print home

エピソード

164_02

討幕運動の展開W(大政奉還と王政復古の大号令)
 1866(慶応2)年12月、孝明天皇が急死しました。時に37歳でした。
 1867(慶応3)年1月、明治天皇(父は孝明天皇)が即位しました。時に15歳でした。
 2月、フランス公使ロッシュの建策を受け入れ、15代将軍徳川慶喜は、幕政の改革を行いました。
 3月、将軍徳川慶喜は、兵庫開港が先決だと主張し、西郷隆盛は、長州処分の軽減が先決だと譲りませんでした。その結果、西郷隆盛は、王政復古派で公卿の岩倉具視に接近するようになりました。
 4月、土佐藩の山内容堂は、公武合体を表明し、海援隊長の坂本竜馬陸援隊長の中岡慎太郎の帰藩を許しました。
 5月、薩長土の間で、討幕の密約を交わしました。
 同、四侯(松平慶永・山内容堂・島津久光伊達宗城)は、h長土の過激派との対立を回避する会議を開きました。これを四侯会議といいます。
 6月9日、坂本竜馬は、後藤象二郎と共に、藩船夕顔丸で長崎から京都に向かっていました。倒幕を心配する後藤象二郎に対して、坂本竜馬は、「戦で人材を失えば、国の力の弱まる。内乱は避けたい。戦をせずに政治を変えるには大政奉還しかない。天皇の下での諸侯による合議政治を行い、議長は将軍とする」を提案しました。後藤象二郎も賛成しました。これを「船中八策」といいます。
 10月9日、坂本竜馬は、京都に入り、四条河原町の近江屋を定宿としました。
 10月10日、坂本竜馬は、幕府の若年寄である永井尚志と会談し、大政奉還について意見交換し、山内容堂の大政奉還の建白書を取り上げることを申し入れました。
 10月11日、坂本竜馬は、中岡慎太郎から、陸援隊を組織して、挙兵の訓練をしていることを聞かされました。坂本竜馬は、慎重にも慎重を説きました。
 10月13日、山内容堂は、二条城で、多くの諸侯がいる中、大政奉還(天皇から与えられた将軍による政治を還し奉る)の建白書を提出しました。これを大政奉還といいます。その目的は(1)討幕派の攻勢をそらす(2)朝廷の下に徳川主導の諸藩の合議による連合政権構想を樹立する、でした。将軍徳川慶喜は、その意を汲んで、建白書を受理しました。
 10月13日、薩摩の西郷隆盛・大久保利通、長州の品川弥二郎広沢真臣、公卿の岩倉具視・三条実美らは、断固討幕を確認しました。
 10月13日、この日付けで、薩摩の島津久光・島津忠義父子に対して、討幕の密勅が出されました。
 原文の一部とその現代語訳を紹介します。
 「詔す。源慶喜、累世の威を藉り…罪悪の至る所、神州将に傾覆せんとす。汝宜しく朕の心を体し、賊臣慶喜を殄戮し…此れ朕の願…」(命令する。徳川(源)慶喜は、代々の権威を借り、行った罪悪は全国に広がり、日本を滅ぼしてしまいそうである、お前たちは、私の気持ちを推し量り、賊臣慶喜を殺害せよ。これが私の願いである)
 10月13日、朝敵であった長州の毛利敬親毛利定広父子に対して、官位が復旧されました。
 10月14日、将軍徳川慶喜は大政奉還の上表を朝廷に提出しました。これを大政奉還といいます。
 原文の一部とその現代語訳を紹介します。
 「当今、外国の交際日に盛なるにより、愈朝権一途に出申さず候ては、綱紀立ち難く候間、従来の旧習を改め、政権を朝廷に帰し奉り」(最近、外国との交際が日々盛んになり、政権が一つにまとまらならないと、規律が維持できなくなりますので、今までの慣習を改め、政権を朝廷にお返しします)
 10月14日、毛利敬親・定広父子に対して、討幕の密勅が出されました。
 討幕の密勅が出されたので、将軍慶喜は、大政を奉還した。だから、討幕は有効だと言う理屈です。
 逆に、大政奉還の後、密勅が出されたとすれば、討幕の大義は失われます。
 10月15日、しかし、朝廷は、将軍徳川慶喜の大政奉還の上奏を勅許しました。しかし、政治の実践に不慣れな朝廷は、しばらくの間、将軍に政治を委ねました。その結果、西郷隆盛ら討幕派の動きが、一時的に頓挫したことになります。これを坂本竜馬が狙っていたとすれば、西郷隆盛より、格が一段高いといえます。それ故に、坂本竜馬に悲劇が襲ったのです。
 11月1日、坂本竜馬は、福井に行き、越前藩の由利公正と会見しています。
 11月5日、坂本竜馬が作った新政府案の参議中に坂本竜馬自身の名がないことを、西郷隆盛が尋ねました。坂本竜馬は、「世界の海援隊でもやるかな」と答えました。
 11月14日、坂本竜馬は、風邪ぎみで近江屋の土蔵密室より母屋の二階に移りました。
 11月15日、坂本竜馬がいる近江屋を中岡慎太郎が訪ねました。やがて、何者かに襲われ、坂本竜馬は即死し、中岡慎太郎は重体でした。2日後、中岡慎太郎は、亡くなりました。時に坂本竜馬は33歳、中岡慎太郎は30歳でした。これを近江屋事件といいます。
 11月末、西郷隆盛が率いる3000の兵が、御所を固めました。
 12月初め、長州藩兵2500が、摂津西宮と備後尾道に到着しました。
 12月9日朝、薩摩・安芸・越前・尾張・土佐の藩兵が御所に入り、それまで御所の禁門を警備していた会津・桑名の藩兵を追い払って、警備につきました。学問所に親王・公卿、薩摩・安芸・越前・尾張・土佐の諸侯を召集し、明治天皇(15歳)が王政復古の大号令を下しました。ついで、摂政・関白・幕府の廃止五摂家・門流・議奏・武家伝奏の廃止京都守護職・所司代の廃止が布告されました。
 幕府(徳川慶喜)・京都守護職(松平容保)・京都所司代(松平定敬)が正式に廃止されました。新設された「総裁・議定・参与」の三職には徳川慶喜の名前はありませんでした。
 12月9日夜、小御所において初めての三職会議が開かれました。公卿の岩倉具視と参与の大久保利通は、徳川慶喜の辞官納地を主張し、山内豊信(容堂)・松平慶永(春嶽)は、反対しました。会議は紛糾して、深夜におよびましたが、西郷隆盛の一言で、徳川慶喜に辞官納地を命ずることが決定されました。これを小御所会議といいます。
 12月10日、前の将軍徳川慶喜は、二条城より大坂城に移りました。佐幕派府を補=支持するグループ)は、辞官納地に納得せず、次に火種を残しました。
 三職会議のメンバーを改めて紹介します。
(1)総裁:有栖川宮熾仁親王
(2)議定:皇族・公卿・諸侯ら10人
 中山前大納言忠能・正親町三条前大納言実愛・中御門中納言経之・仁和寺宮嘉彰親王・山階宮晃親王
 徳川慶勝(尾張大納言)・松平慶永(越前宰相)・浅野茂勲(安芸少将)・山内豊信(土佐前少将)・島津忠義(薩摩少将)
(3)参与:公卿・諸藩代表者ら20人
 大原宰相重徳・岩倉前中将具視・万里小路右大弁宰相博房・長谷三位信篤・橋本少将実梁
 尾張藩(3人:荒川甚作・田中不二麻呂・田宮如雲) 
 越前藩(3人:毛受鹿之助・坂井十之丞・中根雪江) 
 芸州藩(3人:桜井元憲・久保田秀雄・辻将曹) 
 土佐藩(3人:後藤象二郎・神山郡廉・福岡孝弟) 
 薩摩藩(3人:岩下方平・西郷隆盛・大久保利通)
 このメンバーを見て、坂本竜馬の公議政体論を主張し、最後まで辞官納地の反対した土佐藩の山内容堂が議定に推薦され、参与に土佐藩から後藤象二郎ら3人が推薦されていることがわかります。坂本竜馬路線から、倒幕路線に乗り換えた論功行賞の匂いを感じるのは、私だけでしょうか。
 この項は、『人物日本の歴史』(小学館)や『歴史群像』などを参考にしました。
孝明天皇の急死・坂本竜馬の暗殺・討幕の密勅の謎に迫る
 教科書や参考書を見ると、「孝明天皇は急死した」と表現しています。公式な発表は、天然痘による病死とされていますが、その間に温度差を感じました。
 そこで、色々調べてみました。
(1)イギリスの公使館の通訳であるアーネスト・サトウは、「風評では(帝の)崩御の原因は天然痘だといわれいた。しかし数年後、裏面の消息に精通する日本人から、帝は確かに毒殺された、と教えられた。帝は断固として、外国人に対するいかなる譲歩にも、絶対反対を唱えられた。そのために、やがて幕府が没落すれば、やむなく、朝廷が、西洋諸国と直接に関係交渉しなければならなくなるのを予見した人々の手にかかったのだ」(『遠い崖ーアーネスト・サトウの日記抄』)。
(2)「1847年生まれの記憶力の強靭な千葉とくという女性が、そのころ御所の番に出ていた4人の縁者から聞いた話として、孝明天皇の朝食に毒が入っていたことを語り伝えている」(司馬遼太郎『十津川街道』)
(3)天皇の主治医である伊良子光順の日記には、「最初は疱瘡(痘瘡)、これから回復しかけたときの容態の急変は急性薬物中毒による」とあります(『天脈拝診日記』)。伊良子光順の文書を整理した日本医史学会員の成沢邦正氏と石井孝氏は、その猛毒を砒素(亜砒酸)と推定しています。
(4)公武合体派の孝明天皇が死んで、一番喜んだのが犯人だとすれば、それは討幕・王政復古派の岩倉具視ということになる。岩倉具視の妹である堀河紀子は、孝明天皇に特に寵愛されていたので、筆をなめる癖を利用して、細工したというのである。
 旧見廻組今井信郎らは、坂本竜馬を暗殺したと証言しています。しかし、直ぐ釈放されていることで、疑問視されています。
 そこで、色々調べてみました。当時の調査資料を上げると、以下の通りです。
(1)日時:11月15日午後9時頃
(2)場所:醤油商近江屋新助宅二階(京都河原町蛸薬師下ル西)
(3)傷の状況:坂本竜馬(左肩先から左背骨、全額部に傷があり、これが致命傷で即死)、中岡慎太郎(後頭部、肩、胴、背、股等12箇所に傷で、2日後死亡)、近江屋奉公人の藤吉(背等に6箇所の傷で死亡)
(4)目撃証言:下僕藤吉(「犯人は十津川郷某と名乗り、名刺を出した」)、中岡慎太郎(「刺客が斬り込んだ時、『こなくそっ』といった」。坂本竜馬の死を確認し、自分には「刺客はトドメを刺さず、『もうよい、もうよい』といった」。「入ってきた刺客は、2人だった」)
(5)刺客の遺留品(ろう色の刀の鞘と先斗町の瓢亭という料理屋の下駄の片方)
 坂本竜馬暗殺犯人説は、以下の通りです。
(1)残された鞘などの物証により、伊東甲子太郎らは、「犯人は新選組の原田左之助である」と証言しています。
 しかし、中岡慎太郎にトドメを刺そうとしてした時、「もうよい、もうよい」というほど余裕のある刺客が、刀の鞘や下駄を残していくでしょうか。これは、犯人を新撰組にデッチ上げる手法ではないでしょうか。
(2)元見廻組隊士だった今井信郎は、明治3年に、「佐々木只三郎らが実行犯である」と証言しています。
 元見廻組隊士だった渡部篤は、明治後期に、遺言で、「佐々木只三郎の命により、竜馬を斬った」と告白をしています。
 元見廻組隊士だった今井信郎は、「近畿評論」(明治33年5月号)で、「自分が竜馬を斬った」と旧友の息子に語っています。
 これは、TV番組(史料に基づく竜馬暗殺犯人)でも取り上げられ、多くの人が支持しています。しかし、今井信郎や渡部篤ら元見廻組隊士の証言は一貫性がなく、売名行為という説もあります。
(3)武力倒幕を目指していた西郷隆盛・大久保利通ら薩摩藩の討幕派が、故意に幕府側に龍馬の所在を漏らしたという説もあります。
 しかし、用心深い坂本竜馬が、そう簡単に自分の所在を知らせる訳もありません。
(4)犯行現場は、土佐藩邸に近い。中岡慎太郎にトドメを刺そうとしてした時、「もうよい、もうよい」といった慎太郎自身証言をどうみるか。坂本竜馬を暗殺すればよい、と解釈できます。午後9時の暗がりで、剣の達人である坂本竜馬に刃向かいさせず、切り込み、一瞬に殺害できる人間は、顔見知りの人間しかいません。見廻組とか新撰組の者で、暗がりで、一瞬にして、坂本竜馬と中岡慎太郎を確実に識別できる人物はいるでしょうか。
 私は、ある程度、坂本竜馬・中岡慎太郎と同席して、酒食をともにした人物で、2人からも信頼を得た人物だと考えています。そういう意味では、土佐藩と関係のある人物が浮上してきます。
 ある時、坂本竜馬は、短めの刀を差していた。その理由を「実戦では短い刀のほうが取り回しがよい」と言いました。次に会ったとき、坂本竜馬は、再会したとき、拳銃を持っていた。その理由を「銃の前には刀なんて役にたたない」と言いました。三度目に会ったとき、坂本竜馬は万国公法(国際法)の洋書を持っていました。その理由を「これからは世界を知らなければならない」と言いました。
 体験することで、常に進化する坂本竜馬のエピソードらしい、エピソードです。
 大政奉還の日と同じ日に出された討幕の密勅について
 私の手元に、13日付けで島津久光と義久父子に出した証書があります。詔書(天皇の命令書)の出し主の欄には、天皇の名前はありません。あるのは、中山忠親・三条實愛・中御門紹の連名です。名前の下の押す花押もありません。この詔書は、正親町三条実愛が自分の屋敷に大久保利通を呼んで与えたものといわれています。
 そんな関係で、この書式は詔書としては「まったく異例」という人が多いです。陰謀で作成されたとも言われています。
 しかし、現実は、降って湧いた大政奉還に対して、朝廷側に政治を見る体制が整っておらず、再度慶喜に政治を見るよう委託するようになりました。坂本竜馬のシナリオ通りです。
 これを一番恐れたのが西郷隆盛です。旧習を温存していては、新しい政治は出来ないというのが信念だからです。
 坂本竜馬と西郷隆盛という2人の英雄は、倒幕では一致していました。しかし、倒幕後のシナリオが食い違っていました。
 坂本竜馬は、(1)内乱による統一は、人材を失い、国家の将来を危うくする(2)内乱は、外国列強の餌食になる、という強烈な信念を持っていました。象徴天皇制の下での公議政体論(議長は将軍)を主張したのです。現在の日本の国会を予想していたのです。
 西郷隆盛は、強力な天皇制の下でのピラミッド型の政体でなければ、外国と戦えないという信念を持っていました。戦前の天皇制国家主義的な構想です。
 私は、坂本竜馬を直接襲った実行犯は、「こなくそ」という方言から、土佐の人間だと推測しています。しかし、暗殺を指示した黒幕は、西郷隆盛派だと思っています。ずばり、坂本竜馬を裏切りって、公武合体から西郷隆盛派に寝返り、参議に出世した後藤象二郎を比定しています。「黒幕は、ある人が死ぬことで、儲けた者である」
 最初の三職会議で、土佐藩の山内容堂は、前の将軍徳川慶喜の辞官納地処分について、激しく反対します。大久保利通は、その勢いに困惑します。休憩をとって、精鋭部隊を率いて御所を警衛している西郷隆盛の所へ状況説明に行きました。
 西郷隆盛は、刀に手をかける仕草をしました。「命をかけてやれ!」という合図です。そのことに気がついた大久保利通は、休憩後の会議に臨みました。
 必死の大久保利通の形相を見た山内容堂は、「口舌に益なし」(死を覚悟した大久保利通の前では、いくら反論しても意味がない)と感じて、それ以降、口を出しませんでした。その結果、慶喜の辞官納地が決定したのです。
 一度死んだ西郷隆盛には、恐いものはありません。「死を賭す」(責任を果たす)覚悟が、山を動かす。成果主義でゴマカシの数字を並べ、胡麻すって、のし上がった経営者には、学んで欲しい哲学です。

index