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エピソード

167_01

戊辰戦争T(鳥羽・伏見の戦い、江戸無血開城)
 1867(慶応3)年10月、西郷隆盛は、政局の打開は戦争によってのみ可能であるという信念を変えず、大政奉還討幕の密勅の後も、幕府を挑発して、討幕の機会を狙っていました。薩摩藩士の益満休之助らに、浪士や無頼漢を集め、江戸市中の治安を乱し、騒乱状態を作るように命じていました。西郷隆盛の命で、相楽総三(27歳)が赤報隊を作ったのも、その目的に沿うものでした。
 10月上旬、相楽総三ら500人は、京都より江戸の下向し、江戸芝三田の薩摩藩邸に入りました。
 12月9日夜、小御所会議で、徳川慶喜の辞官納地が決定しました。
 12月13日、徳川慶喜は、二条城より大坂城に入りました。
 12月16日、赤報隊は、江戸の荻野山中藩陣屋を襲撃し、弾薬・軍資金などを略奪しています。
 12月23日夜、赤報隊は、江戸の奥羽庄内藩屯所を襲撃しました。
 12月25日、江戸城在住の小栗上野介ら過激派は、報復と称して、庄内藩など4藩兵を含め2000人を動員し、三田の薩摩藩を焼き討ちしました。相楽総三らは、品川に碇泊中の薩摩船の鳳翔丸に乗り込んで京都に逃げました。
 1868(慶応4)年1月1日、徳川慶喜は、朝廷に提出するために「討薩の表」を作成しました。その内容は「12月9日以来の事態を見るに、これは朝廷から出たものでなく、薩摩の島津忠義の奸臣どもの陰謀から出たものである。…この奸臣どもの引渡しを求める。叶わない時は、彼らを誅戮する」というものでした。
 1月2日、徳川慶喜は、1万5000の兵を京都に進軍させました。伏見奉行所は、新撰組(負傷した近藤勇に代わって土方歳三が指揮)などが屯所に利用していたので、一行は、その隣の本願寺太子堂に陣を布きました。
 1月2日夜、会津藩は、伏見口に集結しました。鳥羽街道を進撃した幕軍別働隊は、淀城に本陣を布きました。
 1月2日夜、朝廷側も、旧幕府軍の京都進軍を情報を知りましたが、岩倉具視三条実美らは、決断が出来ませんでした。そこで、西郷隆盛と大久保利通が長文の意見書を提出しました。
 1月3日朝、薩長土の藩兵も出軍しました。最右翼には土佐藩兵、その左翼には長州藩兵が陣を布きました。真正面は、本隊のいる本願寺太子堂です。その左翼に御香宮を挟んで薩摩藩兵が陣を布きました。道1つ隔てて、新撰組がいる伏見奉行所があります。
 1月3日朝、薩摩藩兵は、有利な地形を求めて南下し、鴨川にかかる小枝橋を渡って、その東側に陣を布きました。
 1月3日正午、岩倉具視は、三職以下百官による緊急会議を開き、「徳川家を朝敵として討伐すべし」との朝議が決定しました。
 1月3日午後4時、幕軍別働隊の滝川具挙は、鳥羽街道を北上し、赤池で、薩摩軍に通行の許可を求めました。薩摩側は、「朝廷の許可がなければダメなので、問い合わせる」と返答しました。
 1月3日午後5時、しびれを切らした幕軍別働隊の滝川具挙は、強行に突破を開始しました。それを合図に、薩摩の大砲が火を吹きました。こうして、西郷隆盛が狙ったように、薩長土連合軍と旧幕府軍との間で戦闘が始まりました。これを鳥羽伏見の戦いといいます。
 鳥羽方面では、佐々木只三郎見廻組が、切り込みました。しかし、白兵戦で密集隊形では、相手の砲兵戦には勝ち目がありません。
 伏見方面では、新撰組が白兵突撃を試みました。しかし、薩長土連合軍の猛射撃に撃退されました。更に、伏見奉行所などが砲撃され炎上すると、旧幕府軍も敗走しました。
 1月4日午前、鳥羽方面では、一進一退の戦いが繰り広げられます。
 伏見方面では、旧幕府軍は、中書島で破れ、淀方面に撤退します。
 1月4日午後、大久保利通らの働きで、薩長土連合軍に錦の御旗が翻り、薩長土連合軍は「官軍」、幕府軍は「賊軍」となりました。
  1月4日、赤報隊の幹部が、西郷隆盛に会い、関東の様子を報告しました。西郷隆盛は、「この戦争を早め、徳川氏滅亡の端を開いたのは、実に貴兄等の力なり、感謝に堪えず」と言いました。
 1月5日、薩長土連合軍に錦の御旗が立てられました。その結果、薩長土連合軍は官軍となり、官軍と戦う相手は賊軍となり、朝敵となったのです。それまで日和見を決めていた鳥取軍が新たに薩長土連合軍に合流しました。
 鳥羽方面では、薩長土連合軍は、桂川に沿って南下し、富ノ森らの旧幕府軍陣地を奪取して、淀城に迫りました。
 伏見方面では、薩長土連合軍は、宇治川に沿って進軍し、淀城に迫りました。
 1月5日、海路大坂湾を目指した鳳翔丸は神戸に着き、相楽総三(小島将満)らは、上京しました。 
 1月6日、淀城を失った旧幕府軍は、「京に向い進軍する」と言う方針を「京から進軍してくる薩長土連合軍を迎え撃つ」と変更し、京都平野の最南端に位置する男山八幡に布陣しました。世良修蔵が率いる長州軍の別働隊が、男山八幡東部にある旧幕府軍の陣地を突破しました。
 しかし、旧幕府軍の津軍(藤堂家32万石)が、薩長土連合軍に寝返ったため、旧幕府軍は力尽き、大坂城に撤退しました。
 1月6日午後22時、彼らが大坂城に着いた時は、全軍の総大将である前将軍徳川慶喜が、部下を見捨てて、海路で江戸に脱走した後でした。京都守護職で会津藩主である松平容保も部下を見捨てて、前将軍の徳川慶喜と同行しました。
 総大将に見捨てられた旧幕府軍は、自失呆然として、自藩に帰っていきました。
 1月9日、新撰組で無事だった永倉新八らは、順動丸に乗船し、江戸に向かいました。
 1月10日、近藤勇・土方歳三・沖田宗司ら新撰組の負傷隊士は、富士山丸に乗船し、江戸に向かいました。
 1月12日、相楽総三ら赤報隊は、朝廷より勅許された官軍印を使い、「東征の先鋒」と名乗り、進軍の道々で「御一新」と、「旧幕府領の当年分、前年未納分の年貢半減」を布告しながら進みました。武士でない農民の布告を、街道の人々は信じました。
 1月19日、フランス公使ロッシュ(60歳)は徳川慶喜に再挙を勧告しましたが、慶喜は、これを拒否しました。
 1月22日、岐阜の岩手に来ると、赤報隊は、西郷隆盛から「年貢半減令」の撤回を告げられました。
 1月23日、東山道軍総督府は、赤報隊に対し、解散命令を出しました。しかし、相楽総三らは、命令を無視して、中山道沿いに進軍を続けました。
 1月29日、新政府の財政担当である由利公正(越前藩士。40歳)は、京都の三井・小野や大坂の鴻池より御用金として300万両を徴収しました。また、不足分を不換紙幣太政官札民部省札)で賄いましたが、これが後に、インフレーションの原因になります。
 2月9日、相良総三は、北信濃・東信濃地方の幕府領の接収を行いました。
 2月10日、東山道軍総督府は、赤報隊の捕縛を各藩に命令しました。
 その内容は、「無頼の徒を相い語り、官軍の名を偽り、虚喝をもって農商を脅かし、追々東下している」というものでした。
 2月12日、徳川慶喜は、静寛院宮(25歳。和宮)を通じて恭順の意を表明しました。
 2月23日、旧幕臣3000人は、上野で彰義隊を結成しました。
10  3月2日、総督府参謀は、相楽総三らに対して、下諏訪宿本陣への出頭を命じました。全員雨が降る中、一晩中諏訪大社並木の木に縄で縛り付けられました。近郷の者の記録では、「悪人の大将はどんな顔かと大勢が見物に訪れ、ぬかった泥の上に皆縄で縛られ、見張りの諏訪高島藩兵に”何故捕らえたのか理由を言え””岩倉具定を出せ”などと大声でわめいていたそうです。その中でも相良総三は、目を閉じて泥の上に座し、悪人でも親分は違うと思ったそうです」。
 3月3日、相楽総三らは、薩摩藩兵の命令により、偽官軍とされ、宿場外れの田んぼで打ち首となりました。
11  3月6日、東山道軍総督府の総裁である有栖川宮熾仁親王(34歳)・西郷隆盛は、「江戸城攻撃は3月15日」と決定しました。
 3月9日、幕府の海軍総裁である勝海舟(46歳)は、アーネスト・サトウと会見しました。そして、イギリス公使のパークスが「戦火の波及が貿易に及ぼす悪影響を恐れる」という信念を持っていることを知りました。
 3月13日午前、勝海舟は、江戸薩摩藩邸の西郷隆盛を訪ね、「戦争を回避したい」と発言しました。それに対して、西郷隆盛は、「徳川慶喜を岡山藩に預ける」という条件を提案しました。イギリス公使パークスの意向を知っている勝海舟は、「主君を外様に預けるわけにはいかない」と西郷隆盛の提案を断固として、拒否しました。
 3月13日午後、西郷隆盛の代理である木梨精一郎は、イギリス公使パ−クスと会見し、江戸城攻撃の諒解を求めました。パ−クスは、「江戸城攻撃は絶対受け入れられない」と反対しました。
 3月14日、西郷隆盛は、勝海舟に再度会見し、次の提案をしました。(1)徳川慶喜は水戸に隠居する(2)江戸城は開け渡す(3)軍艦・武器は引渡す。
 勝海舟は、この提案を了承し、ここに開城交渉は成立しました。これば江戸城の無血開城です。
西郷隆盛の恐いまでの凄さ、勝海舟の非戦論
 西郷隆盛は、1度死に、2度島流しになった体験から、「政局の打開は戦争によってのみ可能であるという信念」を持つに至りました。鳥羽・伏見の戦いの時の薩長土連合軍の兵力は、4500人でした。それに対する幕府軍の兵力は、幕府軍5000人、会津軍3000人、桑名軍1500人、新撰組を合わせて、1万5000人に達しました。人的には、薩長土連合軍は、幕府軍の3分の1にも満ちません。
 にもかかわらず、西郷隆盛は、小御所会議以前から、相楽総三らの赤報隊を使い、武力で幕府を打倒する陰謀をめぐらせていました。
 西郷隆盛は、戦えば、勝てるという自信を持っていました。何故か。精神論をとると、相手も精神を持っているので、勝利の方程式とはいえません。西郷隆盛には、科学的な根拠がありました。それは武器でした。
 薩摩藩は、薩英戦争の時、銃の差を思い知らされました。戦後、英国商人グラバーから(1)ミニエー銃1万挺を購入しています。長州藩も、薩摩藩を経由して、ミニエー銃4300挺、(2)ゲーベル銃を購入しています。長州藩は、この銃を購入するのに、9万2400両支払っています。
 その他、薩長土連合軍は、(3)アームストロング砲、(4)ガットリング砲、(5)スナイドル銃、(6)スペンサー銃を持っていました。
 幕府軍は、(1)げーベル銃しか所有していませんでした。
 長岡藩の河合継之助は、(1)ミニエー銃1挺を30両で購入しています。(4)ガトリング砲は、3門の内2門を長岡藩が購入しました。
(1)ミニエー銃は、イギリス製ですが、イギリスでは最新式ではなくなkつたので、価格は安くなっている。
(2)ゲーベル銃は、欧米では廃銃扱いになっていたのを、高価で買わされた。
(1)ミニエー銃(フランス、1864年製。弾は元込。射程距離800m。命中率は400メートルで、2発に1発。50%
(2)ゲーベル銃(オランダ、1777年製。弾は先込め。発射速度は、ミニエー銃の10分の1.射程距離500メートル。命中率は400メートルで、20発に1発。0.5%
(3)アームストロング砲(イギリス製。射程距離4000メートル。命中率は高く、連続発射が可能)
(4)ガットリング砲(アメリカ、1862年製。1分間に200発発射。命中率は高い)
(5)スナイドル銃(イギリス、1864年製。飛距離は1.2キロ)
(6)スペンサー銃(1860年製。7連発)
 西郷隆盛は、この銃の性能と数を、徹底的に調べ上げました。また、西郷隆盛が指揮する御親兵は、後に近衛兵の母体となっただけに、精神的にも精鋭部隊だったのです。「己を知って、敵を知れば、百戦すれども、危うからず」ということを熟知しているからです。大和魂などの精神論も、具体的で、科学的な数字の上で、発揮されるものです。上司が、努力しないで、部下に、いくらやる気を吹き込んでも、空しさだけが、広がります。
 他方、旧幕府軍は、実際に戦闘するとは思ってなく、自分ら1万5000の大軍が出ていけば、薩長土連合軍は逃げ出すとは思っていた節があります。武器といい、気持ちといい、完全に軍隊の体裁を整えていませんでした。
 鳥羽・伏見で、交戦の知らせを聞いた西郷隆盛は、「百万の味方を得たるよりも嬉しかりき」と叫んだといいます。西郷隆盛の死を賭した、執念を感じます。
 鳥羽・伏見の戦いで、活躍した人にどんな人がいたでしょうか。薩摩軍では、黒田清隆・村田新八・篠原国幹・川村純義・西郷宗次郎・樺山資紀・村田経芳・東郷六郎兵衞・川路利良・大山巌らがいます。長州軍では、山田顕義の名が見えるだけです。
 薩摩の意気込みが感じられます。また、戦争という極限状態を通じて、人間は成長するのでしょうか。少しショックではありますが、これも現実です。すなおに、受け入れる必要があります。
 錦の御旗(ニシキのミハタ)とは、赤い錦地に日月を金銀で刺繍した旗幟のことをいいます。旗幟は旗幟ですが、この旗幟を持った側が官軍(天皇の軍隊)となり、相手は賊軍で朝敵になります。その効果は抜群です。
 前将軍慶喜は、朝敵と聞いて、ビビッて、江戸に逃げ帰りました。しかも、自分の為に戦っている部下を見捨てたのです。大坂城で、指揮官としての責任を全うしておれば、彰義隊の悲劇はなかったかも知れません。
 殺し屋集団の新撰組を配下に持つ京都守護職の松平容保も、前将軍慶喜に誘われて、部下を置き去りにして、江戸に同行したのです。賊軍の汚名をまま、逃げて行ったのです。大坂城で、指揮官としての責任を全うしておれば、会津藩や白虎隊の悲劇はなかったかも知れません。
 松平容保の弟が桑名藩主の松平定敬です。桑名・会津というのは、兄弟の関係だったのです。父は美濃の高須藩主松平義建で、容保は会津に養子に、定敬は桑名に養子に行ったのです。養子先を滅ぼしたという話は、よくあります。
 忠臣蔵でも、「君は君たらずとも、臣は臣」という言葉があります。
 JR下諏訪駅から歩いて5分ほどの所に、小さな墓地があります。相楽総三(小島将満)の墓です。
 最近の教科書では赤報隊も相楽総三も、11冊中8冊で、取り扱っています。私たちの高校時代には、取り上げられなかった事実です。
 西郷隆盛は、幕府を挑発するために、赤報隊の相楽総三らを徹底して利用します。鳥羽・伏見の戦いで勝利した後も、西郷隆盛は、江戸城攻撃を策謀します。そのため、農民出身である相楽総三に、「新政府軍に与すると、年貢半減になる」ことを布告させます。新政府軍の領域が信濃にまで及ぶと、西郷隆盛は、相楽総三の役割が終わったと、偽官軍として処刑します。
 西郷隆盛には、農民を支持する立場ではなかったということです。
 鹿児島出身の人に、この事実を突きつけると、最初は否定します。否定できない事実と分かると、「西郷隆盛がそんなことをするはずがない。その部下が勝手にしたのだろう」ということになります。西郷フアンにとっては、公にしたくない事実のようです。
 江戸城の無血開城という話が大きく扱われます。勝海舟は、坂本竜馬と同じく、内乱は人材を消失し、列強の餌食になると考えていました。そのため、西郷隆盛の弱点であるイギリス公使パークスの持論を利用しました。
 西郷隆盛も、最後には、勝海舟の立場を理解しました。死を賭した2人の英雄が、日本から戦乱を防いだのです。
 現在、このような人材は、いるのでしょうか。「義で動くか、損得で動くか」。
 修羅場をくぐらず、口先とペーパー上の知識で、損得で動いて、のし上がった者には、所詮無理な注文です。

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