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エピソード

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西郷隆盛の登場
 幕末、政局が大きく転換しました。その背景として、老中阿部正弘ペリー来航という未曾有の体験に絶えられず、諸大名に意見を求めたことです。外様であっても、藩政の改革に成功している外様雄藩の意見には重みがあります。
 外交と13代将軍徳川家定の継嗣問題をめぐって、幕閣内で意見の対立がありました。水戸の徳川斉昭の七男徳川慶喜一橋家に養子に行って一橋慶喜)を支持するグループを一橋派といいます。このグループの中心が父である徳川斉昭で、橋本左内をブレーンにもつ越前の松平慶永吉田東洋をブレーンにする土佐の山内豊信西郷隆盛をブレーンにもつh摩の島津斉彬ら改革派がこれを支持しました。水戸家からは将軍を出していない歴史的な弱点を持っていました。
 他方、紀伊の徳川慶福を支持するグループを南紀派といいます。徳川慶福は、11代将軍徳川家斉の孫であり、13代の紀伊藩主です。家柄を重視するこのグループの強みです。このグループの中心が彦根藩主の井伊直弼で、伝統を維持しようとする保守派の大名がこれを支持しました。
 1844(弘化元)年、h摩の郡方書役方の西郷隆盛(24歳)は、藩政の改革の立役者調所広郷(67歳)を、蓄財派と批判して、開明派の島津斎彬に認められました。
 1849(嘉永2)年、h摩では、後妻お由羅は、夫で藩主の島津斎興に頼んで、島津久光(父は島津斎興、母は後妻のお由羅)を継嗣にするよう運動しました。開明派の島津斎彬を支持する西郷隆盛や大久保利通(20歳)は、お由羅を除こうとして、謹慎させられました。これをお由羅騒動といいます。
 1849(嘉永2)年、土佐の山内豊信(23歳)は、13代藩主・14代藩主が病死して、15代藩主となりました。
 1851(嘉永4)年、老中阿部正弘の助言で、島津斉彬(33歳)が藩主になりました。島津久光は、以後、西郷隆盛らに恨みを抱くようになりました。
 1853(嘉永6)年、坂本竜馬(19歳)は、江戸の千葉周作道場に入門しました。
 1853(嘉永6)年、ペリーが来航しました。
 1853(嘉永6)年、山内豊信は、吉田東洋を登用しました。
 1854(嘉永7)年、島津斉彬に同行して江戸に出ていた西郷隆盛(34歳)は、水戸学藤田東湖(49歳)と会見し、尊王攘夷論を知りました。
 1854(嘉永7)年、坂本竜馬は、ペリーの黒船を見て、衝撃をうけ、早速、通訳のジョン万次郎(中浜万次郎)と会見し、アメリカの話を聞きました。坂本竜馬は、特に大統領選挙男女同権に興味を持ったという記録が残っています。
 1855(安政2)年、西郷隆盛(35歳)は、橋本左内(22歳)と会見し、開国論を知ります。
 1856(安政3)年、謹慎中の吉田松陰(27歳)は、松下村塾高杉晋作久坂玄瑞前原一誠品川弥次郎山田顕義伊藤博文山県有朋ら幕末・維新の立役者を育てました。
 1857(安政4)年、西郷隆盛(37歳)は、一橋派の島津斉彬の意向を受け、近衛忠煕と会見し、尊攘派で元清水寺成就院の僧月照に接近しました。
西郷隆盛と坂本竜馬、吉田松陰
 西郷隆盛は、実力はありましたが、武士階級では下士に属しており、鬱々たる人生を送っていました。そこへ、島津斎興が藩主となると、実力ある者を、身分に関係なく登用するようになりました。
 西郷が取った作戦は、トップの撃って、衆目を集めさせる方法です。藩政の改革に成功して、h摩を一躍雄藩に仕上げた調所広郷は、誰からも指弾されない人物でした。しかし、西郷は、儲けた金を蔵にしまうやり方を批判し、殖産興業的な政策を提案して、藩主斎興に認められました。
 西郷の家の生活は、武士ではあるが、内職したりして、町人的な生活をしていたので、殖産興業的な提案は、身についていたといえます。
 トップを撃つ作戦は、宮本武蔵がしており、最近では、ダウンタウンの松本人志さんが藤本義一さんを撃って、人気を一気に高めています。直近では、若くて、ノーネクタイのホリエモンが、スーツ姿の大企業フジサンケイグループを撃つというのも西郷隆盛式です。
 坂本竜馬は、ジョン万次郎の話を聞いて、特に大統領選挙・男女同権に興味を持ちました。皆さんは、何故だと思いますか。
 大統領選挙では、百姓のリンカーンが大統領になっていることに驚いています。実力があれば、誰でもトップになれるという制度です。日本の場合は、実力があっても、身分で制約されます。つまり、競争がないということです。学歴のない田中角栄さんの総理大臣就任を予想していたわけです。
 次に、男女同権では、男と女が腕を組んで街を歩いていることに驚いています。男女が平等ということは、男女が競い合って、より高度な社会を作ろうということです。共学の大学に女子が進学しない時は、男子はのほほんとしておれました。しかし、真面目な女子が共学の大学に進学するようになると、勉強しない男子は入試戦線から弾き飛ばされました。そこで、女子に負けじと男子も頑張りだしました。すると、女子も男子に勝つと張り切り、勉強意欲は高揚し、進学率も向上していきました。坂本竜馬は、このような時代を頭に描いていたことになります。
 多くの人は、吉田松蔭が松下村塾を開いたと勘違いしているようです。吉田松陰の叔父である玉木文之進は、自宅で私塾を開きました。これが松下村塾のルーツです。これを松蔭が引き継いだのです。
 吉田松陰は、学問をただ学問として学んだり、仕官の道として学ぶことを諌めています。自分の考えに常に疑問を持ち、そして解決するという、武士としての生きた学問を指導しました。
 今の学校は、ペーパーテストで人間を評価し、勉強を就職の道具として利用しています。多くの人は、吉田松陰を評価するのに、考えを理解し、実践していない。松蔭が諌めた、学問としての学問を学んでいるからなんでしょう。 
 幕末や維新の時、若者は青雲の志を持っていました。彼らは、日本の現状、将来を真剣に考え、議論しました。それが今の土台になっています。
 今、優秀な若者は、何に志を抱いているのでしょうか。著名な精神科医がTVや著作で、「定年制や年功序列は崩壊し、財閥系の大合併によって、学歴は役に立たない時代になってしまった。そこで、定年のない、安定した職業である医者や弁護士をめざそう。そのためには、私立一貫校に入り、塾に行こう」と安物の処世術を述べる。それを、有り難がる風潮があります。このような姑息なリーダー論では、これからの日本はどこへ行くんでしょう。
 このような小志な者が政治家になるから、自分の金儲けにはしります。何かにつまづくと「妻が…秘書が…」と逃げ口上となる。上に立つものは、腹を切る(責任をとる)覚悟でやる。覚悟がないなら、上に立つなといいたい。
系図の見方(一橋家、将軍家、紀伊家、一橋家)
将軍の徳川吉宗 家重 家治 家斉 家慶 家定 徳川慶福(家茂)
宗尹 治済 家斉 斎順 ━━ 慶福
斎彊
斎敦 ━━ 昌丸 慶喜
治宝 斎順 斎彊 慶福
副将軍徳川光圀 ………………………(6代略)………………… 徳川斉昭 慶喜

 女
‖━ 島津斎彬
島津斎興
‖━ 島津久光 島津忠義
お由羅

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