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エピソード

164_01

討幕運動の展開V(坂本竜馬の活躍)
 1835(天保6)年11月、坂本竜馬は、土佐の高知で、坂本八平を父に、坂本幸を母に、次男として生まれました。
 1846(弘化3)年8月、坂本竜馬が12歳のときに、母の幸がなくなりました。
 楠山庄助の漢学塾に入門しましたが、「夜ばあたれ」(寝小便たれ)とか「お前の姉さんはお仁王(大女)」といじめられたり、勉強にもやる気がおこらず、辞めさせられました。
 そこで、武術が好きで、負けず嫌いで、男勝りの姉である坂本乙女は、坂本竜馬に剣術や水泳をみっちりしこみました。
 1848(嘉永元)年、坂本竜馬(14歳)は、小栗流の日根野弁治の道場に入門し、剣の腕を上げました。
 1849(嘉永2)年、土佐藩では、藩主が次ぎ次ぎと亡くなり、分家から山内豊信(23歳)が藩主となりました。本家の重役の囲まれて、藩主としての力量は発揮できない状況にありました。
 1853(嘉永6)年3月、坂本竜馬(18歳)は、日根野弁治より小栗流の免許皆伝を許されました。
 4月、坂本竜馬は、藩の許可を得て江戸に行き、北辰一刀流の千菓道場に入門しました。当時は千葉周作の弟千葉定吉が指導していました。千葉定吉の長男が千葉重太郎、長女が千葉さな子といいました。
 6月、ペリー艦隊が来航しました。坂本竜馬は、藩の命令で、品川海岸の警備にあたり、黒船を眼前にしました。
 12月、坂本竜馬は、黒船を見て、とっさに佐久間象山に入門し、西洋砲術を学びました。
 12月、才能もあり、武芸に優れていた山内豊信(24歳)は、藩政の改革に乗り出し、古い考えの本家の重役を全て罷免し、馬廻りの吉田東洋(38歳)を仕置役(実務の責任者)に抜擢しました。
 同時に、山内豊信は、外国に備えて西洋の砲術や造船術に取り組みました。
 1854(安政元)年1月、ペリーが再び来航しました。この時も、坂本竜馬(19歳)は、7隻の黒船を見に行って、さらにビックリしています。ポーハタン号排水量は2415トンでした。
 6月、坂本竜馬は、修行期間を終えて、土佐に帰国しました。
 11月、坂本竜馬は、薩摩の反射炉を視察したり、ペリーの通訳である中浜万次郎を調べた河田小龍(31歳)を訪ねて、海外事情を聞いています。この時、「黒船には、日本の攘夷では対抗できない。その前に、外国船を買い、航海術を覚える必要があると」聞かされました。中浜万次郎の話として、大統領制男女同権の話、障子はガラス、食は肉やパン、蒸気機関車、自動織機に驚いています。
 1855(安政2)年8月、土佐藩が作った蒸気船が運行しました。それを見た坂本竜馬(20歳)は、「早さも大きさも、おもちゃ」だと感じました。排水量は5トンでした。坂本竜馬は、でかい蒸気船を作って、世界に荷物を積んで乗り出す夢を語っています。
 12月、坂本竜馬の父坂本八平が、病死しました。
 1856(安政3)年8月、坂本竜馬(21歳)は、ふたたび江戸にいき、千葉道場で修行しました。この時に、武市瑞山半平太(32歳)がやってきて、坂本竜馬に勤王論(天皇心身の国家論)を説きました。坂本竜馬は、「きまじめ方だ」と驚いています。
 1857(安政4)年9月、坂本竜馬(22歳)は、剣術修行期間は終了しましたが、さらに一年の延長を願い出て、許可されました。
 1858(安政5)年1月、坂本竜馬(23歳)は、北辰一刀流の免許皆伝を許されました。
 6月、大老井伊直弼は、日米修好通商条約を、勅許なしに調印しました。
 9月、坂本竜馬は、修行期間を終えて、土佐に帰国しました。坂本竜馬は、武市半平太(34歳)の道場を訪ね、そこで大庄屋の中岡慎太郎(21歳)と会います。
 11月、坂本竜馬は、立川関(通行関所)で水戸浪士の住谷寅之助らと面会しました。住谷寅之助らは、坂本竜馬に攘夷運動を説きましたが、坂本竜馬は、「かんたんには攘夷は出来ませんよ」と答えました。内心、「目を吊り上げるだけでは世の中は変わらん」とも思いました。
 1859(安政6)年2月、安政の大獄で、山内豊信(33歳)は、隠居して、山内容堂と号しました。
 9月、坂本竜馬(24歳)は、西洋流砲術家の徳弘孝蔵の塾に人門しました。
 1860(安政7)年3月、水戸浪士らが、井伊直弼を暗殺しました(桜田門外の変)。
 1861(文久元)年5月、武市半平太(38歳)は、江戸に出て、長州藩の尊攘派の中心人物である久坂玄瑞と意気投合しました。その内容は、「薩摩・長州・土佐が中心となって、皇国の災いをはらう。そのためには、山内容堂を押したてて京にのぼり攘夷を実行する勅をいただく」というものでした。
 8月、武市半平太は、天皇に忠義を尽くすため、土佐勤王党を結成しました。
 9月、坂本竜馬(26歳)は、武市半平太の結成した土佐勤王党に加盟しました。郷士を中心に192人に登りました。
 11月、土佐藩の参政(政治上の責任者)である吉田東洋(46歳)は、武市半平太を呼び出して、「山内家は徳川家に恩義があり、殿に迷惑のかかることは許さない」と土佐勤皇党の活動に圧力をかけました。
 1862(文久2)年1月、坂本竜馬(27歳)は、武市半平太(39歳)の意向を受け、長州の荻の久坂玄瑞を訪ね、土佐の状況を説明しました。久坂玄瑞は、それに対して、「それは古い考えだ。藩にこだわらず、諸国の同志が行動すればよい」と説教しました。久坂玄瑞から剣の腕前を聞かれ、坂本竜馬は「刀は古い考えだ。これからはピストルの時代だ」とやり返しました。
 2月、坂本竜馬は、諸国の情勢をさぐり、高知に帰国しました。
 3月、武市半平太ら土佐勤王党の考えは、吉田東洋に天誅を加えることに傾いていきました。坂本竜馬は、これと一線を画し、土佐を脱藩して、長州に向かいました。当時脱藩は、主君への裏切りとして、重罪の罪でした。
 4月1日、坂本竜馬は、下関の豪農である白石正一郎を訪ねました。白石正一郎は、奇兵隊のスポンサーとしても有名です。
 4月8日、武市半平太は、土佐勤王党の同志に指示して、吉田東洋(47歳)を暗殺しました。
 5月、島津久光に同行した勅使大原重徳は、幕政の改革と攘夷の実行を要求し、幕府はこれを承認しました。
 閏8月、坂本竜馬は、江戸に下り、千葉道場に寄宿しました。当主の千葉重太郎は、坂本竜馬に、元越前藩主の松平春嶽慶永(35歳)に会うことを勧めました。松平春嶽は、坂本竜馬に、幕臣の軍艦奉行並である勝海舟に会うことを勧めました。
 10月、坂本竜馬は、勝海舟(40歳)を訪ねました。勝海舟は、「これからはアジアの国々と手を結び、西洋に追いつく時代だ。攘夷だとか、天誅だとか騒いでいる時代ではない」と語りました。これに共鳴した坂本竜馬は、即座に弟子入りをしました。
 12月、坂本竜馬は、勝海舟に従い、幕府の軍艦でイギリス製の順動丸排水量1100トン)に乗り品川から兵庫に向かいました。
10  1863(文久3)年1月、勝海舟(41歳)は、伊豆下田で前土佐藩主の山内容堂(34歳)と面談し、坂本竜馬(28歳)の脱藩の許しを求めました。
 2月、坂本竜馬は、脱藩の罪が許されました。
 2月、坂本竜馬は、京都で、武市半平太(40歳)と再会しました。武市半平太は、土佐藩の留守居役(京都の土佐藩邸の責任者)に出世し、また、天誅の指導者となっていました。武市半平太は、「天皇は攘夷を祈願するために、賀茂神社に行幸した。尊攘に反対する者を叩き潰してやる」といきまくと、坂本竜馬は、「外国に負けない日本海軍を作る方が先決だ」と反論し、議論別れになりました。
 4月2日、坂本竜馬は、前講武所奉行の大久保一翁(47歳)と会いました。大久保一翁は、大政奉還が行われる5年も前に大政奉還論を唱えたり、幕府だけが日本の代表として諸外国との折衝をするのではなく、議会制を提唱するなど開明派の1人です。そんな大久保一翁は、坂本竜馬を「大道解すべき人物」と評されました。
 4月23日、勝海舟は、将軍徳川家茂に神戸海軍操練所の建設を提案し、それが許可されました。神戸に海軍の施設をつくり、士官を養成する所です。
11  5月、長州藩は、アメリカ・フランス・オランダ船を攻撃しました。これが長州藩下関砲撃事件です。
 6月、アメリカ・フランス軍艦は、下関を砲撃し、砲台を占領しました。
 8月17日、土佐の吉村寅太郎らは、奈良五条の代官所を襲撃しました。これが天誅組の変です。
 8月18日、過激な行動を嫌う孝明天皇は、公武合体を表明しました。その結果、薩摩・会津・土佐などの諸藩は、尊攘派の公卿や長州藩を京都から追放しました。これを八・一八の政変といいます。
 9月、土佐藩は、尊攘派の土佐勤王党を弾圧し、武市半平太は捕まって投獄されました。中岡慎太郎は、長州へ逃れました。
 10月、坂本竜馬は、神戸海軍操練所の塾頭に任命されました。
 12月、坂本竜馬は、土佐藩から帰国命令を受けました。投獄の危機が迫りました。
 12月6日、勝海舟は策として、江戸の土佐藩庁に対して、坂本竜馬の国許召喚延期を願い出ました。しかし、認められるはずもなく、坂本竜馬は、再び脱藩することになりました。
12  1864(文久4)年4月、坂本竜馬(29歳)は、橘崎お龍と結婚しました。
 5月、神戸海軍操練所が設立されました。旗本・御家人や、薩摩・土佐・越前の藩士、それに坂本竜馬など浪人も参加しました。オランダ語を習って航海に必要な技術を学んだり、天体観測の技術を学びました。生徒仲間の過激な攘夷論に接した坂本竜馬は、「もっと大きく日本の将来を考えよう」と説き、命の大切さを強調しました。
 6月5日、近藤勇らの新撰組が、長州の尊攘派を襲撃しました。これを池田屋事件といいます。この時、犠牲者の2人が、海軍繰練所の生徒でした。
 6月17日、坂本竜馬は、上京途上の勝海舟と下田港で会い、若者に働き場を与える蝦夷地開発計画を提案しました。
13  7月、長州藩兵と薩摩・会津中心の幕府軍が、御所の周辺で戦闘しました。これを禁門の変といいます。指揮をとった薩摩の西郷隆盛が評判となりました。
 8月、坂本竜馬は、勝海舟の命を受け、幕府の長州征伐を阻止するため、西郷隆盛に会うため、京都に潜入しました。坂本竜馬は、西郷隆盛に対して、「日本人同士が争っていては外国につけ入る隙を与えます。今は、薩摩や長州が手を結び、当面する難問を解決すべきです」と迫りました。西郷隆盛は無言で対応しました。再度、坂本竜馬は、幕府側で動こうとしている西郷隆盛の心理を見抜き、「勝海舟先生も、今の幕府には難局を乗り切ったり、改革する力はないと言っています」と迫りました。
 10月、幕府は、尊攘派を養成しているとして、勝海舟に対して、江戸召喚命令を出しました。
 11月、第一次長征がはじまりました。征長総督参謀西郷隆盛は、寛大な処分で長征を終了させました。
 11月、勝海舟は、軍艦奉行を罷免されました。
14  1865(慶応元)年3月、神戸海軍操練所が閉鎖されました。
 4月、京都に潜んでいた坂本竜馬(30歳)は、西郷隆盛とともに鹿児島に行きました。西郷隆盛は、薩摩の藩論を長州出兵拒否でまとめました。
 閏5月1日、坂本竜馬は、西郷隆盛の命を受け、下関の白石正一郎を訪ねました。そこで、長州藩の桂小五郎に、今までのわだかまりを捨てて薩摩と和解することを説きました。しかし、桂小五郎が「薩摩にひどい目に会っている」と反論すると、坂本竜馬は、「第一次長征で寛大な処分をしたのは、西郷隆盛である、第二次長征に薩摩を出兵拒否させたのも西郷隆盛である」と強調しました。桂小五郎をこの申し出を受け入れました。
 閏5月6日、坂本竜馬は、土佐を脱藩した者を社員として、長崎で亀山社中を発足させました。
 閏5月11日、大監察の後藤象二郎(28歳)の命で、入牢中の武市半平太は自害し、岡田以蔵は断首されました。
 閏5月21日、西郷隆盛は、幕府の長州出兵に話を聞き、坂本竜馬と約束した下関に上陸せず、京都に直行しました。約束をホゴされた桂小五郎は、憤激しました。そこで、坂本竜馬は、薩摩の名義で買った武器や軍艦を、長州に対して、調達することを約束しました。
15  6月、坂本竜馬と中岡慎太郎は、京都薩摩藩邸に入り西郷隆盛と面会しました。そして、長州藩のために薩摩藩名義で武器・軍艦の購入を要請しました。西郷隆盛は、約束違反を詫びて、要請を聞き入れました。
 7月、亀山社中は、イギリス商人のグラバーから銃を7300挺を購入しました。それを手に入れるために、長州藩の井上聞多馨伊藤俊輔が長崎に到着しました。
 8月、亀山社中から7300挺の洋式銃を購入した井上馨と伊藤俊輔は、下関に戻りました。
 10月18日、坂本竜馬は、薩摩名義のユニオン号をイギリス商人のグラバーから購入しました。
 10月21日、坂本竜馬は桂小五郎と下関で会談し、再度、西郷隆盛と会見することを約束させました。
 11月、坂本竜馬は、西郷隆盛と京都の薩摩藩邸で会談し、今度は、桂小五郎と会見することを約束させました。
16  1866(慶応2)年1月19日、坂本竜馬(31歳)は、新選組の警戒網を潜り抜け、お龍が待っている京都伏見の寺田屋に入りました。
 1月20日、坂本竜馬は、京都の桂小五郎を訪れ、その後直ちに西郷隆盛に会いました。そして、桂小五郎の心境をセツセツと訴えて、やっとここに会見が成立しました。
 1月21日、薩長同盟が成立しました。その内容は、「長州と幕府が戦争したとき、薩摩は長州が有利になるように努力する。幕府が長州の立場や権利を認めないとき、薩摩は幕府と戦う」というものでした。
 1月23日、坂本竜馬は、寺田屋に宿泊中、伏見奉行所の配下に襲撃されました。お龍の気転で、何とか助かりました。
 3月5日、坂本竜馬は、西郷隆盛の勧めで、京都を離れ、お龍と新婚旅行にでました。そのコースは、塩浸温泉や霧島などになっています。
17  6月2日、坂本竜馬は、長崎の小曾根家にお龍を預け、下関に向かいました。
 6月17日 坂本竜馬は、高杉晋作が指揮する軍艦に乗り、門司で幕府軍と戦いました。
 7月20日、大坂城の将軍徳川家茂が急死しました。
 8月1日、幕府軍の本拠地である小倉城が落ちました。
 9月2日、休戦協定が結ばれ、幕府軍は撤退を開始しました。
 12月5日、徳川慶喜が15代将軍となりました。
 12月25日、孝明天皇が急死しました。
18  1867(慶応3)年1月9日、明治天皇が即位しました。時に、15歳でした。
 1月11日、坂本竜馬(32歳)は、下関で、三条実美らと討幕運動を進めている中岡慎太郎と会見しました。中岡慎太郎が「h長の力で幕府を倒すべきです」と説くと、坂本竜馬は、「まあ、じっくりやろう」と反応しました。
 1月12日、坂本竜馬は、長崎の「清風亭」で、土佐藩の参政である後藤象二郎と会見しました。後藤象二郎は、武市半平太らを処刑した大監察でした。しかし、坂本竜馬は、過去のことを忘れ、後藤象二郎の未来にかけて、協力を約束しました。
 4月、土佐藩は、後藤象二郎の尽力で、坂本竜馬と中岡慎太郎の脱藩の罪を許しました。坂本竜馬は、亀山社中を土佐藩付属の海援隊に改編しました。海援隊は、諸国の物産を運んだり、土佐藩のために外国船や武器を調達し、得た利益を運用資金とし、自立性を維持しました。
 5月、京都の薩摩藩邸で、薩摩・長州・土佐の有志が参会しました。会議には、薩摩からは家老の小松帯刀・西郷隆盛、長州からは品川弥二郎山県有朋、土佐からは板垣退助・中岡慎太郎・谷干城らが参加して、「倒幕」で一致しました。これを薩長土の討幕の密約といいます。
 5月、越前の松平春嶽、土佐の山内容堂、薩摩の島津久光、宇和島の伊達宗城が、兵庫開港問題とh長土の過激派との対立を回避する議題を開きました。これを四侯会議といいます。
19  6月9日、坂本竜馬は、後藤象二郎と共に、藩船夕顔丸で長崎から京都に向かっていました。倒幕を心配する後藤象二郎に対して、坂本竜馬は、「戦で人材を失えば、国の力の弱まる。内乱は避けたい。戦をせずに政治を変えるには大政奉還しかない。天皇の下での諸侯による合議政治を行い、議長は将軍とする」を提案しました。後藤象二郎も賛成して、成ったのが「船中八策」です。これは後の「五箇条の御誓文」の内容に盛り込まれました。
 6月14日、坂本竜馬は、京都に入り、河原町の酢屋を定宿しました。
 6月22日、坂本竜馬は、中岡慎太郎が立ち会って、薩摩と土佐の薩土連約を締結しました。
 6月25日 坂本竜馬は、中岡慎太郎に伴われ、京都岩倉にある岩倉具視邸を訪れました。その場で、岩倉具視は王政復古を口にしました。
 7月、山内容堂は、後藤象二郎の案を受け入れ、大政奉還の建白の準備を命じました。
 9月15日、坂本竜馬は、長崎で、オランダ商人からライフル銃1300挺を購入しました。
 9月18日、坂本竜馬は、ライフル銃1300挺を積んで、長崎から下関に向かいました。坂本竜馬は、お龍を下関に預けました。これが2人にとって、永遠の別れになりました。
 9月29日、坂本竜馬は、脱藩以来初めて高知に帰り、ライフル銃1300挺を土佐藩に売り渡し、実家に帰りました。
 この項は、『人物日本の歴史』(小学館)・『歴史群像』などを参考にしました。
坂本竜馬とは、どんな人?
 色々なアンケートで、常に坂本竜馬は一番になります。それだけ魅力的に人物ですが、本当はどうなのか、じっくり調べて見ました。上記の年表を詳細に作ってみました。
 坂本乙女と坂本竜馬の継母である伊与は、竜馬に対して3つの教育方針を与えています。
 「一、相手にやられたらやり返せ。
 二、自分から進んで手を出したらいかん。
 三、男は強くて、優しくないといかん。」
 これを見ると、常に竜馬が「戦って、人材を失うことは、国家の将来に禍根を残す」という信念になっていることが分かります。
 利益を優先し、安全を軽視して、尊い人命を失った最近の列車事故があります。運転再開が出来ず、そのための損失、個人補償などを考えても、過去の利益は、一瞬にして水泡に帰してしまいます。人命尊重の経営方針は、竜馬の信念なのです。
 坂本竜馬と姉の乙女は、船で、継母の実家である種崎の下田屋を度々訪ねています。波の静かな内海の浦戸湾を出ると、、黒潮の荒れる土佐湾です。竜馬は、そこで、廻船を見たり、黒潮の向こうの外洋に果てしない世界を感じたことでしょう。
  坂本竜馬の実家である才谷屋は、土佐藩の貿易の扱う豪商で、1771年に郷士株を手に入れていました。竜馬が生まれた時、父は土佐藩に大名貸しする豪商才谷屋を営み、町人郷士と呼ばれていました。町人郷士とは、町人の身分でありながら武士になった人をいいます。
 坂本竜馬は、世界に通じる黒潮をみて育ち、生まれながらの裕福な町人でした。つまり、世界を相手にする経営者という感覚を持っていました。それを実現したところが、竜馬の凄いところでしょうか。
 上記本文の太字青色の人物は、坂本竜馬が会った歴史教科書に登場する有名な人物です。
 幕末の様々な考えの人物と出会って、竜馬はどんどん大きななっています。過激派と会っても、相手の意見は尊重するが、一歩距離を置いて、最後には、それらを総合するエネルギーを持っています。
 生徒が質問に来ると、つい、その分野の専門でもないのに、プライドから中途半端な知識を与える先生を知っています。
 「医療事務になりたい」という生徒には、私は「採用する側の病院に聞いたら」と言っています。病院の答えは「医療事務の資格より、採用試験に受かることが前提です」でした。
 「動物が好きなので、動物病院に勤めたい」という生徒には、私は「採用する動物病院で聞いたら」と言ってます。病院の答えは「自分の飼っている動物と他人の動物を可愛いとは違う。大学に行きながら、アルバイトをしながら、見極めたら」でした。私は、中途半端な指導をしなくてよかったと思っています。
 坂本竜馬は、すごいと思うと、直に会いに行ってます。会った人も、竜馬に合った人物を次に紹介しています。紹介された人に、竜馬は丹念に会いに行っています。この行動力は、素晴らしい。会った人から凄いパワーをもらって、それを自分の物に消化していることが分かります。

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