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エピソード

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安藤信正の公武合体(和宮の降嫁)
 1858(安政5)年4月、井伊直弼大老に就任しました。
 7月、井伊直弼による安政の大獄が始まりました。
 8月、井伊直弼から京都方面の工作を任命されていた長野主膳は、九条家の家臣である島田左近から皇女縁組の相談を受けていました。
 9月、長野主善は、一橋派と連動した朝廷内の動きを押さえるには、皇女を降嫁させ、その代わり経済的援助を行うことを井伊直弼に伝えます。
 10月1日、近衛忠煕は、京都所司代酒井忠義(小浜藩主)に対し、「和宮が降嫁すれば、幕府は天下に公武合体の実を示せるし、条約破棄の方策も立てられるだろう」意見を紹介しています。
 1859(安政6)年4月、孝明天皇の妹(皇妹)である和宮は、有栖川宮と婚約しました。
 1860(万延元)年2月、京都所司代の酒井忠義は、井伊直弼とは別に、橋本実麗(和宮には伯父)に降嫁を依頼しました。
 3月、桜田門外の変で、井伊直弼が暗殺されました。
 閏3月、磐城平5万石の藩主で、老中である安藤信正(42歳)は、関宿6万8000石の藩主で、老中である久世広周の協力を得て、公武合体策を表明しました。公武のとは朝廷のことで、とは幕府のことです。合体とは、天皇家と将軍家の結婚を指します。
 桜田門外以前の降嫁策は、朝廷の動きを抑圧するものでした。しかし、桜田門外以前の降嫁策は、反幕運動を緩和するものへと変化しました。
 4月1日、安藤信正は、老中連署の奉書を京都所司代の酒井忠義のもとへ送りました。酒井忠義は、14代将軍徳川家茂(15歳)の正室として、仁孝上皇の第8皇女で、孝明天皇(30歳)の妹和宮(15歳)との婚儀斡旋を関白九条尚忠に依頼しました。
 5月1日、関白九条尚忠は、酒井忠義のからの強い催促を受け、孝明天皇に、皇妹和宮の降嫁を上奏しました。
 しかし、孝明天皇は、その申し入れを拒否しました。その理由として、(1)和宮は有栖川宮と婚約をしている(2)和宮は年少なので、関東には夷人がいる事を聞いて恐怖しているなどを上げています。
 そこで幕府は、有栖川宮家に対して、和宮との婚約を破棄するよう働きかけています。
 6月4日、幕府は、再度、皇妹和宮の降嫁を上奏しました。この縁組みは、公武一和を内外に示すと共に、攘夷を実行する為でもあると述べています。
 6月20日、孝明天皇は、堂上第一の策士と言われていた岩倉具視(姉の堀河紀子は孝明天皇の寵姫)に相談しました。孝明天皇は、岩倉の意見に従い、外国との通商を止め、鎖国を復旧すれば、速やかに縁談を進めよう、という回答を与えました。
 7月29日、安藤信正は、攘夷の実行を誓約しました。
 7月、水戸と長州の尊王攘夷派は、安藤信正を暗殺することで、幕政を改革するという水長盟約を交わしました。
 8月6日、孝明天皇は、和宮の降嫁を決意しました。
 8月7日、しかし、和宮は、これを固辞します(「御迷惑御困りの御様子、誠に恐れ入り候事共、筆頭に尽くし難し」『橋本実麗日記』)。
 8月13日、和宮が固辞した場合、2歳の寿万宮(母は岩倉具視の姉である堀河紀子)を降嫁させるという話が、和宮に知らされました(「関東へは信義を失い候間、一向急ぎ候儀なれば寿万宮にては如何…公武一和之儀夫には替え難く、天下之為に候得ば尤も熟談に及ぶべく」『九条尚忠公記』)。
 8月14日、和宮は、「2歳の寿万宮が江戸に行く」「兄天皇が退位する」という話を聞いて、降嫁を受諾しました(「心外無念之儀筆頭に尽くし難し、是非なき次第也」『橋本実麗日記』)
 8月15日、和宮は、受諾の意志を伝えると共に、5ケ条の遵守事項を申し出ました。(1)明後年先帝十七回忌の御陵参拝後に江戸に下向(2)先帝御年回の度毎に上洛(3)和宮の身辺は万事御所の風儀を遵守など 
 8月18日、孝明天皇は、降嫁勅許の旨を幕府に伝えました。この時、天皇も5ケ条の遵守事項を申し出ています。
(1)和宮の出した5ケ条を守る事(2)鎖国の回復は必ずする事など
 8月18日、孝明天皇は、九条尚忠に対して、有栖川宮家との婚約破棄の手続きを命じました。
 8月26日、有栖川宮家との婚約が破棄されました。
 9月4日、安藤信正は、徳川慶喜徳川慶勝松平慶永山内豊信らの謹慎を解除しました。
 9月5日、幕府は、和宮が申し出た4ケ条は遵守するが、明後年という時期だけは承諾できないと懇願しました。
 10月5日、和宮は、来年の下向を承諾しました。
 11月14日、安藤信正は、公武合体に自信を深め、水戸の徳川斉昭の永蟄居を解きました。
 1861(文久元)年3月23日、将軍徳川家持は、約束に従い、列強の五カ国に対して、開港開市の延期を通告しました。
 8月、武市半平太瑞山は、江戸で、尊王攘夷派の土佐勤皇党を結成しました。坂本竜馬(26歳)ら192人が、これに参加しました。
 3月28日、長州の長井雅楽は、藩主毛利敬親に対して、航海遠略策を建言しました。
 9月、桂小五郎と結んだ藩政実力者の周布政之助は、航海遠略策を持論とする公武合体派の長井雅楽と衝突して更迭されました。そこで、水長の盟約実行が困難となり、桂小五郎は、水戸の尊攘派に安藤信正の暗殺延期を申し入れました。しかし、水戸の尊攘派は、この機を逃しては実行不可能とし、大名が総登城する「来年の1月15日」を暗殺決行の日としました。その上、王政復古を唱える大橋訥庵ら宇都宮の尊攘派と暗殺計画を練り直しました。
 10月20日、和宮の行列は、京都を出発しました。和宮は、この時の心境を次の歌に託しました。
 「落ちて行く 身を知りながら 紅ばの 人なつかしく こがれこそすれ」
 幕府は、幕府の威厳と警固のために、総勢20万人を動員しました。
 11月1日、安藤信正は、「皇妹和宮が将軍徳川家持へ降嫁」と発表しました。
 12月11日、和宮は、江戸城に入りました。
 1862(文久2)年1月12日、宇都宮の尊攘派である大橋訥庵の同志から計画が露見し、大橋ら宇都宮の尊攘派が逮捕されました。
 1月15日、老中の安藤信正は、自分の暗殺計画を知り、50人の供侍が警護を厳重にしていましたが、坂下門外で、水戸の尊攘激派浪士ら6人に襲われて、負傷しました。水戸浪士の6人は、その場で斬殺されました。水戸浪士の1人は、遅刻してきて無事でした。これを坂下門外の変といいます。
 坂下門外の変の『斬奸趣意書』には、和宮降嫁を悪逆とし、尊攘派の仇敵視を国賊とし、攘夷を行い、天皇の意思を尊重するよう主張しています。
 この時の川柳は「首はある などと供方 自慢をし」とか「あんどう(あんどん)を 消してしまえば 夜明なり」です。
 2月、江戸城内で、将軍徳川家茂と和宮との婚儀が行われました。
 3月、坂本竜馬と吉村虎太郎は、土佐藩を脱藩しました。
 4月11日、幕府は、安藤信正を罷免しました。
 12月、開国・公武合体派の吉田東洋は、倒幕を急ぐ土佐勤皇党により暗殺されました。
 1863(文久3)年9月、公武合体派の山内豊信は、土佐勤皇党を弾圧し、武市瑞山を投獄しました。
皇妹和宮は、替え玉であった?
 1872(明治5)年、和宮は京都へ向かう途中で盗賊に襲われて自害しましたが、岩倉具視はこれを長いこと隠していたという話があります。
 和宮の墓を掘り出した時、湿板写真というガラス板が出てきました。長袴・直垂・立烏帽子姿の若い男性が写っていましが、翌日には、ただのガラス板になっていたそうです。その若い男性をめぐって議論が出ています。 
 勝海舟の話として、次の話が残っています。「天璋院と和宮とは初めは仲が悪るくてね。なに、お附きのせゐだよ。初め和宮が入らした時に、御土産の包み紙に”天璋院へ”とあつたさうな。いくら上様でも徳川氏に入らしては姑だ。書ずての法は無いといつて、お附きが不平をいつたさうな。夫であつちですれば、こつちでもするといふやうに競つて、それはひどかつたよ」(『海舟余波』)                   
 また、作家の有吉佐和子さんは、小説の『和宮様御留』で、降嫁和宮は偽者であったと書いています。
 それによると、和宮が江戸行きを激しく嫌がった理由は、足が不自由だったと書いています。その根拠として、有吉さんは、「孝明天皇は、妹和宮のために、おすそ患い・ご平癒祈願というものを何度も行っている」と指摘します。また勝海舟『氷川清話』には「踏石の上にどう云ふものか天璋院と和宮の草履をあげて、将軍のだけ下に置いてあつたよ。天璋院は先きに降りられたがねー、和宮は之を見て、ポンと飛んで降りて、自分のを除けて将軍のを上げて辞儀なすつた」とあるのを指摘して、足の悪い和宮には出来ないことだと断じています。
 身代わりのフキが和宮として江戸へ向かう途中で、死んでしまいます。結婚を控えていた名主の娘が新たな替え玉となります。名主の娘は最期まで和宮の替え玉をやり遂げました。彼女は、左手の手首から先が欠けていました。
 有吉さんは、和宮の墓を掘り出した時、人類学者の鈴木尚さんが、「左手首については確かになかったようです」という談話を紹介して、和宮は偽者であったと断じています。
 有吉さんの推理には成るほどと思うところもありますが、和宮の史料を見ると、都合のよい部分のみで、小説を構成されています。
 輿入れの行列が数千人、幕府の警護が20万人です。身代わりのフキが、どうして、名主とはいえ、百姓家に行って死ななければならなかったのでしょうか。
 次に、名主といえば、関東の表現です。急に身代わりになった関東娘が、関西でも難しい京言葉、とくに公家言葉を喋ることが出来たのでしょうか。
 私は、小説家には、推論に反する史料をも、飲み込むだけの想像力があって、本当の作家になれると思います。有吉佐和子さんのような大作家でも、当てはまると思います。
 参考までに、鈴木尚さんの意見を紹介します。左手の手首から先が欠けていたことに関して「残念ながらちょっと確信がない」と語り、「貴族の顔のタイプとし見た場合、和宮の替え玉説についてはありえない」と断言しています。

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