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エピソード

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攘夷運動の挫折U(四国艦隊下関砲撃事件)
 1863(文久3)年5月、長州藩は、下関海峡を通過するフランス・アメリカ・オランダの軍艦を砲撃しました。これを長州藩外国船砲撃事件といいます。
 8月18日、八・一八の政変で、長州の尊攘派が京都より追放されました。
 1864(元治元)年1月、イギリス公使オールコックは、本国からの訓令を持って帰任しました。貿易の悪化は、攘夷運動にあると分析し、攘夷運動の不可能なことを知らしめるという内容でした。
 4月25日、オールコックは、アメリカ・フランス・オランダに対して、下関を砲撃して海峡の封鎖を解く案を出しました。
その結果、四カ国代表の連携が成立しました。
 6月5日、池田屋事件で、長州藩は有能な人材を失いました。
 6月29日、四カ国は、下関砲撃に関する具体的方策を協議して、軍事行動計画を策定しました。幕府に対しては、20日間の期限付きで、下関海峡の通行についての安全保障を要求し、保証が得られない場合は、無警告で軍事行動を起こすことを通告しました。 
 7月11日、四カ国は、既定方針を再確認するとともに、作戦計画を再点検しました。
 7月18日、禁門の変で、長州藩は朝敵となりました。
 7月18日、四カ国は、幕府に対して、連合艦隊の出撃を通告しました。
 7月23日、幕府は、朝廷から長州討伐の勅命を得て、下関に出兵しました。これが第一次長州征伐といいます。この征伐軍の総参謀が薩摩藩の西郷隆盛でした。
 7月24日、四カ国の公使は、横浜に会合して協議し、最終的に武力駆使することを確認しました。そして、連合艦隊の司令長官にイギリスのキューパー中将、副司令長官にフランスのジョーレス少将を決定しました。
 7月27日、連合艦隊は、横浜を出港し、豊前の姫島沖に向かいました。
 連合艦隊の戦力を見ると、イギリスが9隻164門・兵力2850人、フランスが3隻56門・兵力1155人、オランダが4隻56門・兵力951人、アメリカが1隻4門・兵力56人、合計すると17隻288門・兵力5014人に及びました。
 横浜には、イギリス艦4隻・アメリカ艦1隻が待機していました。イギリスの植民地である香港からは、イギリス陸軍1351人が横浜に派遣されていました。長崎にも、イギリス艦が1隻停泊していました。
 8月4日、旗艦ユーリアラス号を先頭に、戦闘隊形を整え、下関海峡に進みました。中央はイギリス艦隊、左翼にはフランス艦隊・アメリカ艦隊、右翼にはオランダ艦隊を配置しました。連合艦隊は、海峡の入り口から約3キロの地点に投錨して、前田砲台を攻撃する態勢を整えました。
 8月5日早朝、午後4時10分、バロッサ号ターター号・レオパード号(イギリス)、ジャンピー号メターレン号クルイズ号(オランダ)の6隻は、海峡入り口を南岸に沿って田ノ浦前方に進みました。パーシューズ号コケット号バウンサー号(イギリス)、メデューサ号(オランダ)、タンクレード号(フランス)の5隻は、予備艦としてその後方を進みました。
 旗艦のユーリアラス号・コンクァラー号(イギリス)、セミラミス号(フランス)、テイキャング号(アメリカ)の主力4隻は、前田砲台の沖合い約5キロの地点に投錨しました。
 8月5日、旗艦のユーリアラス号が戦闘開始の合図をすると、連合艦隊は一斉に砲撃を開始しました。長州藩の各砲台も応戦しましたが、大砲や訓練の精度の差がありすぎ、州崎の長府砲台が破壊されました。
 バウンサー号・コンクァラー号・アーガス号(イギリス)、メデューサ号(オランダ)、タンクレード号(フランス)の5隻は、発砲しながら満珠島千珠島の間から、長府岬の全面に進み、さらに前田の沖にまで進んで、前田砲台に大砲を浴びせました。長州の砲台守備兵は、角石の陣に退きました。
 8月5日夕、バーショース号(イギリス)は、前田砲台の前面に近接しましたが、長州藩からの応戦がないので、陸戦隊を上陸させ、破壊を免れていた大砲を破壊しました。その後、連合艦隊は、沖合いに移動しました。
 8月6日早朝、連合艦隊が出撃すると、軍艦の山県有朋は、壇ノ浦を守備していた奇兵隊に命じて、至近距離にいるターター号(イギリス)・デプレー号(フランス)を砲撃させました。油断していた両艦は、予期せぬ反撃に驚いて衝突事件を起こしました。
 旗艦のユーリアラスの艦長アレキサンダーは、陸戦隊を上陸させて、前田の3砲台を占領しました。
 8月7日未明、連合艦隊は、彦島南端の弟子待・山床に2砲台を砲撃した後、陸戦隊を上陸させ、砲60門を捕獲したり、弾薬を海中投棄しました。
 8月8日、長州藩は、奇兵隊の創設者である高杉晋作(26歳)を講和使に任命しました。高杉晋作は旗艦のユーリアラス号のキューパー司令長官を訪ね、休戦を申し入れました。
 8月14日、正式に講和条約が成立しました。その内容は(1)下関海峡の通行の自由を認める(2)賞金300万ドル(225万両)を支払う、というものでした。
 11月、長州藩は、幕府に恭順の意を表明しました。それに対して幕府側の出した条件は、(1)藩主毛利敬親父子の謝罪(2)長州藩3家老と4参謀の処刑(3)三条実美ら「七卿落ち」のうち5人の公卿の引き渡し、というものでした。長州藩の保守層をこれを受け入れようとしました。
 しかし、若手の高杉晋作や伊藤博文ら革新派は、これに反対しました。そこで、西郷隆盛は、5人の公卿を福岡藩に移すことで、保守派と革新派の対立を妥協させました。
 12月、第一次長征軍は、長州から引き上げました。その後保守派が台頭してきました。
 1865(慶応元)年1月、若手の高杉晋作や伊藤博文ら革新派は、クーデターを敢行して、それ以後、高杉晋作・伊藤博文らが藩の政治の主導権を握ることになります。
 薩摩では、若手の西郷隆盛や大久保利通が実権を握っています。
 1874(明治7)年、返済途中で幕府は滅び、150万ドルが未払いとなりました。しかし、この未払い分は、明治新政府が引き継ぎ、この年に、返済を完了しましたた。
 この項は、『合戦全集』『歴史群像』などを参考にしました。
イギリスの外交方針と、日本の西郷隆盛・高杉晋作の対応
 何度も書いてきましたが、列強の中で日本外交を指導したのが、「七つの海を支配する大英帝国」でした。しかも、セポイの反乱を経験しているイギリスでした。
 トータルに考えると、有利な貿易は、武力より、平和的解決が将来性があるということです。相手国の国民に不買精神が浸透すれば、貿易は大打撃をうけるのです。
 ある程度の武力は使用するが、不信を買うような徹底的な打撃を加えないという外交方針が、イギリスには確立していたのです。日本にとっては幸いなことでした。
 第一次長州征伐を、タイミングよく利用しています。イギリスの外交戦略の巧みさに、感心させられました。
 薩英戦争により、薩摩はイギリスに接近します。四国艦隊下関砲撃事件で、長州はイギリスに接近します。
 イギリス代表ののニール・オールコック・パークスは、幕府を見限り、h長と手を組む道を選択します。外交上の鋭い眼力には驚かされます。敗戦しても、得るものを獲得した西郷隆盛や高杉晋作には、敬意を表します。
 特に、高杉晋作が、和平交渉に臨んだとき、キューパー司令長官から「彦島の租借」が申し入れられました。それに対して、高杉晋作は、「いにしえより、外国に土地を与えてことはない」と拒否しました。高杉晋作はこの時、なんと26歳だったというから、驚きです。高杉晋作の外交のバックボーンについては、奇兵隊の創設の項でお話します。
 この時、イギリスの通訳生だったアーネスト・サトウは、「長州人を破ってからは、われわれは、長州人を尊敬する念を持った」と語っています。「損して得する」日本外交を誉めているのです。
 最近、この内容が自虐史観を非難する側の本の中に紹介されているのを知りました。!?。
 日本のある外務大臣、彼は実力者であるだけに、かなりイニシアティブをとったり、発言したりしている。政治家なので発言は政治的で、その意図は別なところにありとは思います。しかし、西郷隆盛や高杉晋作のように、「損して得とれ」(後に役立てる視点)があるのか、よく分からない発言があります。
 最近では、「首相が靖国神社に行ったから軍国主義だとか批判はあるが、とんでもない。赤字国債を出してまでODAを一生懸命出し続け、90年代は第1の供与国だったことは胸を張って言える」(外相の諮問機関「ODA総合戦略会議」)。それを受け、政府内には「これだけ支援していることが中国国民に理解されておらず、感謝もされていない」との指摘が出ました。それと関連し、外務省のホームページは、1980年度以降の対中ODAの総額を約3兆3334億円と明記し、空港や鉄道などの個別の大規模事業を写真付きで紹介し、中国の経済成長に対する日本の貢献をアピールするようになりました。
 ODA問題が一人歩きしています。ODAとは「Official Development Assistance」(政府開発援助)の略で、(1)2国間贈与(2)2国間貸付(3)国際機関への出資・拠出があります。
 元々、中国へのODAは、中国側が日本に対して戦争による補償を放棄することに対して、開始されました。この部分が余り知らされていません。
 次に、ODAは、受入国より批判があるように、「ヒモ付き」援助なのです。援助はするが、原材料は日本から調達するとか、メンテナンスを日本の企業に依存するシステムになっているんです。経済援助は、どの国も戦略上同じことをやっています。だから、もともと「してやっている」と自慢する部分は少ないのです。
 案の定、「中国外務省の劉建超副報道局長は7日の記者会見で、日本の政府開発援助(ODA)を引き合いに、中国の対日批判に反論した●●外相の発言について”経済援助を理由に過去の歴史を抹殺することはできない”と、激しい言葉で批判した。また”日本政府内には、でたらめで間違った歴史観を持っている高官がいる”と述べ、外相発言を容認しない考えを強調した」(北京7日共同。徳島新聞2005年6月7日付け)という反応がありました。
 実力者外務大臣の意図する発言は、「損して得する」外交だったのか、「得して損する」外交だったのか、私には分かりません。いずれ歴史が判定してくれるでしょう。

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