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エピソード

158_02

井伊直弼と安政の大獄
 1158(安政5)年4月、彦根藩主の井伊直弼(44歳)が大老に就任しました。
 6月、間部詮勝(57歳)が老中に就任しました。
 6月19日、大老井伊直弼は、日米修好通商条約および貿易章程を締結しました。
 6月24日、水戸の徳川斉昭・越前の松平慶永・尾張の徳川慶勝・土佐の山内豊信・薩摩の島津斎淋らは、一橋慶喜(22歳)と結び、急ぎ登城し、井伊直弼を詰問しました。
 6月25日、井伊直弼は、11代将軍徳川家斉の孫で、紀伊藩主の徳川慶福(13歳)を将軍徳川家定の継嗣と決定しました。
 7月4日、将軍徳川家定(35歳)が亡くなりました。
 7月5日、井伊直弼は、不時登城の罪で、一橋派の公家・大名を処分しました。
 (1)公家に対しては、近衛忠煕青蓮院宮を永蟄居、鷹司政通三条実萬を落飾させました。これが安政の大獄の始まりです。
 (2)大名に対しては、水戸の徳川斉昭を永蟄居、越前の松平慶永・尾張の徳川慶勝・土佐の山内豊信を謹慎、堀田正睦を罷免にしました。
 7月16日、薩摩藩主の島津斎彬が急死しました。島津久光の子島津忠義が、薩摩藩主となりました。
 8月8日、孝明天皇は、一橋派と結んで、違勅調印というの勅諚を水戸藩などに下しました。これを戊午の密約と言います。「諸侯の衆議を尽くして幕政を改革せよ」というもので、これを知った井伊直弼は、激怒しました。これが、第二の安政の大獄に発展します。
 9月8日、尊王攘夷派(尊攘派)の梅田雲浜(44歳)が京都で逮捕されました。
 10月25日、紀伊藩主の徳川家茂(徳川慶福を改名)が14代将軍になりました。
 11月16日、近衛忠煕が処分されたことを知った西郷隆盛は、僧月照(46歳)を連れて鹿児島に入りました。しかし、新藩主の島津忠義は、僧月照が薩摩に入ることを禁止しました。そこで、2人は、薩摩の錦江湾で、入水自殺をはかりました。
 1859(安政6)年8月27日、水戸藩士安島帯刀に切腹を命じられました。
 10月7日、越前の橋本左内(26歳)と頼三樹三郎(34歳。父は頼山陽)を処刑されました。
 11月27日、吉田松陰(30歳)を処刑されました。
 1860(万延元)年3月3日、水戸浪士17人と薩摩浪士である有村次左衛門1人の合計18人は、井伊直弼(46歳)を桜田門外で殺害しました。これを桜田門外の変といいます。
 その日は雪が降って、襲撃するには条件が厳しい日でした。井伊家の家臣は、この日は襲撃しないだろうと安心し、供回りも普段と変わりませんでした。逆に、襲撃する側からすると、相手が油断している時に成功するという鉄則があります。
 桜田門の前は、松平親良(豊後の杵築藩主)の屋敷でした。浪士は、雪の降る中、朝7寺に、濠端に6人、松平親良の屋敷の塀に8人が配置につきました。
 松平親良の西が松平斉粛(安芸の広島藩主)の屋敷で、その西が井伊直弼の屋敷です。桜田門からは500メートルの所にあります。
 9時前、大老井伊直弼は、供回りの徒士20人、足軽が40人を連れて、桜田門に近づきました。森五六郎が訴状を持ち、大老に直訴するふうを装い駕籠に近づき、制止しようとした警固の侍に斬りつけました。乗物脇の徒士が駆けつけようとした時、短銃の音を合図に、潜んでいた浪士が、一斉に斬りかかりました。油断していた井伊家家臣は、バラバラになり、気がつくと、駕寵の周囲には警固の侍は3人しかいませんでした。有村次左衛門と広岡子之次郎が井伊直弼の駕籠に刀を突き刺しました。本懐を遂げた浪士は、それぞれの屋敷へ行って自訴をしました。
 井伊直弼の家臣である小河原秀之丞に後頭部から背中を斬られた有村次左衛門は、直弼の首級を持って和田倉門前の遠藤但馬守(近江の三上藩主で若年寄)の屋敷に行って、口上を伝えて、自害しました。時に23歳でした。
 小河原秀之丞を斬り伏せた広岡子之次郎も重傷で、大手門前の酒井雅楽頭(播磨の姫路藩主)の屋敷前で自害しました。
 その他の者は、馬場先門前の織田兵部(羽前の天童藩主)の屋敷、和田倉門前の脇坂淡路守(播磨の龍野藩主)の屋敷、同じく和田倉門前の細川越中守(肥後の熊本藩主)の屋敷へ行っては自訴しています。浪士18人のうち、即死は1人、重傷のため自害した者は4人、自訴した後、傷が元で死亡した者2名、死罪が6名、逃亡が5名となっています。
 井伊家では、4人がその場で死亡、3人が重傷で死亡、負傷して後に死亡が1人、負傷13人となっています。
井伊直弼とはどんな人?、西郷隆盛は自殺した?
 井伊家の祖である直孝の遺訓により、家督争いを防ぐために、継嗣以外の男子は、全て他家に養子に行くことになっていました。井伊直中には、15の男子がいました。井伊直弼は14番目の男の子として誕生しましたので、養子に行く先もなかったようで、32歳まで、300俵で貧しい生活を強いられました。直弼の小さい家を、花の咲かない埋もれ木に例えて、埋木舎と名づけ、自分の境遇を表現しました。
 「世の中を よそに見つつも うもれ木の 埋もれておらむ 心なき身は」
 直弼は、「柳王舎」と号したように、柳を愛していました。柳は、強い風が吹いても逆らわず、激しい雨が降ってもうなだれてやり過ごす。自然体そのままが美しい。そんな心境を味わっていたのかもしれません。
 しかし、そんな環境にありながら、長野主膳に国学を学んだり、茶道・華道・歌道・武道などにも励みました。
 その間、兄弟に次々と亡くなります。長男と次男が死亡。四男と五男が死亡。六男から十男まで他家に養子。十一男は死亡。十二男から十三男まで他家に養子。十五男が養子に行っているのに、十四男の直弼は、どうして養子にいかなかったのでしょうか。
 調べると、養子の話はありましたが、弟の十五男が養子に迎えられたそうです。小さい時はボーとしていたのでしょうか。あるいは、切れすぎたのでしょうか。それとも、万一の時に抑えにしていたのでしょうか。今後の課題です。
 1846(弘化)年、彦根藩主の三男直亮には、継嗣がいなかったので、十四男の直弼が、養子になりました。時に直弼は、32歳でした。藩主になった直弼は「此度之昇身ハ尋常之事ニあらず…仁政之鍛錬のミ専一に心懸申候」と感じて、藩政に尽力します。この努力が報われて、大老にまでなります。
 そして、日米修好通商条約の無勅許調印、慶福の14代将軍就任を独裁的に決行します。批判派を大獄で処分します。その結果の桜田門外の変です。
 主君井伊直弼の首をとられた井伊家の家臣は、激昂して、水戸屋敷に討入りを計画しましたが、幕府は「大老井伊直弼は襲撃されたが、生存している」として継嗣をきめるという条件で、穏便にことを処理しました。
 しかし、「井伊掃部と 雪の寒さに 首を絞め」「井伊掃部を 網で捕らずに 駕籠で捕り」という川柳が流行しました。(「いいかもん」(井伊掃部守直弼)とは「いい鴨」という意味です。
 西郷隆盛は、僧月照と共に錦江湾で、入水自殺をはかりました。痩せていた僧月照は、袂に入れた石の重みで海中に沈みましたが、太っていた隆盛は、石の重みより浮揚力が勝っていたので、浮き上がってもがいている所を、通りかかった船頭に救助されました。
 気がついた隆盛は、再度入水しようとした時、船頭になぐられ、「死んだつもりでやれば、何でも出来る」と諌められました。
 薩摩藩は、幕府の追及を恐れて、隆盛は死んだことにして、奄美大島に流罪としました。西郷隆盛の墓が、この時、造られました。

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