print home

エピソード

162_01

攘夷運動の挫折T(薩英戦争)
薩英戦争
 1862(文久2)年8月21日、薩摩藩の国父である島津久光が江戸を発って、帰京の途中、その行列を横切ったイギリス人を、奈良原喜左衛門らは無礼討ちと称して殺傷しました。これを生麦事件といいます。
 これを知ったイギリス代理行使のニールは、保土ヶ谷宿に入った島津久光を襲撃して捕えようとの強硬意見を抑え、外交ルートでの決着を図りました。ニールは、「4人が被害にあった場所はイギリス人が遊歩することが許可された地区である」として、幕府と薩摩藩に謝罪と犯人の引き渡し及び賠償金の支払いを要求しました。
 1863(文久3)年2月、イギリス代理公使ニールは、イギリス東洋艦隊7隻を横浜に入港させ、武力を背景に、謝罪と10万ポンドの償金を要求しました。さらに、艦隊を薩摩に派遣して直接薩摩藩と交渉し、犯人の捕縛と斬首及び償金2万5000ポンドの支払いを要求することを通告した。
 5月、幕府は、何とか穏便にと10万ポンド賠償金を支払います。しかし、薩摩藩は、「犯人も行方不明である」として、要求を拒否しました。
 6月22日、イギリス代理公使ニールは、交渉を打ち切り、ユーリアラス号を旗艦とする7隻のイギリス東洋艦隊を横浜から鹿児島に向け出港させました。
 この艦隊には、イギリス東洋艦隊司令官キューパー少将、イギリス代理公使ニール陸軍少佐、通訳生アーネスト・サトウらが乗り込んでいました。英国代理公使ニールは、幕府に対して成功したように、世界最強のイギリス東洋艦隊の武威を示すことで、イギリス側の要求を通そうと考えていました。石炭など補給物資が少ないことからも、その意図が理解できます。
 6月27日午後2時すぎ、イギリス東洋艦隊は、鹿児島湾に到着しました。薩摩藩は、イギリス東洋艦隊の出現に総動員をかけ、開戦の備えました。
 6月27日夕、イギリス東洋艦隊は、鹿児島湾奥深く進入しました。
 6月28日朝、イギリス東洋艦隊は、鹿児島市街に接近して、前之浜の前面に単縦陣を敷いて投錨し、使者を上陸させて生麦事件の賠償を要求しました。薩摩藩は、この要求を拒否しました。
 6月29日、薩摩藩は、81人でなる決死隊を組織して、商人に変装させてイギリス艦に分乗させ、陸上からの合図でイギリス艦隊の首脳を倒そうとした計画しました。この計画は中止となりましたが、イギリス東洋艦隊は、警戒を厳しくし、桜島の小池沖に移動しました。
 7月2日未明、イギリス東洋艦隊は、薩摩藩の砲艦3隻を拿捕しました。折からの暴風雨で、イギリス東洋艦隊は、海上で翻弄されており、これを見た薩摩藩は、固定した陸上からの砲撃が有利だと判断して一斉に砲撃を加えました。これが薩英戦争の開始です。
 薩摩藩の戦力をみると、10の砲台に合計83門の砲を配置していました。5隻の軍艦を所有していました。イギリスの戦力をみると、7隻の軍艦に合計101門の砲を装備し、その22門は最新式のアームストロング砲でした。
 戦闘の経過をみると、まず薩摩藩が、暴風雨の中で砲撃を開始しました。イギリス東洋艦隊にとってこれは予期せぬ出来事でした。パーシュース号は、砲弾数発が命中し、錨を上げる暇もなく、錨鎖を切断して退きました。また、旗艦ユーリアラス号は、初弾を発射するのに2時間もかかっています。
 イギリス東洋艦隊は、徐々に体制を整えて反撃に出ました。天候も回復したので、集成館祇園州砲台を全滅させました。次に、弁天波止場砲台を攻撃しました。しかし、旗艦ユーリアラス号は、逆に弁天波止場砲台から激しく砲撃されて、甲板に直撃弾を受け、艦長ジョスリング大佐と副長ウィルモット中佐らが戦死しました。被弾を受けたコケット号は自力で航行が出来なくなっていました。イギリス側の死者は63人の及びました。
 薩摩藩は、イギリス東洋艦隊の世界最新式アームストロング砲により、砲台を8割近く破壊され、市街地の多くを焼失しています。薩摩側の死者は17人でした。
 イギリス東洋艦隊は、武力制圧が目的でなく、武威のデモンストレーションが目的でした。しかし、予期せぬ薩摩藩の反撃にかなりの被害を受け、石炭の備蓄も少なくなって、これ以上の戦闘は困難な状況でした。
 薩摩藩も、8割の砲台を失い、軍艦3隻や集成館を焼失しては、イギリス東洋艦隊の攻撃から市街地を守ることは困難な状況でした。
 7月3日、イギリス東洋艦隊は、南下して谷山沖に仮泊して艦隊を修理しました。
 7月4日、イギリス東洋艦隊は、鹿児島を去りました。
 9月28日、薩摩藩は、横浜のイギリス公使館でニールと講和会議を開始しました。
 11月1日、薩摩藩は、横浜のイギリス公使館で、「生麦事件の賠償金2万5000ポンド(6万300余両)を幕府から借用して支払う」「下手人は捜索・逮捕次第死罪に処す」という文書も交付しました。イギリス代理公使ニールは、「薩摩藩のために軍艦購入の周旋をする」という文書を交付しました。
 この文書で、下手人…以外の約束は果たされました。
薩英戦争は、列強との最初の戦争
 イギリス本国は、英国代理公使ニールに武力による制圧は、以後貿易に悪影響が出るから、武威による制圧を訓令しました。イギリスは、1857年のインドにおけるセポイの反乱を外交に教訓にしたのです。
 薩摩藩の対応もすばやく、鋭いものでした。
 その結果、薩摩藩は、2万5000ポンドの賠償金を支払いました。しかし、このお金は、幕府からの借金で賄われました。幕府は、イギリスとの友好に努めたのです。しかし、イギリスは、薩摩藩に近代的な兵器を援助し、その薩摩藩が西南の雄藩として、倒幕の中心になったことは、皮肉でもあります。
 七つの海を支配する大英帝国のイギリス東洋艦隊と戦い、外交上も対等に戦い、海軍の近代化を進めた当時の薩摩藩のリーダーは誰だったのでしょうか。現在の墓穴を掘るリーダーとの差はどこにあるのでしょうか。
 この薩英戦争では、東郷平八郎や西郷従道(西郷隆盛の弟)など下級武士で、後の日本海軍の中心人物も参戦しています。
 東郷平八郎は、この時、イギリス海軍の力を認め、後に、海軍の留学生としてイギリスに学び、帆船ハンプシャー号で世界一周を体験しました。
 同じ体験をしても、敵の偉大さを認め、そこからエネルギーを吸収するという謙虚さが感じられます。
 先日(2005年5月)、私と妻は、オーストリアへ行ってきました。2〜3年着た下着やパジャマを小さいトランクに詰め、行き先々で捨てる旅行をします。最後は着て帰る以外は、トランクに何も残さない主義です。ところが、私が捨て、妻が捨てたので、中日にアンダーシャツが無くなってしまいました。そこで、ザルツブルクのスーパーでアンダーシャツを探しました。殆どが、「XXL」サイズです。日本では「LL」か「LLL」が最大です。やっと「M」のランニングを見つけましたが、袖なしの袖が上腕部に降りてきました。
 トイレの小便器が高い高い。背伸びしなければ、出来ない。
 レストランで、オーストリア人の食事を見ていると、肉の量がとてつもなく大きい。その量がびっくるするほど多い。これでは背が高く、大男・大女になるはずだと分かりました。地域が変われば、文化が変わる。そのことを改めて理解した旅行でもあります。
 生麦事件のとき、大名行列を馬で横切って殺害されました。イギリス人にとって、馬上から大名を見下ろすことが、殺害に値するマナー違反だとは理解できなかったのでしょう。これを理解することから外交が始まるのです。

index