159_01
開港とその経済的影響 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1 | 修好条約の締結により、貿易が開始されました。 取り引きの大きい貿易港は、横浜港で、全体の80%を占めました。 1865(慶応元)年の貿易相手国を見ると、イギリスが全体の63%を占め、開国の立役者であるアメリカは15%でした。これは、アメリカの市民戦争(南北戦争)の影響です。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2 | 1865(慶応元)年の貿易品目を見てみましょう。 (1)輸出品は、生糸が79.4%、茶10.5%、その他が蚕卵紙・海産物などとなっています。 (2)輸入品は、毛織物が40.3%、綿織物が33.5%、武器・艦船が13.3%となっています。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
3 |
| ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
4 | 貿易額の推移をみると、 (1)1860〜1867年の間は、輸出額が急増しています。 (2)1860〜1866年の間は、輸出が輸入を上回るという輸出超過であることが分かります。 (3)1866年まで輸出が輸入を上回っています。1867年より輸入が輸出を上回っています。 (4)輸入が1867年に急増しています。その理由は、1866年に改税約書が締結され、輸入関税が20%から率5%に引き下げられたからです。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
5 | 貿易の開始によって、生産構造に影響が出ました。 (1)輸出品である生糸や茶の生産が急増しました。そのため、工場制手工業的な経営が発達しました。 (2)桐生・足利などの製糸業地域は発展しました。 (3)生糸が不足した西陣・結城などの織布地域は打撃を受けました。 (4)綿織物が安価に輸入されたので、綿作・綿織物地域が衰退しました。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
6 | 流通機構にも変化が起こりました。 (1)在郷商人(郷=地方で活動する商人)は、商品を開港地に直送したので、江戸幕府によって保護されていた特権的流通機構が崩壊しました。 (2)輸出により、需給関係に不均衡がおこり、品薄の輸出品を中心に物価が暴騰しました。 (3)外国との間に金銀比価問題が発生しました。日本では、金1=銀5という比率で交換が行われていました。外国では、金1=銀15という比率で交換が行われていました。これを利用した外国人は、本国と日本を往来するだけで、50万両という大金を獲得しました。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
7 | そこで、幕府は様々な対策をとりました。 1860(万延元)年閏3月、五品江戸廻送令を出し、五品(雑穀・水油・堰E呉服・生糸)の江戸経由を命じました。 5月、幕府は、金1=銀15になる万延小判を発行し、外国貿易に使用するよう命じました。この結果、物価が上昇しました。米=100、酒=100 1863(文久3)年、在郷商人・列国は、五品江戸廻送令を無視して、商品を開港地に直送し続けました。その結果、物価が上昇し、米=134 、酒=100となりました。 1867(慶応3)年、物価が暴騰し、米=812、酒=1000となり、庶民の生活を圧迫しました。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
8 |
| ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
9 | 開港により影響を受けた人々は、外国人の日本上陸が、日本人の生活を脅かしたと、感情的にとらえ、外国人を排斥する運動が起こりました。これを攘夷運動といいます。攘夷の攘は「入りこんできたものを、はらいのける。じゃまなものをはらい除く」という意味です。攘夷の夷は「文化の恩恵をこうむらない未開の民族」という意味です。当時の日本人は、外国人を野蛮人と捉え、それを排除しようという野蛮なことをしたのです。 1860(万延元)年、薩摩の浪士は、ハリスの通訳で、オランダ人のヒュースケン(29歳)を江戸の赤羽橋で殺害しました。これをヒュースケン事件といいます。 1861(文久元)年、水戸の浪士は、品川の東禅寺にあるイギリス公使館を襲撃しました。これを東禅寺事件といいます。 1862(文久2)年8月、生麦村で、薩摩の島津久光の行列を横切ったイギリス人を、h摩の侍が殺傷しました。これを生麦事件といいます。 12月、高杉晋作(24歳)が率いる長州の侍が、h摩に負けじと、品川の御殿山にあるイギリス公使館を襲撃し、全焼させました。これをイギリス公使館焼討ち事件といいます。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
統計の見方は、それほど難しくはない | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1 | ペリーの来航が1853年です。日米修好条約締結が1858年です。南北戦争(アメリカでは市民戦争という)が1861年に始まっています。アメリカ大統領のリンカーンが、奴隷解放宣言をしたのは、今から150年ほど前ということになります。 若い歴史のアメリカのブッシュ大統領が、世界をリードする現在、不思議な因縁を感じます。少し前、七つの海を支配する大帝国と言われたのがイギリスです。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2 | センター試験をはじめ、色々な大学入試で、統計の見方を問う問題が出されます。塾や予備校の先生は、とうとうとその見方を説明する。しかし、統計の見方は単純で、そのコツさえ覚えれば、とうとうと説明するようなレベルではありません。 まず、逆転した年代を抑えます。幕末でいえば、1866年まで輸出超過、1867年より輸入超過です。では、逆転するには、それなりの理由があります。それが、改税約書なのです。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
3 | 次に、日本からあっというまに50万両もの金貨が流出しました。それは、日本と外国との間で、金銀比価が異なっていたからです。日本では金1=銀5という比率、外国では金1=銀15という比率が原因です。では、この比率を利用して、外国人はどうして、金貨を持ち出したのでしょうか。 まず、日本に行って銀5を出して金1と交換します。本国に帰って、金1を銀15と交換します。次に日本に行って、銀15を出して、金3と交換します。本国に帰って、金3を銀45と交換します。 幕府は、やっとそのカラクリに気がつき、金1=銀15という比率の万延小判を発行したのです。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
4 | 今まで経験したこともない、軍隊も含め異文化が到来すると、攘夷運動がどこの国でも発生します。朝鮮では東学党の乱、中国では義和団の乱が怒っています。欧米列強は、これを口実に内政に干渉してきます。攘夷運動には、そのような恐ろしさも含んでいます。 異文化には、冷静に、自立的に、対処する必要があります。そのためには、その異文化を正しく把握する必要があります。つい感情的になる話題だけに、慎重に対応したいものです。 |