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エピソード

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新撰組と池田屋事件・禁門の変(蛤御門の変)
新撰組の成立と、その役割
 1862(文久2)年閏8月1日、会津藩主の松平容保京都守護職に任命されました。その任務は、長州などの尊攘派の過激な行動や天誅と称する暗殺などの取締りです。
 12月、京都守護職の松平容保は、藩兵1000人を率いて京都に入りました。
 12月19日、京都守護職の松平容保の要請を受け、幕府は、将軍徳川家茂の上洛のため、「毒を以って毒を制する」という方針の下で、身分に関係ない実力者を浪士として徴募すると発表しました。
 1863(文久3)年1月、永倉新八が、浪士徴募の情報を知らせました。
 2月4日、清河八郎が、江戸小石川伝通院で幕府直轄隊編成のための浪士の会合を持ちました。将軍徳川家茂上洛の警護のためと称して、腕に自信のある234人で「浪士隊」が結成されました。
 2月10日、上洛する途中、芹沢鴨ら10人の宿割がなかったので、芹沢鴨が激怒し路上で篝火を焚く事件がありました。
 2月23日、「浪士隊」は京都の壬生にある新徳寺に本部を設置しました。近藤勇試衛館仲間と共に参加しました。ところが、清河八郎が尊攘の大義を講じて、尊王倒幕の任務を説きました。しかし、近藤勇や芹沢鴨ら23人は、幕府の為に京都を護衛するのが本務として、京都守護職の松平容保の支配下に入ることを主張しました。これを京都残留浪士組といいます。
 3月3日、関白の鷹司より江戸に帰るよう命令が出ました。
 3月4日、14代将軍徳川家茂が上洛しました。
 3月12日、京都残留浪士組の24人が、京都守護職の松平容保の支配下に入りました。この中には、芹沢鴨・近藤勇・土方歳三沖田総司山南敬介藤堂平助・永倉新八・平間重助らがいました。
 3月13日、清河八郎ら江戸帰りの浪士組は、京都を出発しました。
 4月13日、清河八郎は、麻布一之橋で佐々木只三郎らに斬殺されました。
 4月21日、京都残留浪士組は、将軍徳川家茂が京都から大坂に帰る道中を警護をしました。
 6月13日、京都残留浪士組は、海路から江戸に帰る将軍徳川家茂を、天保山まで警護をしました。
 8月13日、芹沢鴨は、大和屋庄兵衛宅を焼き討ちしました。
 8月18日、京都残留浪士組は、八・一八の政変の時に、蛤御門の警備に出陣しました。幕府の武家伝奏から「新撰組」という名を与えられ、市中取締りの任務を命じられました。
 9月16日、近藤勇らは、八木邸で、芹沢鴨らの寝床を闇討ちし、斬殺しました。
 1864(文久4)年1月2日、新撰組は、将軍徳川家茂が上洛するのを警護する為、大坂に向かいました。
 1月8日、新撰組は、大坂城に入る将軍徳川家茂を警護して、天保山から天満橋まで同道しました。
 1月14日、新撰組は、将軍徳川家茂の上洛に先立って、京都市中の警備にあたりました。 
 1864(元治元)年6月5日、池田屋事件がおこりました。
 7月18日、新撰組は、禁門の変蛤御門の変)の時、九条河原に出陣しています。
 1865(元治2)年2月23日、新撰組の山南敬介は、脱走の罪により切腹しました。介錯は沖田総司が勤めました。
 1867(慶応3)年6月10日、近藤勇・土方歳三ら新選組の105人は、幕府に召し抱えられ、晴れて旗本となりました。
 6月14日、茨木司ら4人は、京都守護職へ新撰組離隊の嘆願書を提出しました。近藤勇・土方歳三は、4人を京都守護職の屋敷で説諭しましたが、成功せず、4人を殺害しました。
 6月22日、新撰組離隊の武田観柳斎は、竹田街道の銭取橋で、新撰組によって殺害されました。
 11月18日、新撰組を脱走していた伊東甲子太郎は、本光寺門前で斬殺されました。その亡骸を引き取りに出向いた鈴木三樹三郎(伊東甲子太郎の弟)も襲撃され、藤堂平助らの新撰組より斬殺されました。
池田屋事件
 1864(元治元)年5月、将軍徳川家茂が、江戸に帰りました。島津久光伊達宗城松平慶永も帰国し、京都の警備は手薄となりました。
 この機会を待っていた長州藩士や尊攘派は、祇園祭の前の風の強い日に京都御所中川宮邸に放火し、その混乱に乗じて、中川宮朝彦親王(後の久邇宮朝彦親王)を幽閉し、京都守護職松平容保らを暗殺し、孝明天皇を長州へ連れ去るという計画を謀りました。
 5月下旬、新選組は、炭薪商の枡屋(古高俊太郎)を捕らえました。土方歳三は、激しい拷問を行い、古高俊太郎を自白させました。その結果、陰謀の全容が判明しました。
 さらに、新撰組は、長州藩などの過激派が古高俊太郎の逮捕で、「計画を実行するか、中止するか」の協議を池田屋四国屋で行うという話を入手しました。
 6月5日、土方歳三ら24人は、四国屋へ向かいました。近藤勇(31歳)ら10人は、池田屋へ向かいました。近藤勇、沖田宗司永倉新八藤堂平助ら4人が屋敷内に切り込み、残り6人は屋外を固めました。池田屋には、尊攘派が20人ほどいました。沖田宗司は、戦闘中に喀血して倒れました。藤堂平助は、額を斬られて戦えなくなりました。
 その内、四国屋へ向かっていた土方歳三ら24人が、池田屋に駆けつけました。戦いは2時間に及びました。その結果、松下村塾四天王の1人といわれた吉田稔麿(長州)や宮部鼎蔵(肥後)ら7人が切り殺されました(「殉難七士」)。10人ほどが逮捕されました。これを池田屋事件といいます。この事件により、禁門の変がおき、また明治維新が1年遅れたといわれています。
 会津・桑名藩士の援軍は、計ったように、戦闘後に到着しました。土方歳三は、その態度に怒って、援軍を現場に入れなかったといいます。
 新撰組は、京都御所焼き討ち計画を未然に防いだということで、有名になりました。
禁門の変(蛤御門の変)
 1864(元治元)年7月18日、八・一八の政変池田屋事件で大打撃を受けた長州の尊攘派は、3家老の福原越後真木和泉は、京都市内に進軍しました。しかし、福原越後は丹波橋付近で敗北します。
 7月19日夜、長州の国司信濃と真木和泉は、下立売門から京都御所へ突進しました。そこで、蛤御門を警備していた会津桑名の藩兵や新撰組と正面から衝突しました。長州藩の勢いはすごく、会津兵を退け、御所に迫りました。この状況に、西郷隆盛は、藩兵を率いて蛤御門に駆け付け、長州藩兵を退けました。長州藩は、幹部の多くが戦死しました。この中には、来島又兵衛久坂玄瑞(25歳)などがいました。真木和泉(52歳)も、天王山で同志16名らと自害しました。これを禁門の変または蛤御門の変といいます。
 7月21日、孝明天皇は、蛤御門の変に関し、長州追討の勅命を発しました。この結果、長州は朝敵となってしまったのです。
 この項は、『日本合戦全集』『歴史群像』などを参考にしました。
新撰組はどこに人気が?、桂小五郎と高杉晋作
 昨年も、NHK大河ドラマで新撰組が放映されました。今も、近藤勇・土方歳三・沖田宗司らを主人公にした新撰組の番組・小説が、たくさん作られたいます。
 しかし、事実をみると、新撰組は、幕府の犬として、明治維新に関わりのある若者を殺害している存在です。
 また、鉄の規律の為に、連合赤軍を想像させるリンチ殺人事件で、多数の仲間を殺害しています。
 近藤勇は、局中法度を定め、組織の拡大と鉄のような規律を図ります。その内容は以下のようなものです。
「一、士道に背くまじき事
 一、局を脱するを許さず
 一、勝手に金策致すべからず
 一、勝手に訴訟取扱うべからず
 一、私の闘争を許さず」
 志士と新選組の双方には、それぞれ主張があり、一概に善悪の判断はできないという人もいます。
 共に、信念に従って、自分の生きる道を貫き、命をかけた戦ったという事実が貴重であるという人もいます。
 私は、どうも納得できません。時代の変わり目には、新しく生まれる体制と、滅びる体制が存在します。その滅びる体制に殉じたという「滅びの美学」が、人々の共感を呼ぶのかもしれません。
 新撰組三羽烏の出身を調べてみました。
 近藤勇は、武蔵国の農家に生まれました。天然理念流近藤周助の養子となり道場を継ぎました。
 土方歳三は、武蔵国の農家に生まれました。
 沖田総司は、よく分かったいませんが、白川藩の脱藩者とも言われています。
 幕府の旗本に取り立ててやるという条件が、彼らを純粋で、残酷な殺人者にしたのかもしれません。その純粋さが、人々の共感を呼ぶのかもしれません。
 桂小五郎(後の木戸孝允)は、本来なら、池田屋にいたのです。しかし、到着が早すぎたので、一度本拠地にもどり時間を待っている間に、池田屋事件がおきました。その結果被害にあわなかったのです。英雄は、危機をも見方にするということでしょうか。
 もう1人の英雄である高杉晋作(奇兵隊の創設者)は、久坂玄瑞(奇兵隊の幹部)から蛤御門の攻撃を持ちかけられた時、それを断っています。その時、久坂玄瑞から「臆病者めが!」と罵られます。しかし、高杉晋作は「時期を見ない勇気は、蛮勇である」と答えたと言うことです。高杉晋作が、蛮勇で蛤御門の攻撃に参加していたら、歴史は大きく遅れたことでしょう。

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