print home

エピソード

160_02

島津久光と公武合体
 1862(文久2)年2月、薩摩の島津久光(46歳。藩主島津忠義の父)は、公武合体を成功させるために西郷隆盛(36歳)を召喚しました。しかし、西郷隆盛は島津久光に会うと、「久光公は、斎彬公のように幕府や諸藩の事情に詳しくありません。上洛は延期して欲しい」と訴えました。
 3月、島津久光は、予定通り鹿児島を出発し、西郷隆盛に下関で待つよう指示しました。
 3月、下関に着いた西郷隆盛を待っていたのは、平野国臣でした。大坂の同士は、島津久光の上洛を待って、幕府を倒そうと息巻いているというのです。これを知った西郷隆盛は、島津久光の指示を無視して、大坂に行き、尊攘派の同士に久光の意志(公武合体)を伝えました。
 4月11日、島津久光は、主命に違反したとして、西郷隆盛を沖永良部島に遠島にしました。これは死刑に次ぐ重罪の処分です。
 4月23日、公武合体派の島津久光は、上洛すると、寺田屋にいた薩摩の尊攘派を襲撃し、有馬新七(38歳)ら7人を殺害しました。これを寺田屋事件といいます。この結果、京都は公武合体派が主流となります。
 5月、朝廷は、島津久光の建議をいれて、勅使の大原重徳(62歳)を江戸に派遣することを決定しました。
 6月、長州藩主毛利敬親(44歳)は、尊王攘夷論(尊王論と攘夷論を結合させた思想で、開港以後反幕論に発展)を藩論としました。
 6月10日、島津久光と東下した大原重徳は、将軍徳川家茂に対して、一橋慶喜松平慶永登用の勅旨を伝えました。公武合体派の島津久光の要求を入れた一連の改革を文久の改革といいます。
 7月6日、幕府は、一橋慶喜(26歳)を将軍後見職に任命しました。
 7月8日、幕府は、松平慶永(35歳)を政事総裁職に任命しました。
 8月20日、朝廷は、岩倉具視ら和宮降嫁関係者を処罰しました。
 8月21日、島津久光の行列を横切ったイギリス人を、薩摩藩士が殺傷しました。これを生麦事件といいます。
 川崎の宿を出た島津久光の行列400人は、東海道を鶴見から生麦村に向かっていました。行列が生麦村にさしかかった時、4人の外国人が馬に乗ったまま、行列の前を横切りました。彼らは、川崎大師に行こうとしているイギリス人でした。薩摩の藩士の奈良原喜左衛門らは、無礼討ちと称して、1人を即死させ、2人に負傷させました。
 島津久光は、神奈川奉行阿部正外に事のあらましを報告しました。神奈川奉行の阿部正外は、事態が落着するまで滞留するように求めましたが、島津久光は、そのまま、出発してしまいました。
 後に、これが原因で、薩英戦争に発展します。
 閏8月1日、幕府は、会津藩主の松平容保(28歳)を新設の京都守護職に任命しました。既存の京都所司代の上座として、大きな権力を与えられました。
 閏8月22日、幕府は、参勤交代制度を、在府1年在国1年に緩和しました。従来は、毎年で、時期は、外様大名は4月、譜代大名は6月か8月と規定されていました。
 10月、坂本竜馬(27歳)は、政事総裁職の松平慶永の紹介で、幕府軍艦奉行勝海舟(40歳)と会いました。世界を見てきた勝海舟は、「アジアの国々と連合して西洋に対抗する時に、尊攘だ、天誅だと言っている時代ではない」と説きました。これを聞いた坂本竜馬は、勝海舟の門人になりました。
 11月、京都の尊攘派は、長州の久坂玄瑞(23歳)や高杉晋作(24歳)と連携して、朝廷の三条実美(26歳)を通じて幕府に対して、攘夷の決行を要求しました。
 この結果、京都の主流は、再び、公武合体派から尊攘派に移りました。
 12月、開国・公武合体派の吉田東洋は、倒幕を急ぐ土佐勤皇党により暗殺されました。これを知った山内容堂豊信(36歳)は激怒しました。
西郷隆盛・大久保一蔵・坂本竜馬・高杉晋作、皆20代!!
 薩摩の島津久光が公武合体を唱えて、歴史の桧舞台に立とうとしたとき、西郷隆盛の召還に尽力したのが大久保一蔵(利通)です。お由羅騒動の時の中心人物が西郷と大久保です。
 島津斉彬がなくなった後、西郷隆盛は、不器用にも尊攘派として活動し、自殺を計ります。一方、大久保一蔵は、次の藩主である島津忠義の父の久光が碁好きを利用して、「碁に関しては薩摩に一蔵あり」と猛烈に勉強し、久光に重用されるようになりました。
 私の知人の話です。前の部長が盆栽好きなら、旅行に行っては盆栽を買ってくる社員がいました。次の部長は、ゴルフが好きです。その社員は、「部長、やはりゴルフが一番ですね」と言っては、せっせとゴルフ道具を運んだといいます。世の中には、大久保一蔵的な処世術が出来る人がいるもんだと、感心したものです。
 生麦事件の被害者は、イギリスのハード商会に勤める若者でした。極東の日本に、イギリス人女性、特に若いイギリス人女性が訪ねてくることはありません。そこへ若い女性マーガレットがやって来ました。そこで、若い3人の男性は、近所で有名な川崎大師にマーガレットを案内することにしました。
 上司から、「今頃は、参勤交代で国許に変える大名行列があるので、注意するように」と忠告されていましたが、女性を迎えて興奮していた彼らの記憶には、残っていませんでした。先頭のリチャードソンが即死、残りの2人も負傷、マーガレットは帽子と髪の一部を切られました。
 今風に表現すると、何組かのアベックが単車でツーリングしました。ある女の子から「もっと飛ばしたら」と言われた男の子がエンジンをふかします。女の子が「キャツキャツ」と喜びます。他の組も、「あの子らに負けるな」とハッパをかけられます。気がついてみたら速度オーバーで、お巡りさんに捕まっていました。「女の子を乗せるのはいいが、乗せられるな」という教訓です。
 ペリーの黒船を見た坂本竜馬は、千葉周作道場の跡取話を断って、自分探しの旅をします。幕府の迷走ぶりを怒った竜馬は、勝海舟に会見を申し込みます。話し次第では、日本の為に勝を切る覚悟だったと言います。
 竜馬は、無人の部屋に入って行くと、海舟は洋机に座って書き物をしていました。そして、竜馬は、勝から世界的視野に立つ話を聞かされ、門人になります。時に竜馬は27歳、海舟は40歳でした。まさに青雲の志です。
 他方、高杉晋作は24歳で長州藩を動かす実力者になっています。
 最近、選挙に20代・30代・40代の人が立候補するようになりました。とても、いいことです。TV発言を聞いても、老害を口負かしています。しかし、未曾有の国難という意識の人はまだ少ない。政治家たるもの、世界的視野に立って、日本の指針を示すべき時だと思います。コップの中の騒ぎの時代は、をとっくに終わってますよ。

index