政4)年2月、オランダ人のクルチウスは、アロー号事件を長崎に報じて、幕府の通商拒否を危惧する旨を伝えました。
 5月、インドでセポイの反乱が起こりました。これは、イギリスのインド人傭兵がおこした反英独立戦争です。これに手を焼いたイギリス政府は、統治方針を変更しました。
 10月21日、ハリスは、将軍徳川家定と会見し、アメリカ大統領ピアースの国書を提出しました。
 10月26日、ハリスは、老中堀田正睦を訪れ、通商貿易の必要を説きました。
 11月1日、堀田正睦は、アメリカ大統領の親書とハリスの口上書の写しを示して、諸大名の意見を聞きました。この時は、開国が20人、攘夷が7人、白紙が7人と変化しています。
 12月2日、諸大名の意見を聞いた堀田正睦は、ハリスを招き、通商貿易および公使の江戸駐在を認めることを告げました。
 12月13日、堀田正睦は、朝廷に対して、アメリカとの通商条約を締結すべき旨を伝えました。
 1858(安政5)年1月、老中堀田正睦は、上洛し、日米条約の調印の勅許を求めました。
 3月、孝明天皇(28歳)は、堀田正睦に対して、条約調印拒否の勅答を伝えました。
 4月、彦根藩主の井伊直弼(44歳)は、大老に就任しました。
 6月、アロー号事件が集結し、清国は、露・米・英・仏と天津条約を締結しました。その内容は、次の通りです。(1)九竜半島の割譲(2)公使の北京駐在(3)外国船の内地河川航行の許可(4)賠償金の支払い(5)片務的最恵国待遇
 6月19日、こうした中国での動きを知ったのか、大老井伊直弼は、下田奉行井上清直と目付岩瀬忠震に命じて、神奈川で、日米修好通商条約および貿易章程に調印させました。
 その内容は、次の通りです。色が不平等な条項
(1)神奈川・長崎・新潟・兵庫の開港
(2)江戸・大坂の開市
(3)通商は自由貿易
(4)居留地での領事裁判権
(5)関税自主権の欠如
(6)日本の自主的改正は不可など不平等な内容でした。
 6月24日、水戸の徳川斉昭・越前の松平慶永・尾張の徳川慶勝・土佐の山内豊信・薩摩の島津斉淋らは、一橋慶喜(22歳)と結び、急ぎ登城し、井伊直弼を詰問しました。
 6月25日、井伊直弼は、紀伊の徳川慶福(13歳)を将軍徳川家定の継嗣と決定しました。
 7月4日、将軍徳川家定(35歳)が亡くなりました。
 7月5日、井伊直弼は、水戸の徳川斉昭・越前の松平慶永・尾張の徳川慶勝らに対して、不時登城の罪で、謹慎を命じました。
 7月10日、オランダと日蘭修好通商条約を締結しました。
 7月11日、ロシアと日露修好通商条約を締結しました。
 7月18日、イギリスと日英修好通商条約を締結しました。
 8月8日、孝明天皇は、条約締結に不満の勅諚を水戸藩などに下しました。
 9月3日、フランスと日仏修好通商条約を締結しました。以上の五カ国と締結したので、安政の五カ国条約といいます。天皇の許可がなかったことを理由に、安政の仮条約ともいいます。
 10月25日、紀伊の徳川家茂(徳川慶福を改名)が、14代将軍になりました。
 1859(安政6)年5月26日、イギリス総領事のオールコックが着任しました。
 5月28日、幕府は、横浜(神奈川の代理港)・長崎・箱館を開港しました。ここに港横浜が誕生し、百万ドルの夜景箱館が誕生しました。
 1860(安政7)年1月13日、軍艦奉行の木村喜毅・軍艦操練所教授勝安芳(勝海舟)らは、護衛のため咸臨丸に乗り、アメリカに向かいました。福沢諭吉ジョン万次郎らが同行しています。
 1月18日、条約批准交換の遣米特使外国奉行の新見正興・副使村垣範正・目付小栗忠順らは、米艦ポ−ハタンに乗り、品川を出発しました。
 1860(万延元)閏3月、外国奉行の新見正興らは、アメリカ大統領ブカナンに会見しました。
 4月、国務長官カスと条約批准書を交換し、ここに正式に、日米修好通商条約が発効しました。
 1861(文久元)年4月、アメリカで市民戦争南北戦争)が始まりました。
 1866(慶応2)年、改税約書が調印されました。その結果、今まで輸入関税は20%でしたが、これを一律5%に引下げ、貿易の諸制限が撤廃されました。
 1867(慶応3)年5月、御所に近いという理由で、遅れていた兵庫開港が勅許されました。
 12月、歴史と伝統のある兵庫に代わって、漁港であった神戸港が兵庫の代理港として開港しました。これが港神戸の発展のルーツです。
 1868(明治元)年、港としての改修に時間がかかった新潟が開港しました。日本海唯一の港として、ロシア・朝鮮に開かれたルーツです。
外圧に弱いのは、日本の特性か?
 日本が植民地を免れた理由には、様々な要因があります。その1つがセポイの反乱です。日本の歴史にどうしてインドの歴史が入ってくるのか、不思議に思われるかもしれません。しかし、大切な事項なんです。
 膨大な人口を抱えるインドを、数少ないイギリス兵で支配するのは不可能です。そこで考え出されたのが、現地人を兵隊に採用することです。インド人の傭兵をセポイといいます。兵に銃を持たせるので、厚遇によるエリート意識で、裏切らない様にします。
 ある時、工場のストが起こりました。ストの鎮圧にセポイが動員されます。イギリス人の指揮官が、発砲を命じました。セポイは、失職しないため発砲すれば、同胞を殺害します。発砲しなければ、エリートの職を失います。セポイは、失職の道を選び、銃をイギリス人に向けたのです。
 ショックを受けたイギリス本国は、武力による植民地支配の限界を知り、宥和政策に転換しました。セポイの反乱を経験したイギリス人は、日本に対して、宥和的外交を展開しました。
 オランダ人のクルチウスは、長崎奉行の荒尾成允に対して、アロー号事件の背景とイギリスの思惑を説明し、「此上に於ては旧来の御国法御変革に相成、世界普通の御法に被成候義肝要に有之」と忠告しています。
 唯一外交交渉があったヨーロッパのオランダだけに、好意的な意図が汲み取れます。この情報が、日本の外交を大きく狂わさなかったと言えます。
 同じく、ハリスは、老中堀田正睦に、アロー号事件を取上げ、中国のようにならないためにも、通商条約の締結を求めています。「日本安危に拘り候、重大之事件数ケ条申上候。…支那と日本計り独立之国にて未だ同盟に無之、支那にてアヘン之乱有之候も北京にアゲント指置不申、広東の奉行英人を軽じめ候より事起こり候間日本にても其覆轍をふまざる様速に江戸へ商館を建、各国のアゲンドと置べし」。
 ヒュースケンの記録には、アメリカ人は海を越えて日本の岸まで鯨を取りにきている。だのに、勇気もあり、行動力もある日本人は、アメリカの岸にまで行かないのか」というハリスの言葉を伝えています。
 外交に長けたアメリカのムチとアメの戦略が読み取れます。
 政治的権限を奪われていた天皇に唯一残されていたのが、外国との条約を認めることでした。幕府の権力からすると、事後承認事項と軽く考えていたが、その権限を逆さにとって、朝廷側が反幕を鮮明にします。反幕的な動きが加速して行くきっかけが、通商条約だったというのも、皮肉なものです。
 先進国のイギリスやアメリカは、通商は自由貿易を提案しました。売りたいものを自由に売る。素晴らしい提案です。しかし、日本人は、この自由が、だれにとっての自由なのかを後で知らされます。
 次に、後進国の日本は、関税は相互にするという美しい言葉の提案を受け入れました。しかし、この提案が自国の産業の足かせになることを、後で知らされます。
 「契約する時に内容をよく吟味せよ」という。契約は自分が有利なような説明を聞くことが多い。しかし、トラブルが起きた時、不利な契約内容にびっくりすることがあります。例えば安い保険に入って、入院費用が出るのは、入院期間が1週間以上であったり、火災保険に入ったが、地震には適用されないとか、たくさんあります。
 「入り口で喧嘩せよ」ということが、幕末の外交を見ていて分かりました。入り口で喧嘩できなかったつけが、子孫にまわされると言うことです。

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