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エピソード

167_02

戊辰戦争U(彰義隊・白虎隊)
 1868(明治元)年1月3日、鳥羽伏見の戦いが始まりました。
 1月4日、薩長土連合軍に錦の御旗が翻り、薩長土連合軍は「官軍」、幕府軍・会津軍などは「賊軍」となりました。
 2月12日、徳川慶喜は、上野寛永寺の大慈院に蟄居謹慎しました。この時、旧幕臣である本多敏三郎ら17人が会合し、「徳川家の恩顧に報いるために行動をする」ことを決議しました。
 2月23日、旧幕臣である本多敏三郎らは、彰義隊を結成し、頭取に渋沢誠一郎、副頭取に天野八郎らを選びました。本拠を上野におき、隊員は1000人に増加しました。その人数を看過できず、徳川慶喜は、江戸市中取締りの任を与えました。
 2月27日、会津藩は、武備恭順の意を表明しました。会津藩は徳川慶喜にならって恭順の意を示すため、養子松平慶徳(徳川慶喜の弟)に藩主の位を相続させました。また、前会津藩主松平容保は登城を禁じられたため、江戸から会津へ引き上げ、郊外の御薬園にて謹慎、武備恭順(戦う準備をしながら、恭順の姿勢をとること)を行いました。この武備恭順期間に軍制を洋式化しました。
 この時、玄武(50歳以上で、予備役)・青龍(36〜49歳)・朱雀(18〜35歳)・白虎(15〜17歳で、予備役)などの各隊を編成しました。
 3月6日、新撰組近藤勇土方歳三らが甲陽鎮撫隊を編成して甲府城奪取へと動き始めました。甲州勝沼で新政府軍と戦闘し、敗北を喫しました。
 3月14日、江戸城の開城交渉がまとまりました。
 3月19日、新政府の奥羽鎮撫総督九条道孝は、薩長の兵とともに、松島湾に上陸し、仙台・米沢藩に対して、会津・庄内藩の討伐を命じました。この時の参謀は、薩摩藩の大山綱良大山格之助)と長州藩の世良修蔵でした。
 4月、フランス公使ロッシュは、辞職して、本国に帰りました。
 4月4日、西郷隆盛は、江戸城を占領しました。
 4月5日、外国奉行川路聖謨は、無血開城を恥じて、ピストル自殺しました。無血開城を主導した勝海舟は、非難を受けました。
 4月10日、薩摩藩の私怨を感じた会津藩と庄内藩は、攻守同盟を結びました。
 4月11日、徳川慶喜は、上野寛永寺を出て、水戸に隠居しました。彰義隊も分裂し、頭取の渋沢誠一郎は上野を去り、副頭取の天野八郎が指揮をとるようになりました。しかし、彰義隊は3000人に増加しました。この人数は看過できず、勝海舟は、山岡鉄舟を上野に派遣し、寛永寺の執当覚王院義観に対して、彰義隊の解散を説得させました。
 しかし、義観は、これを拒否しました。
 4月11日、大鳥圭介は、浅草報思寺に旧幕軍500人を集め、部下と共に江戸を脱走した。
 4月12日、大鳥圭介らは市川に至り、新選組の土方歳三、会津藩出身の秋月登之助、桑名藩の辰見らと合流して2000の兵力の将となり、これを3隊に編成して、日光を目指して進撃しました。
 4月14日、奥羽鎮撫総督の九条道孝は、再度、仙台・米沢藩に対して、会津・庄内藩の討伐を命じました。
 4月16日、大鳥圭介は、下野小山へ向かうところで官軍を撃破しています。これが大鳥圭介の率いる部隊の最後の勝利でした。
 4月17日、長岡藩の筆頭家老である河井継之助は、親徳川の立場で、中立主義に藩論を統一しました。
 4月29日、仙台・米沢藩と会津藩の重臣が、(1)会津藩の重臣3人の首級を差し出す(2)前藩主松平容保を城外に出し謹慎させる、ということで話し合いがまとまりました。これを会津藩の家老西郷頼母が嘆願書にしました。
 閏4月4日、仙台・米沢藩は、会津藩の嘆願書を仙台に滞在する新政府の奥羽鎮撫総督の九条道孝に提出しました。同時に、仙台・米沢藩は、会津藩赦免の嘆願についての会合を仙台領白石で行うことについて、奥羽諸般に連絡しました。
 閏4月11日、盛岡・一関らの諸藩が、白石に会合し、14藩が赦免嘆願に同意しました。
 閏4月12日、仙台・米沢藩主は、松平容保の降伏嘆願書・両藩主の添書・参会列藩重臣の連名嘆願書の3通を、岩沼にいた奥羽鎮撫総督の九条道孝に提出しました。そして、「嘆願が聞き入れられない時は、奥羽2州は、軍を動かす」と脅しもかけました。
 九条道孝から相談された副総督沢為量・参謀大山綱良は、会津討伐が遅延しているのは、仙台・米沢藩の懈怠の結果であるから、嘆願書の不採用を主張しました。
 長州の世良修蔵は、会津藩支配下の新撰組により同士を殺された恨みがあり、会津藩を「朝敵天地に入るべからずの罪人」と決め付け、最初から討伐と決め付けていました。
 閏4月15日、九条道孝は、その嘆願を却下しました。「其方共ハ奥羽ノ諸藩中ニテ少シハ訳ノ分ルモノ故、使者ニモ使ハレシナランニ、扨々(サテサテ)見下ゲ果テタル呆気ニコソ、左様ノモノ共ノ主人モ略(ホボ)知レタモノナリ、所詮、奥羽ニハ目鼻ノ明タモノハ見当ラズ」。
 閏4月18日、世良修蔵は、出発前に宇都宮方面に駐留している新政府軍参謀伊地知正治白河方面の増援を要請しました。
 閏4月19日夜、世良修蔵は、福島城下の妓楼金沢屋に入りました。福島藩の用人鈴木六太郎を呼び寄せて、出羽に出陣中の参謀大山綱良宛ての書状を託しました。この時、福島に在陣中の仙台藩兵には、内密にすることを付け加えました。
 鈴木六太郎は、仙台藩が宿営していた長楽寺に行き、内密の書状を開封しました。そこには、「奥羽皆敵と見て逆撃の大策に致したく候儀」と書かれていました。密書を読んだ仙台藩士と鈴木六太郎は、金沢屋で酩酊し、芸娘と同衾中の世良修蔵を捕まえました。
 閏4月20日未明、世良修蔵の罪状を挙げ、その首を刎ねました。
 閏4月20日、会津藩は、白河城(北へは福島・仙台、東へは磐城平、西への会津若松。奥州の拠点)を攻略しました。守備兵の仙台藩や二本松藩は、会津藩に同情的で、抵抗すらしませんでした。
 閏4月20日、薩摩の参謀である黒田清隆と長州の参謀である山県有朋らの北陸道鎮撫総督軍兼会津征討総督軍は、越後高田に到着しました。これに、土佐の軍監である岩村精一郎が加わり、兵力は6000人となりました。黒田清隆らは、次の作戦を立てました。(1)山道軍(指揮は岩村精一郎)は、小出島を攻め、小千谷に進み、信濃川を渡って榎峠を占領し、長岡城を攻撃する(2)海道軍(指揮は黒田清隆・山県有朋)は、柏崎に進み、山道軍と連携して、長岡城を陥落し、新潟を奪取する。
 閏4月23日、仙台・米沢藩は、白石に奥羽諸藩を召集しました。先の奥羽14藩に11藩を新たに加えて、25藩が、薩長の私怨による罪状を挙げ、会津救解を主旨に、列藩同盟を結びました。
 閏4月25日、会津藩白河口総督西郷頼母らは、新政府軍を撃退しました。
 閏4月27日、山道軍は、小出島を攻め、小千谷を占領しました。
 閏4月28日、海道軍は、桑名軍を破って、柏崎を占領しました。
 5月1日、京都から派遣された大総督府の村田蔵六大村益次郎)は、彰義隊に委任していた江戸市中取締りの任を解除しました。彰義隊は失職しました。
 5月1日、新政府軍の佐賀藩・小倉藩の兵は、松島に上陸し、仙台城下に迫った
 5月1日、参謀伊地知正治らの新政府軍は、白河城を占領し、会津藩白河口総督西郷頼母らは、勢至堂口に敗走しました。
 5月2日早朝、長岡藩の筆頭家老である河井継之助(43歳)は、小千谷にいる土佐藩の総大将岩村精一郎(23歳)を訪ね、「攻撃をしばらく延期すれば、会津・桑名を説得して戦争をせずとも済むようにしてやる」と申し入れました。しかし、岩村精一郎は、今まで交渉してきた門閥の家老の程度の低さを体験しており、河井継之助をも同列視して、申し入れを拒否しました。
 5月3日、その結果、長岡藩・新発田藩ら北越6藩も加盟し、合計31藩で奥羽越列藩同盟を結成しました。
 5月11日昼、奥羽越列藩同盟軍は、榎峠を奪取しました。この時の戦いで、死傷者は同盟軍が9人、新政府軍は46人の登りました。
 5月13日、大総督府の軍議で、多くのものが夜襲して一気に彰義隊を壊滅することを主張しましたが、村田蔵六は、上野にたてこもってる賊は「徳川家の誠意に負ける不羈の残賊」であり、これは朝命により大義名分を押したて、白昼に攻撃すべきであると、反論しました。その後、輪王寺宮に使者を出し、立ち退きを要求し、江戸庶民には、家業は保障するからしばらくその場を離れるよう布告しました。
 彰義隊は、義に動かされた烏合の衆で、防備配置を定めただけで、高度の戦略はありませんでした。
 5月15日、新政府軍の村田蔵六は、上野の山を包囲する形で、正面の黒門口、背面の団子阪方面、西方の本郷台の三方面に諸藩兵を配置し、東方の根岸方面は、敗走用に空けていました
 西方の本郷台方面に配置したアームストロング砲が火を吹き、戦端が開かれました。正面の黒門口からは、薩摩の西郷隆盛や篠原国幹らが攻め上がりました。背面の団子阪からは、長州の軍が攻め上がりました。
 夕方、江戸城にいた村田蔵六に、「このままでは夜襲はいかんと言いながら、夜襲になるではないか」という者がいました。村田蔵六は、懐中時計を見て「もうじき終わったという知らせが来るはず」と話しているところへ、上野から知らせが来ました。「上野の賊兵は退却し、官軍の勝利です」と。
 彰義隊は、村田蔵六が空けていた東方の根岸から、三河島方面に敗走していきました。
10  5月19日早朝、山県有朋の意を汲んだ三好軍太郎は、信濃川の深い霧をついて、渡河上陸しました。不意を突かれた少数の長岡軍は、城下へ敗走しました。それを追って、新政府軍は、長岡城を占領しました。
 5月19日、奥羽越列藩同盟の結成で、奥羽鎮撫総督府は完全に孤立し、総督九条道孝は、仙台から盛岡に脱出しました。出羽新庄を本拠に、庄内藩攻略の指揮をとっていた参謀大山綱良も、秋田に脱出しました。しかし、盛岡藩や秋田藩は、彼らの保護を拒否しました。
 6月、奥羽越列藩同盟は、上野戦争から逃れてきた輪王寺宮(のちの北白川宮能久親王)を総督に迎え、白石を公議所として、奥羽政権の樹立を目指し、政府軍の征討の標的とされていた会津藩・庄内藩と連携して新政府軍に当たろうとした
 6月26日、白河城にいた参謀板垣退助は、棚倉城を占領しました。
11  7月1日、九条道孝・大山綱良ら一行は、朝敵となることを恐れた秋田藩に迎えられました。同盟からの最初の離脱です。
 7月24日夜、新政府軍が2ヶ月前に占領していた長岡城を、筆頭家老河井継之助と奉行の佐川官兵衛らが、「月が照ると沼に伏せ、月が隠れると闇の中を進む」という状況で、奪回しました。
 新政府軍参謀の山県有朋は、河井継之助らの奇襲により一時は、命からがら逃げ出す始末でした。
 7月25日、新政府軍の大部隊が新潟湾松ヶ崎に上陸しました。これを見た新発田藩が、同盟を離脱しました。
 7月29日、新政府軍は、長岡城を攻略し、重傷の河井継之助らは、会津へ敗走しました。その途中、河井継之助は、亡くなりました。時に、43歳でした。
 7月29日、参謀板垣退助は、二本松城を攻略しました。重臣は自害し、二本松少年の悲劇が誕生しました。
12  8月19日、参謀板垣退助は、伊知地正治らと軍議をし、枝葉の仙台・米沢でなく、本星の会津を急襲することに決定しました。会津に入るルートには、3つあります。(1)白河→勢至堂峠→猪苗代西畔→会津(2)郡山→中山峠→猪苗代北岸→会津(3)二本松→石筵→保成峠(手薄だが険峻)→会津
 土佐の板垣退助は(1)ルートを主張し、薩摩の伊知地正治は(3)ルートを主張して、相譲りませんでした。そこで、長州の桃村発蔵は、兵を二分することの不利を説き、板垣退助を説得して、(3)ルートに決定しました。
 8月19日、江戸湾の榎本武揚艦隊も、旧幕府の指揮系統化を離れて艦隊ごと脱走しました。
 8月21日、新政府軍2600人は、同盟軍400人が守備する保成峠に殺到しました。同盟軍参謀大鳥圭介は、空しく退却しました。
 8月22日早朝、保成峠の敗退の情報が、会津若松城に届きました。家老西郷頼母は、冬阪峠に出陣しました。佐川官兵衛は猪苗代方面の石橋16の破壊に出陣しました。しかし、作戦を実行する前に、新政府軍は、猪苗代城と16橋を占領しました。
 8月22日午後2時、白虎隊40人に出陣の命令が下りました。
 8月23日早暁、白虎隊は、戸の口原で新政府軍と遭遇し、30人になってしまいました。穴切峠に着いた時は、はぐれたりして、19人になっていました。飯盛山から会津若松城を見ると、新政府軍が民家に放火した黒煙が上がっていました。これを、会津落城と勘違いした白虎隊は、自害して果てました。飯沼貞吉は、息絶え絶えの所を、助け出されました。飯沼貞吉は、昭和6年に亡くなるまで、生き証人として、白虎隊の悲劇を語り続けました。
13  9月23日、会津藩は降伏し、新政府軍が会津若松城に入りました。西郷頼母の一族21人の壮絶な死を見て、土佐藩士中島信行は、息を呑んだといいます。
 9月23日、庄内藩などが降伏し、奥羽越列藩同盟は完全に崩壊しました。
 この項は、『合戦全集』『歴史群像』などを参考にしました。
戦争の悲劇・愛憎、河井継之助、娘子軍
 京都守護職(会津藩主松平容保)配下の新撰組が、多くの薩長志士を殺害しました。
 それを怨みにもった薩長指揮官は、敵意をもって会津藩討伐に向かいました。そこに様々な悲劇が誕生しました。
 その1つが、長州世良修蔵です。戦う前から、相手を見くびっています。これがなければ、会津戦争はなかったかも知れません。
 次に、長岡藩の家老である河井継之助が申し入れをした時、土佐藩の岩村精一郎は、奥羽の家老は門閥で程度が低いという体験から、申し入れを拒否しました。これがもとで、長岡戦争がおこりました。河井継之助という有能な人物も、生きていれば、日本のために活躍したことでしょう。
 岩村精一郎は、後に農商務大臣・男爵になる人物ですが、この時のことを回想して「もし、河井の人物を知っていたら、談判の仕様もあったろうが…」と述べています。
 前藩主松平容保と家臣らは、降伏後、越後高田などで謹慎の生活を送ります。容保は、その後、日光東照宮の宮司になります。
 1869(明治2)年、会津藩は再興を許されましたが、旧陸奥南部藩領3万石への移住を強制されました。新しい藩名を斗南とし、旧藩士と家族の合計1万7000人が移住しました。その地は、火山灰土の風雪厳しい不毛の土地で、なれない農業と寒冷な自然の前に生産高はあがらず飢えと寒さで病死者が続出しました。
 1871(明治4)年、廃藩置県により、斗南藩も斗南県となりました。その後、弘前県を中心に斗南県など周辺5県が合併して青森県が誕生しました。その結果、会津から移住した多くの人が、離散しました。
 河井継之助は、大政奉還後、長岡藩主牧野忠恭が江戸を引き上げる時、江戸藩邸の家宝・什器を横浜の外国人に売り払って、数万両を得ました。
 また、河井継之助は、長岡の蔵屋敷の米を、相場の高い箱館で売り、利益を得ました。
 さらに、河井継之助は、江戸と新潟では、銭相場に1両で3貫文の差があることに目を付け、2万両の銭を買い集めて、新潟で売り払い、利益を得ました。
 そこで得たお金で、エドワード・スネルから最新式のミニエール銃銃を大量に購入したり、日本に三門しかなかったガットリング砲を二門を買いました。
 100石以上の者の禄高を減らし、100石以下の者の禄高を増やして、やる気を出させました。兵学所を設けて、士官を養成し、錬兵場をつくって藩士に、砲術の訓練をしました。
 ここにも、商才に長けた、戦うリーダーがいました。
 会津戦争では、白虎隊の悲劇が有名です。
 それ以外では、会津の娘子軍があります。会津藩勘定奉行の中野平内の娘竹子は、娘子軍に属し、長刀をとって戦い、敵弾に当って亡くなりました。竹子は、「武者の 猛き心に くらぶれば 数にも入らぬ 我身ながらも」という辞世の歌を所持していました。
 山本八重子も忘れることができません。彼女は会津藩砲術指南山本覚馬の妹です。八重子は、男装して七連発のスペンサー銃もって、新政府軍と戦いました。松平容保が恭順を表明すると、八重子は、二の丸の雑物庫の白壁にカンザシで「あすよりは 何処の誰か 眺むらむ なれし大城に 残る月影」という歌を詠んで、その無念さを現しました。この女傑は、後に同志社を創立した新島襄と結婚して、夫を色々と支えたといいます。
 私の学生時代、会津若松から来た同僚は、「今の繁栄は、薩長の破滅的な政策の結果だ」と言っていました。その時は、その発言に深い注意を払いませんでした。
 その後、就職して、その時の同僚が、「会津若松に行ってきたが、何もなくて、さっぱり、面白くなかった」というのを聞きました。私は「何もないとは、どういうことですか」と聞くと、「パチンコもバーも遊ぶものが何もないということだ」と教えられました。
 今はどうなっているか知りません。でも、最近まで、日本人同士で対立の構図を作っている歴史、その重さに、ただ驚くばかりです。

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