print home

エピソード

161_01

尊王攘夷(外国船砲撃事件)と公武合体(八・一八事件)
尊王攘夷(外国船砲撃事件)
 1863(文久3)年3月7日、孝明天皇の妹和宮を降嫁する時の条件に、攘夷実行を約束させられていた14代将軍徳川家茂(18歳)は、3000人を率いて上洛を決行しました。3代将軍徳川家光以来229年ぶりの上洛になります。
 3月11日、尊攘派の長州の提案で、孝明天皇が賀茂神社に行幸し、将軍徳川家茂も騎馬で同行しました。これを見た京都市民は、尊攘決行の空気を感じ取りました。
 4月11日、将軍徳川家茂は、「5月10日を期して攘夷を決行する」ことを諸藩に命令しました。
 5月11日朝、アメリカ船ベムブローブ号が、長崎に向かおうと、下関海峡にさしかかると、将軍徳川家茂の命令に従って、長州藩の軍艦である庚申丸癸亥丸が砲撃しました。アメリカ船ベムブローブ号は意味が分からず、ひとまず豊後水道方面に遁走しました。
 5月21日夜、フランス軍艦キンシャン号が、長崎に向かおうと、下関海峡にさしかかると、長州藩の海峡守備兵が砲台から発砲しました。フランス軍艦キンシャン号は被弾したので、同乗していた公使館書記官がその理由を詰問しようと、ボートに乗り移ると、これをも砲撃しました。仕方がないので、豊後方面に遁走しました。
 5月25日夜、長崎から横浜に向かうオランダ軍艦メデューサ号が、下関海峡にさしかかると、長州藩の軍艦癸亥丸がオランダ軍艦メデューサ号に対して、大砲を撃ちこみました。陸上の砲台も発砲しました。
 これら一連の砲撃事件を長州藩外国船砲撃事件といいます。
 6月1日、この攘夷の報告を聞いたアメリカ公使のブリューインは激怒し、直ちに、アメリカ軍艦ワイオミング号を下関に派遣しました。
 アメリカ軍艦ワイオミング号は、門司岬の岸に達したとき、長州藩の癸亥丸・庚申丸・壬戌丸の3軍艦が攻撃しようと、1列になりました。これを見た百戦錬磨のアメリカ軍艦ワイオミング号は、急に3軍艦めがけて直進し、亀山砲台の真下に達しました。しかし、亀山砲台には砲首を上下する設備がなく、接近し過ぎると砲撃できません。
 アメリカ軍艦ワイオミング号は、亀山砲台に一方的な攻撃を加えて破壊しました。次に、庚辰丸に砲撃を集中し、庚申丸を撃沈させました。次に癸亥丸の左舷に出て、交戦しました。アメリカ軍艦ワイオミング号は、癸亥丸と交戦しながら、壬戌丸の右舷に出ました。壬戌丸には大砲がなく、小銃で応戦しましたが撃沈されました。
 アメリカ軍艦ワイオミング号は、出動の目的を達して、横浜に帰りました。
 6月5日、この攘夷の報告を聞いたフランス公使ベルクールも、東洋艦隊司令官ジョーレス少将にセミラミス号タンクレード号の2艦を率いさせて、下関に派遣しました。
 司令官ジョーレス少将は、牽制のため、陸上の前田砲台に攻撃を加えました。前田砲台も応戦し、タンクレード号のマスト2本を破壊しました。しかし、タンクレード号は、前田砲台を撃破し、陸戦隊は上陸しました。陸戦隊は、付近の民家に放火したので、長州藩の守備兵は、陣地を捨てて後退しました。
 フランスの陸戦隊の上陸に、長州藩兵も直ちに救援に壇ノ浦まで出動しました。それに対し、フランスの軍艦が雨のように弾丸を降らせたので、長州藩兵は下関方面に退却しました。その隙に、陸戦隊を収容したセミラミス号は、横浜へ帰りました。
 6月7日、タンクレード号は、マストなどを修理して、横浜に帰りました。 
公武合体(八・一八事件)
 1862(文久2)年1月、薩摩の島津久光公武合体派)が、上洛しました。薩摩の尊攘派である有馬新七らを、寺田屋で殺害しました。これを寺田屋事件といいます。これをきっかけに京都は公武合体派が主導権を握ります。
 7月、九条家の家臣である長野主善と共に公武合体策を担当していた島田左近が何者かに殺され、その首が四条河原にさらされました。これを、最初の「天誅」といいます。
 11月、長州の尊攘派である久坂玄瑞高杉晋作らは、朝廷の三条実美らと謀り、攘夷の行を幕府に要求しました。これをきっかけに京都は尊攘派が主導権を握ります。
 8月、将軍徳川家茂の攘夷決行命令に対して、朝廷内で対立が起こりました。
 尊攘派は、幕府を無視して攘夷実行を迫り、公武派は、幕府と協力して攘夷実行を主張しました。
 8月13日、尊攘派が優勢になると、攘夷祈願のための大和行幸、親征軍議のための伊勢参拝の勅が出ました
 8月14日、尊攘派の公卿中山忠光は、京都郊外の方広寺に同志を結集しました。土佐の吉村寅太郎(27歳)や三河の松本奎堂ら38人、それに備中の藤本鉄石が参加しました。
 8月17日夕、土佐の吉村寅太郎らは、自らを天誅組と称して、大和の五条代官所を襲撃しました。十津川の郷士も参加しました。一時的にはこの襲撃や成功します。これを天誅組の変といいます。その後孝明天皇は、大和行幸を中止したので、天誅組の乱は大義名分を失うことになり、壊滅します。
 8月17日、尊攘派の現実を知った孝明天皇は、公武派に転換しました。この動きを察知した薩摩藩は会津藩主で京都守護職松平容保と相談し、公武派の公卿中川宮を介して孝明天皇に働きかけ、尊攘派の公卿三条実美ら7名と長州藩の追い出しをはかりました。そして、「君の側より過激派を追放せよ」との勅を得ました。会津の兵は、「国家の害を除くべし」との勅を得ました。
 8月17日夜、中川宮らの「非常の大議あるゆえ、守護職・所司代は、それぞれ人数を引率して子之半刻に参内すべし」との令旨がありました。さらに薩摩藩にもこの旨を通達するよう令旨が下りました。
 8月18日午前1時、皇居内には中川宮をはじめ守護職松平容保・京都所司代稲葉正邦が入り、その後、武装した会津・淀の両藩兵が入りました。薩摩藩兵は、近衛忠煕の参内を警護して、禁裏の九門内に入りました。
 8月18日午前4時、九門警護配置完了を知らせる砲声と同時に、非番の尊攘派公卿の参内が拒絶されました。長州藩士は九門の外へ締め出されました。三条河原町の藩邸にいた長州藩士が、九門に駆けつけましたが、どうすることも出来ませんでした。長州藩の家老真木和泉も、三条実美邸に駆けつけたが、何も出来ませんでした。この結果、京都は公武合体派が主導権を握ります。これを八・一八の政変といいます。
 8月18日夕刻、尊攘派の公卿三条実美や長州藩士ら2600人は、京都郊外の妙法院に集結しました。
 8月19日午前3時、三条実美・三条西季知東久世通禧壬生基修四条隆謌錦小路頼徳沢宣嘉の公卿(七卿)は、やむなく、長州に西下することにしました。これを七卿落ちといいます。
 10月12日、筑前の平野国臣・薩摩の三玉三平・但馬養父郡の豪農北垣晋太郎・同大庄屋中島太郎兵衛ら30人余は、天誅組に応じて挙兵計画を立てていました。そこへ、七卿の沢宣嘉が長州藩士河上弥一らと但馬にやってきました。そこで、沢宣嘉を擁して、但馬生野の農民2000人も参加したて、但馬生野の幕府代官所を襲撃しました。
 10月15日、周辺諸藩の出兵がはじまると、内部分裂により3日間で鎮圧されました。これを生野の変といいます。沢宣嘉が脱出に成功すると、平野国臣は兵を解散し、城崎に敗走する途中、捕らえられ投獄されました。
 1864(元治元)年1月、平野国臣は、姫路藩獄舎を経て、京都六角獄に移されました。
 7月20日、禁門の変が起こると、平野国臣(37歳)ら37人が処刑されました。平野国臣は、髪すでに雪のように真っ白だったといいます。
外国船に砲撃、植民地化の危機。平野国臣という人は?
 列強により、仕組まれたアヘン戦争やアロー号事件をきっかけに、中国は植民地化されていきました。
 長州は、列強のアメリカ・フランス・オランダの軍艦を砲撃します。列強がこの事件を利用して、日本の植民地化を意図すれば、日本は最大のピンチを迎えることになります。この苦境を日本は、如何にして克服したのでしょうか。
2  こうした状況下に、高杉晋作(25歳)は、身分に関係のない軍隊の創設を建白しました。これが後の奇兵隊です。建白した高杉晋作も凄いが、これを許可した藩主の毛利敬親(身分制の頂点にたつ)も偉いと思います。
 このような人材が日本にはたくさんいたのです。武士は、責任を取って、いつでも死と向き合っていました。
 今、死と向き合って、自分の職責を全うする指導者はいるでしょうか。
 「我が胸の 燃ゆる思ひにくらぶれば 煙はうすし 桜島山」という歌は多くの方が知っています。しかしこの歌の作者が誰かを知る人はあまりいません。
 この歌の作者は、筑前平野国臣です。平野国臣は、筑前黒田家に仕える足軽の次男です。
 安政の大獄で、井伊直弼の追求を逃れた西郷隆盛と月照が、薩摩に入るのに尽力したのが平野国臣です。その甲斐もなく、西郷と月照は錦江湾に身を投げました。平野国臣は、西郷と月照を救助して、蘇生させましたが、月照は既に息絶え、西郷は息を吹き返しました。平野国臣は、西郷の命の恩人と言われています。
 その後、筑前黒田藩の平野国臣に対する追捕は厳しく、平野国臣は、上京したり、備中・薩摩・肥後・下関と潜伏し、生野の変により、処刑されたのです。
 平野国臣の37年間の生涯を思うと、冒頭の歌の意味が理解できる気がします。

index