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エピソード

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幕末の社会と文化T(教派神道)
 幕末の開国以後の経済混乱や政界の抗争により、社会不安が増大しました。
 米価は暴騰し、庶民の生活を直撃しました。1863年を100とすると、1866年2月には327と3倍、4月には428で4倍、12月には804で8倍になりました。この不安が、都市の打ちこわし農村の百姓一揆の暴発になります。打ちこわし・一揆は、第二次長征の時がピークを記録しています。
 現在や未来に期待を見いだせない庶民は、架空の世界や未来に救いを求めました。この時代に新しい宗教が誕生した背景には、以上のことがありました。これらを教派神道といいます。政府より宗教として公認された13派の神道ですが、神道国教化によって組み込まれた神社神道とは区別しています。
 教派神道の特徴は、教祖・経典を持ち、行を重視し、病気平癒などの現世利益の祈祷を行うところにあります。
 最初は、黒住教・天理教・金光教・実行教・扶桑教・御岳教・神道本局(のち神道大教)・神宮教・大社教(のち出雲大社教・神理教・禊教・神習教・大成教(のち神道大成教)・神道修成派(純神道その他)の14派が認可されました。
 その後、神宮教が財団法人神宮奉斎会に変わって脱けたので、教派神道13派となりました。
 1780(安永9)年、黒住宗忠は、神官の子として、備前で生まれました。
 1811(文化8)年、疫病が岡山地方を襲いました。その結果、黒住宗忠は、父・母を亡くしました。黒住宗忠も、肺を病み病床に伏すことになりました。
 1814(文化11)年11月11日、黒住宗忠は、冬至の太陽を拝したところ、自己の生命と太陽(天照大神)が合体する「日神御一体」を体験しました。黒住教は、この日に誕生したとしています。
 黒住宗忠は、下女ミキが腹痛で苦しんでいたので、日の神の陽気(息)を吹きかけると、下女ミキの腹痛が治癒しました。そこで、黒住宗忠は「病気治癒は。天照大神の神徳による」と広く説くようになりました。
 1825(文政8)年、黒住宗忠は、千日参籠などの激しい修行をしている時「日々家内心得の事7カ条」を定めました。
「 一、神国の人に生れ常に信心なき事。 
 一、腹を立物を苦にする事。 
 一、己がまんしんにて人を見下す事
 一、人の悪を見て己に悪心を増す事。 
 一、無病の時家業おこたりの事。 
 一、誠のみちに入ながら心に誠なき事。
 一、日々有難事を取外す事」
 黒住宗忠は、定期的に信者の家々で講席を開きました。その時、身分にかかわりなく先着順に着席させました。
 黒住宗忠は、「かの天照皇太神は、一切万物を生じ給ふ大御神ゆヘ、天地のあいだ一切生し、一切何事も成就せずといふことなしに御座候」「天照す神に任せて世の中を渡は安き身ともなりなん」「神のます道の教へを本とせは若きも老もなきぞ楽しき」と説きます。
 1798(寛政10)年、みきは、奈良の二階堂村(今の天理市)の裕福な家に生まれました。その他のことは分かっていません。
 1812(文化9)年、みき(13歳)は、同じ村の庄屋である中山家に嫁ぎ、中山みきとなりました。中山家は豪農でしたが、夫の中山善兵衛は、派手な生活をし、夫婦仲も悪く、家運も傾きかけました。
 1838(天保9)年、中山みき(41歳)は、長男の病気平癒を祈っていた時、急に神がかりし、自分を「天の将軍」を名乗り、「このたび、全世界の人々をたすけるために天降った」と口走りました。これが、天理教の親神(天理王命)が、中山みきの口を通して語った最初の言葉とされ、この時、天理教が誕生したとしています。
 生き神となった中山みきは、まず「貧に落ち切れ」との親神の命に従い、屋敷・財産を放棄して、救済活動を始めました。また、中山みきは、屋敷・財産を放棄した苦しい生活にあっても、貧しい者には食物を与えたり、着ている衣服を脱いで与えました。化膿して苦しんでいる者にはウミを吸って出したりしました。
 中山みきは、「確と聞け高山やとて谷底を儘に為られた事であれども、これからは月日(親神)代りに出るほどに儘に為よなら為れば為てみよ」と説きます。
 1874(明治7)年、中山みき(77歳)は、呪術祈祷・医療妨害を理由に取調べを受けました。その前後にも、18回も投獄されています。それでも、信仰を捨てませんでした。彼女のバックボーンには、「律が怖いか、神が怖いか」という信念がありました。
 1814(文化11)年、香取源七は、備中の浅口郡占見村(今の金光町)で、百姓香取十平の次男として生まれまし。
 1825(文政8)年、香取源七(12歳)は、貧農である川手粂治郎の養子となり、名を川手文治郎と改めました。
 1853(嘉永6)年、川手文治郎(40歳)は、この頃、よく働き、川手家を村でも有数の豪農に育て上げました。しかし、舅や小舅、長男・長女・次男を相次いで失うという不幸に襲われました。
 1855(安政)年、川手文治郎(42歳)は、九死に一生という重病にかかりました。その病気平癒を祈っていた時、急に神がかりし、「心徳をもって神が助けてやる。金神、神々へ、礼に心経百巻今夕にあげよ」という神のことばを聞きました。
 1859(安政6)年10月21日、川手文治郎(42歳)は、「天地金乃神」から「家業をやめてくれんか。世間にはなんぼうも難儀な氏子あり」という知らせを聞きました。この時、金光教が誕生したとしています。
 この日から、川手文治郎は、神の知らせを人々に教える「取次ぎ」を始め、取次ぎ所である「広前」を自宅に開いて、早朝から夜まで信者の悩みを聞き、神意をうかがい、自身が得たおかげを説きました。
 また、文治郎は、自らを金光大神と名乗るようになっていきます。
 川手文治郎は、「金光教の天地金乃神は、天地を支配する最高の神」と説きます。「この真の神とその働きを知らないから、人間の不幸と悪が生じる」と教えます。
 川手文治郎は、当時、支配的だった年まわり・日柄・方角などの俗信を否定し、神意にそった人間本位で、合理的な生き方を広めました。
 伊勢参詣の歴史を調べてみました。
 古代、天皇が公の立場から幣帛を奉る以外は、伊勢神宮への幣帛の供進は禁止されていました。
 鎌倉時代、文永・弘安の役の時、伊勢神宮では、異国降伏祈願を行いました。その結果、暴風雨が吹き荒れて、蒙古軍を撃退したという神風説が伊勢神宮側から流され、一般化していきました。
 室町時代、足利義満ら将軍は、しばしば伊勢参宮を行いました。しかし、当時は、関銭目的の関所が乱立しており、庶民にはあまり普及しませんでした。
 戦国時代、伊勢の御師は、全国ををめぐり、御祓を配り、神宮の霊験を説いて、伊勢信仰を布教していきました。その結果、民衆の間で「日本の惣氏神であるから、氏子である日本人は必ず参詣せねばならぬ」とか、「男女ともに一生に1回は参詣せねばならぬ」という考えがおきてきました。全国が統一され、関所が廃止されたことも、参詣には有利な条件となりました。
 江戸時代、伊勢信仰は、神祇信仰で最大となり、家長層中心の参詣が一般化しました。
 自力で参詣することが出来ない人々は、講(伊勢講)を組織して、お金を出し合い、くじ引きで、代参するという方法も出てきました。
 経済的・身分的に、参詣できない次・三男や使用人は、抜け参りという形式を考えだしました。家長や雇い主から許可を得ずに参詣する方法です。この抜参りは、家族道徳や封建道徳を否定する要素を持っていましたが、大目に見られる風潮がありました。60年とは干支の世界では、還暦になります。これをお蔭年といいます。お陰年に伊勢に参詣することをお蔭参りといいます。
 やがて、「しゃもじ」だけ持って家を飛び出し、徒党を組んでは、「お伊勢参りじゃ」とか「お蔭参りじゃ」とか唱えると、街道沿いの豪農・豪商の家では、食事や宿を提供するような風潮が出てきました。これが幕末の「ええじゃないか」につながっていきました。彼らは「饅頭の1つや2つは、えじゃないか」とか「酒の1合2合は、えじゃないか」と踊り練って伊勢参詣をしました。
新興宗教、ええじゃないか
 新興宗教の波を見ると、(1)奈良末期から平安初期にかけて(2)平安末期から鎌倉時代にかけて(3)戦国時代(4)江戸時代末期から明治初期にかけて、というように大きな時代の移行期に最大の波があります。
 混乱と新しい時代への不安が、人々の心に信仰心を呼ぶのでしょう。
 人事を尽くしたが、解決できない困難な問題があると、座し出来ません。写経したり、お遍路さんにでたり、一時でもその場から解放されたいという心理が働きます。
 教派神道に共通しているのは、「病気を治癒して欲しい」という現世利益です。教祖は、何らかの形で神がかりしています。目の前で奇跡を見た人には、説得力のある現象です。
 私の場合、宗派に関係なく、「人間には仏性がある」「死ねば、すべての人は仏となる」を信じています。
 「たくさんお布施をしたら、極楽にいける」とか「100万円寄付すると、先祖を永代供養してあげます」とかいう話を信じて、お布施や寄付をたくさんする人がいます。私は、その行為そのものが、仏性を疑問視していると考えます。
 死んだ人の棺に、寂しいからと、死んだ人が生前大切にしていた物を入れる風習があります。私は、死んだ人は仏となるので、あの世には一杯楽しむものがある。そんの物を入れるのは、現世の人の心の迷いだと思っています。
 と、冷静でいられるのも、極限状態になったことのない私の戯言(ざれごと)かもしれません。大病になったとき、人事を尽くした後、空虚感が満ち満ちたとき、何かに頼る自分を見つけているかもしれませんね。
 あちこちのお宮さんに行くと、絵馬があります。伊勢参宮記念というのが一番多く見ます。
(1)小・中学生の頃、私達の祭では、神輿が国道を1キロ以上にわたって練り歩き、お旅所に行きます。神輿の煉りに出くわしたトラックは悲惨です。リーダーが「通しましょう、通しましょう」と言わない限り、立ち往生するのです。又、個人の家の前に神輿を入れ、「花代」(現金)を強要しました。このお金は、祭を行う若者の酒食にも使われました。これは、警察も手出しが出来ない風習でした。単なる御輿でなく、神が乗り移っている神輿だという観念がありました。
(2)学生時代、調査していると、抜け参りとか御蔭参りという話を、時々聞くことがありました。
(3)頭人を出すのは、裕福な家で、その家では、祭礼の間、無礼講といって、近所の人全てに酒食のもてなしをしていました。
 以上のことを念頭に、抜け参りを考えてみました。
 普段、厳しい生活をしている人にとっては、神と関わりのあることで、息抜きができ、生活に余裕がある人は、それを容認する風習がありました。
 農村や都市で、経済的に余裕のない次・三男や使用人は、伊勢参詣など信仰を理由に、抜け参りをしました。街道の余裕のある人は、彼らに酒食でもてなしたり、宿を提供しました。それが、余裕のある人の名誉税的な考えがありました。彼らに酒食や宿の提供を拒否すると、神罰が下ったと、暴力沙汰も発生しました。各地の伝説では、拒否した人が懲罰を受ける話が残っています。これを専門的にはポトラッチ(蕩尽)という人もいます。私は、財産の再分配と考えています。
 財産の再分配を通じて、社会の不満のはけ口となるのです。抜け参りや御蔭参りやええじゃないかにはそのような役割がありました。今、富の二極化が言われています。抜け参りのようなガス抜きが行われないと、もっと大変なことが起こりそうな気がしています。

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