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エピソード

166_01

幕末の文化と社会U(福沢諭吉と留学生群像)
福沢諭吉
 何故、福沢諭吉が1万円札のモデルなのでしょうか。ある人は、小泉純一郎首相が福沢諭吉の創立した慶應義塾の卒業生だというでしょう。
 主要国首脳会議(G8サミット)は、日・米・英・仏・独・伊・加・露・8ヵ国の首脳と欧州連合(EU)の委員長で構成されています。この構成を見て、何か、気がついたことはありませんか。そうです。日本人以外は、すべて白人の国ということです。このような姿を最初に提唱した人が福沢諭吉で、その内容は「脱亜入欧」だったのです。
 福沢諭吉の思想が、今日に流れているので、1万円札のモデルになったのです。
 では、福沢諭吉とはどういう人なのか、調べてみました。
 1834(天保5)年12月、福沢百助中津藩の大坂蔵屋敷の蔵役人)と福沢順の間に、次男が生まれました。福沢百助が『上諭条例』(乾隆帝時代の法令集)を買った日に生まれたので、諭吉と名づけられました。
 1836(天保7)年6月、福沢諭吉(3歳)の父百助が、脳溢血で亡くなりました。母のお順は、5人の子を抱え、豊前の中津に帰りました。
 1840(天保11)年12月、下士身分の福沢諭吉(7歳)は、上士身分の子供にいじめられるのが嫌で、家の中で遊んでばかりいました。
 1845(天応16)年、福沢諭吉(12歳)は、兄が虫干しをしていた藩主からの辞令を足で踏んでしまいました。兄からは「お殿様の名前が書いてある紙を踏みつけるとは何事か」と厳しく叱られました。しかし福沢諭吉は、内心、「たかが紙切れを踏んだのに、バチが当るわけがない」と考えていました。
 福沢諭吉は、親戚の家にある祠を拝まされました。諭吉は、「祠に何が祀っているんですか」と聞くと、親戚の叔父は「ご神体が入っている」と答えました。諭吉は、1人になって、祠の中を見ると、ただの石ころでした。そこで、そこら辺に転がっている石を取り替えてみました。その祠で初午祭りがありました。何も知らない一族は、ただの石ころのご神体を必死に拝んでるのを見て、諭吉は、面白がりました。
 1847(弘化4)年、福沢諭吉(14歳)は、兄の強引な勧めで、白石照山白石塾に入りました。諭吉は、自分より小さい子がすらすら読み書きできるので、びっくりし、必死で勉強するようになりました。白石照山は以前、中津藩士でしたが、門番を命じられて、それを拒否したために、藩を止めさせられました。
 1853(嘉永6)年、ペリーが来航しました。福沢諭吉(20歳)は、兄から「これからはオランダ語の原書が読めないとだめだ」と言われ、長崎留学を希望するようになります。
 1854(嘉永7)年2月、福沢諭吉(21歳)は、兄の仕事で長崎に行くことになりました。長崎の光永寺には、家老の子供の奥平壱岐が留学しており、そこで世話になることになりました。
 5月頃、怠け者の奥平壱岐は、熱心の勉強する諭吉が邪魔に感じて、砲術家の山本惣次郎の書生に推薦しました。
 諭吉は、時間があれば、必死でオランダ語の勉強もしました。ある日、佐賀からの客が山本家にある大砲の設計図を見に来ました。オランダ語に堪能な諭吉が説明しました。
 これを見た山本惣次郎は、奥平壱岐にも見せてやろうと思いました。奥平壱岐は、身分の低い下士の諭吉が説明するのが不満でした。恥をかかされたと思った奥平壱岐は、諭吉を長崎から追い出すために、家老の父に手紙を出しました。
 1855(安政2)年1月、福沢諭吉(22歳)の元に手紙が2通来ました。1通には、「母が病気なのですぐ戻って来い」とありました。もう1通には、「母が病気というのはウソで、家老の奥平のはかりごとです」とありました。
 諭吉は、怒り狂いましたが、「喧嘩しても身分が低い方が負ける。それより自分の身の振り方を考えたほうがいい」と考え直し、中津に帰らず、兄のいる大坂に向かいました。
 3月9日、大坂に着いた福沢諭吉は、緒方洪庵適塾に通いだしました。100人もいる塾生を緒方洪庵は指導しません。一定のレベルに達した者が対象になるのです。諭吉は、必死で勉強しました。
 1856(安政3)年5月、福沢諭吉(23歳)は、3年ぶりに中津に帰りました。
 8月、諭吉は、再び大坂に帰りました。そこへ、兄の死を知らせる手紙が届き、中津に帰り、福沢家の家督を継ぎました。身分は足軽で、仕事は城の門番でした。家督を継いだことを、家老に報告に行きました。その時の家老は、長崎事件の当人である奥平壱岐でした。奥平壱岐は、23両で買ったというペル著『築城書』(オランダ語原書)を見せびらかしました。諭吉は、図を見るだけと称して、5日間借りることにしました。20日もかかって必死で全てを筆写しました。
 1856(安政3)年、福沢諭吉(23歳)は、下級武士の生活に耐えられなくなり、母を説得して、再び、大坂に行くことになりました。借金は、父百助の蔵書を売却して15両、残りを家財道具を売り払って、払い終えました。
 緒方洪庵は、諭吉を特別に扱うことも出来ないので、筆写したペル著『築城書』を翻訳するという仕事を与え、塾内で生活することを認めました。
 1857(安政4)年1月、福沢諭吉(24歳)は、適塾の塾頭に抜擢されました。
 ある時、緒方洪庵は、福岡藩主の黒田長溥から80両もするファラデーの『ワンダーベルト』(物理学の原書)を3日間の限定で借りてきました。塾生は、交代で、約60時間かけて、「エレキテル」だけを筆写しました。
 1858(安政5)年9月、福沢諭吉(24歳)は、中津藩の蔵屋敷から呼び出しが来ました。適塾の塾頭を見込んで、江戸の蘭学塾の先生を委嘱したのです。
 12月、諭吉は、江戸築地鉄砲洲の中津藩屋敷で蘭学塾を始めました。ここが今の慶応義塾大学のルーツです。諭吉は、自分の蘭学の実力を知るために、半分いたずら、半分真剣に、江戸の蘭学者を訪ね、江戸でも有数の実力者であることに自信を持ちました。
 1859(安政6)年6月、日米修好通商条約によって横浜が開港されました。福沢諭吉(25歳)は日本人でなく、外国人を相手に自分の蘭学がどれだけ通用するか、横浜に出かけました。しかし看板は見たことがない文字で描かれたいました。話しかけても通じないし、返ってくる言葉もわかりませんでした。オランダ語はここでは役に立たなかったのです。世界で通用するのは、英語だと実感して、横浜を去りました。
 諭吉は、さっそく英語の勉強を始めることにしました。しかし、英語塾もなければ、辞書も参考書もありませんでした。ただ小石川に幕府の通訳森山多吉郎がいることが分かりました。築地から小石川まで15キロもあります。
 森山多吉郎は、「出仕前なら、教えよう」というので、毎日、諭吉は出かけました。3カ月通いましたが、多忙故に、教えてもらえる日は少なく、結局独学で勉強することになりました。諭吉は、中津藩に願い出て、ホルトロップ著『英蘭辞書』(蘭英対訳)を購入しました。諭吉は、昼は蘭学を教え、夜は英語を勉強しました。
 12月、幕府使節団は、日米修好通商条約の批准に、アメリカに行くことになりました。その護衛を名目に、幕府軍艦の咸臨丸を演習航海させることになりました。そのことを知った福沢諭吉は、桂川甫周の紹介文を持って、軍艦奉行並の木村喜毅を訪ねました。木村喜毅は、野蛮なアメリカ行きを嫌がる時代に、快く、諭吉の同行を許可しました。
 1860(安政7)年1月13日、福沢諭吉(26歳)が乗った咸臨丸は、江戸品川沖を出航しました。この船には、通訳方として中浜万次郎も同乗していました。
 2月26日、福沢諭吉らは、サンフランシスコに到着しました。諭吉は、電信やガルバーニのメッキ法などを見学しました。
 また、木村喜毅に連れられてオランダ医師の家を訪問しました。この時、諭吉は、一家の主人がこまごま働いて、奥さんが座っている光景を目にしました。自由で対等な夫婦の在り方にびっくりしました。
 また、ある歓迎会で、諭吉は、「建国の父であるワシントンの子孫は、今、どうしていますか」と尋ねました。すると、同席のアメリカ人は「?」でした。そこで、諭吉は、「アメリカでは家柄は、重要でない」と知りました。
 諭吉は、ウエブスターの英語辞書を購入しました。
 閏3月19日、福沢諭吉の乗った咸臨丸は、サンフランシスコを日本に向かって出航しました。
 5月5日、福沢諭吉の乗った咸臨丸は、浦賀に到着しました。
 8月、福沢諭吉は、ウエブスターの英語辞書で猛勉強し、『増訂華英通語』(中国人子lの編集した英語と中国語の対訳単語短文集『華英通語』に、英語の発音にカナをつけ、日本語訳した書物)を刊行しました。これが縁で、福沢諭吉は、幕府の翻訳方に採用されました。
10  1861(文久元)年、福沢諭吉(27歳)は、中津藩の上士である土岐太郎八(350石)の娘(お錦)と結婚しました。身分制の社会にあって、身分を越えたこの結婚は、異例でした。
 12月23日、福沢諭吉は、幕府の遣欧使節に従ってヨーロッパに派遣されることになり、品川を出航しました。
 1862(文久2)年12月10日、福沢諭吉(28歳)は、長崎→香港→シンガポール→スエズ→マルセイユ→パリ→ロンドン→ロッテルダム→ベルリン→ペテルブルク→ベルリン→パリ→リスボン→スエズ→シンガポール→香港→品川を経由して、帰国しました。
 一行は、ロンドンの議会を見学しました。議会では、自由党と保守党が喧嘩のように口論をしていました。食堂では、その2人がなかよく食事をしていました。諭吉は、自分の意見が自由に言える国や人をうらやましく感じました。
 諭吉は、この時のヨーロッパ旅行を『西洋事情』として出版し、日本人に西洋文化を紹介しました。
 12月下旬、翻訳方の同僚が、攘夷派に教われました。諭吉は、夜間の外出をしなくなりました。
11  1863(文久3)年6月、福沢諭吉(29歳)は、緒方洪庵の通夜で、適塾の同僚である長州藩の村田蔵六大村益次郎)と再会しました。その席で、村田蔵六が攘夷論を展開したので、諭吉は、攘夷論をナンセンスだと決め付け、長州藩の下関砲撃事件を批判しました。
 初秋、江戸唯一の英学塾と発展した福沢諭吉の塾は、鉄砲洲の中津藩中屋敷に移りました。
 1864(元治元)年3月、福沢諭吉(30歳)は、6年ぶり中津に帰り、母と再会しました。
 10月、福沢諭吉は、幕府の外国奉行翻訳方に採用されました。
12  1866(慶応2)年秋、福沢諭吉(32歳)は、大小2本の刀を残して、全てを売り払いました。買い手の町人が「どうして売り払うのですか」と聞くと、諭吉は「これからの世の中は、刀が無用になる時代だ」と答えました。
 1867(慶応3)年1月、福沢諭吉(33歳)は、幕府の軍艦受け取り委員の一行に加わって、アメリカに行きました。
 6月27日、福沢諭吉ら一行は、帰国しました。しかし、船の中の言動(幕府はぶっつぶす以外にない)が理由で、諭吉は、謹慎を命じられ、アメリカで買った書物は没収されてしまいました。
 10月、大政奉還後、福沢諭吉は、謹慎を解除されました。
13  1868(慶応4)年4月、鉄砲洲一帯が外国人居留地に指定されました。福沢諭吉(34歳)は、新銭座の有馬家中屋敷に移りました。英語塾は、年号をとって慶応義塾としました。没収されていた書物も返却されました。
 5月、江戸城明け渡し後も、旧幕府軍の彰義隊は、上野にたてこもって抵抗していました。
 5月15日、村田蔵六が指揮する新政府軍と彰義隊が、戦闘を開始しました。しかし、福沢諭吉は、1日も慶応義塾を休ませることもなく、授業を続け、この日は英書『ウェーランドの経済書』を講義しました。
 6月、前の将軍徳川慶喜が水戸に送られました。諭吉は、徳川家に暇願いを出し、武士の身分を捨てました
 9月、年号が慶応から明治になりました。
14  1870(明治3)年5月、福沢諭吉(36歳)は、発疹チフスにかかりました。
 6月、諭吉の病気も治癒し、散髪しました。
 12月、諭吉は、母を東京に呼び寄せました。
 1871(明治4)年3月、福沢諭吉(37歳)は、慶應義塾を三田に移しました。
 8月、政府は、散髪・脱刀令を布告しました。
 1872(明治5)年2月、福沢諭吉(38歳)は、『学問のすゝめ』を刊行しました。
 1875(明治8)年、福沢諭吉(41歳)は、『文明論之概略』を刊行しました。この本には、西洋文明を取り入れ、列強諸国に対抗して日本の独立を維持するということが書かれています。
 これ以降は、別項で扱います。
 この項は、『人物日本の歴史』(小学館)・『歴史群像』などを参考にしました。
福沢諭吉とは、どんな人?
 私は、日本の現在を予見した人として、坂本竜馬と福沢諭吉のことを詳細に調べました。
 坂本竜馬は政治家・外交家として、福沢諭吉は教育家・思想家として、高く評価しています。自虐的にならなくても、外国から学んで、それと匹敵するまでのレベルに到達した日本人がいたことを誇りに思います。自虐的と批判する人と違い、竜馬も諭吉も、外国との交際を客観視していたことも事実です。
 子どもの頃に湯福沢諭吉は、「藩主の名が書いてあっても、紙は紙である」と思ったり、祠のご神体=ただの石ころ拝む大人を覚めた目で眺めています。小さい時から、合理的思考の持ち主だったことがわかります。 
 子どもの頃の福沢諭吉は、今風のいじめにも会い、不登校も体験しています。しかし、自分より小さい子が読み書きできることに驚いて必死で勉強したりして、自分の力で、解決しています。
 身分差別にも会っています。復讐したい気持ちを、「力が弱いものが負ける。別な生き方を探そう」と学問に、悔しいエネルギーを注入しました。
 必死で覚えたオランダ語が、無益だと感じると、英語を勉強します。英語の先生の家へ、15キロの道を約3時間かけて、3ヶ月通いました。留守が多く、独学を決意しました。自分はオランダ語が出来る。しかし、英語ができない。それでやったことを、蘭英辞書を購入することです。
 福沢諭吉は、江戸でも有数のオランダ語学者です。それだけでも十分食っていけます。しかし、諭吉には、役に立つ勉強しか頭になかったのです。これが実学なのでしょう。
 その方法もユニークです。素晴らしい。「ピンチはチャンス」。困った時に、次々とアイデアが浮ぶのです。
 福沢諭吉のように、次に役立つのは英語(英語を話す英米が世界の中心)だと考え、英米に行った人がいます。
 長州では伊藤博文(総理大臣)・井上馨(外務卿)です。薩摩では寺島宗則(外務卿))・森有礼(文部大臣)です。
 他方、オランダに留学したのは、津和野の西周(貴族院議員)であり、津山の津田真道(貴族院議員)です。
 大臣になったから立派で、そうでないから立派でないとはいえません。しかし、将来性のある学問をとるのか、時代遅れの学問をとるかの差が出ているように思います。
 以前にも書いたかもしれませんが、再度、取り上げます。
 小学校の頃、担任の先生から『学問のすゝめ』の冒頭の句を暗記させられました。暗記した者から職員室へ行って披露し、合格すれば、帰宅を許されました。その暗記の句は「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずと云へり。されば天より人を生ずるには、万人は皆同じ位にして、生まれながら貴賎上下の差別なく」という部分でした。
 今、流行している、声に出して覚えるというルーツです。
 その頃は、子供心に、福沢諭吉は平等を説いていると思っていました。
 高校になって、『学問のすゝめ』の原文を読む機会がありました。暗記させれれた部分の次の文章を読んで、びっくりしました。今でも、多くの人が、冒頭の部分だけを知っている、諭吉を平等主義者だと思っています。
 そこには、「今広く此人間世界を見渡すに、かしこき人あり、おろかなる人あり、貧しきもあり、富めるもあり、貴人もあり、下人もありて、其有様、雲と泥との相違あるに似たるは何ぞや。其次第甚だ明なり。実語教に、人学ばざれば智なし、智なき者は愚人なりとあり。されば賢人と愚人との別は、学ぶと学ばざることに由て出来るものなり」とありました。
 少し長いですが、現代語訳すると、「今、広く、人間社会を見渡すと、賢い人もいる、愚かな人もいる、貧しい人もいる、富める人もいる、貴人もいる、下人もいる。そのあり有様は、雲泥の差がある。天は平等に作っているのにこれはどうしてか。その理由は簡単である。『実語教』によると、人間は学ばないと智恵がない、智恵がなければ愚人であると書いている。すなわち、賢人と愚人の別は、学ぶか学ばないかで決まるのである」。その後、同じ学ぶと言っても、役に立つ学び方、実学を勧めています。
 つまり、諭吉は、「天は、人間を平等に作りました。しかし、現実には、様々な差別があります。それは、学問をする人とそうでない人との差です。だから、学問をしましょう」と学問を勧めたのです。だから『学問のすゝめ』になります。
 声を出して覚えるのが大切なのでなく、覚えた内容を、現実生活にどう活かすかが大切ななのである。そう福沢諭吉は説いているのです。
 最近(2005年)、『声を出して読む古典』とか『声にして読む名作』などがベストセラーになっているようですが、そうした風潮を福沢諭吉はあざ笑っているように思えます。

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