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エピソード

167_03

戊辰戦争V(箱館戦争=五稜郭の戦い、榎本武揚・大鳥圭介・土方歳三)
 1868(慶応3)年3月14日、陸軍総裁勝海舟は、江戸城を明渡し、兵器・軍艦を引き渡す約束をし、開城交渉が成立しました。
 4月11日夜、海軍副総裁で急進武断派の榎本武揚(33歳)は、波浪を理由に引渡しの日延べを願い出て、軍艦を率いて脱走しました。榎本武揚の考えは、自分と同じ旗本8万旗の将来でした。北海道の屯田兵構想を持っていました。
 4月12日、戦争を回避したい勝海舟は、総督府参謀の西郷隆盛を訪ね、必死に、若干の軍艦と運送船の下賜を願い出ました。西郷隆盛は、それを了承しました。
 4月12日、勝海舟は、榎本武揚と会見しました。説得された榎本武揚は、軍艦を品川湾に引き返しました。下賜された軍艦は、開陽回天蟠竜千代田形の4艦で、輸送船は神速咸臨美嘉保の3船でした。長鯨を加えて4輸送船となりました。
 8月20日早暁、榎本武揚は、軍艦8隻と旧幕府海軍2000人を率い、品川を脱走しました。中島三郎助など海軍伝習所の卒業生が乗船していました。陸軍奉行並の松平太郎伊庭八郎らの遊撃隊幕府伝習隊の指導のために招かれていたフランス陸軍砲兵大尉ブリュネと伍長カズヌーブらも同行しました。
 8月21日、榎本武揚の旧海軍は、銚子沖で暴風に会い、汽船に曳航されていた「咸臨丸」・「美嘉保丸」のロープが切断され、軍艦三嘉保丸は沈没し、咸臨丸は大破しました。
 8月26日、旧幕府艦隊(旗艦開陽ら)は、仙台藩東名浜に入港しました。
 1868(明治元)年10月12日、旧幕府艦隊は、幕府が仙台藩に貸与していた大江鳳凰2艦を接収して、抗戦派の陸軍諸隊(幕府伝習隊を率いる大鳥圭介近藤勇亡き後の新撰組を指揮する土方歳三衝鋒隊古屋作左衛門、降伏に反対の星恂太郎が率いる洋式額兵隊)1000人を収容し、仙台藩の東名浜を出航しました。
 10月20日(新暦の12月3日)、旧幕府艦隊は、箱館湾の背後にある内浦湾の鷲ノ木沖に上陸しました。
 10月22日、土方歳三が指揮する部隊は、内浦湾岸を箱館へ進軍しました。また、大鳥圭介が指揮する部隊は、七重経由で箱館を目指して進撃しました。
 10月22日、旧幕府軍先遣隊は、峠下で、新政府軍と遭遇して、交戦しました。これが箱館戦争の発端です。
 10月23日、大鳥圭介隊は、七重で新政府軍を撃破しました。
 10月24日夜半、箱館府知事の清水谷公考は、五稜郭を出て、4キロ離れた箱館に入りました。
 10月25日、箱館府知事の清水谷公考は、秋田藩の陽春艦青森へ退却しました。
 10月26日、大鳥圭介隊と土方歳三隊は、五稜郭を占領し、箱館に進軍しました。この時、重傷で身動きのできない福山藩兵らが残されていました。旧幕府軍の医師である高松凌雲は、ヨーロッパ留学で学んだ赤十字精神を発揮して、敵味方の区別無く治療を行っています。戦えない捕虜を治療して、青森に送り返しました。また、高松凌雲は、新政府軍が乱入した時、身をていして負傷兵を守ったことでも有名です。
 10月26日、榎本武揚は、降伏した松前藩士の桜井恕太郎を、福山城にいた松前藩主の松前徳広の元に派遣し、降伏を勧告させました。松前徳広は、桜井恕太郎を斬首しました。
 11月5日、土方歳三率いる部隊800人は、回天・蟠竜の艦砲射撃を味方に、福山城を攻略しました。
 11月14日、土方歳三率いる部隊800人は、福山城から江差に向かいました。また、松岡四郎次郎率いる200人も、五稜郭から二股口を通り、江差に向かいました。
 11月15日、榎本武揚は藩主の松前徳広攻略を当面の課題と考え、旗艦開陽に乗って箱館を出て、江差沖に達しましたた。しかし、松前藩主の松前徳広は、35キロ離れた熊石に退却していました。
 11月15日夜、暴風雪にあった旗艦開陽は、座礁しました。救援に駆けつけた軍艦の回天・輸送船の神速のうち、神速も座礁しました。旧幕府艦隊にとって、戦わずして、旗艦開陽(400馬力・2800トン・備砲26門)を失った痛手は余りにも大きかった。
 11月19日夜、松前藩主松前徳広らは、漁船に乗って、熊石より青森へ脱出しました。
 11月27日、箱館府知事の清水谷公考は、榎本武揚らの軍事行動を総督府に訴えました。これを受けて、朝廷は、清水谷公考を青森総督に、黒田清隆大田黒惟信を総督参謀に、山田顕義を陸軍参謀兼海軍参謀に任命し、「明春を期して箱館を攻撃する」を決定しました。
 12月25日、榎本武揚は、蝦夷全島平定を祝して101発の大砲を打ち上げました。そして、アメリカの連邦制度にならって北海道政府を組織し、士官以上の投票によって政府人事を行いました。
 総裁:榎本武揚、陸軍奉行:大鳥圭介、陸軍奉行並:土方歳三、箱館奉行:永井尚志らの名前がありました。
 1869(明治2)年1月6日、新政府は、アメリカより軍艦甲鉄(1200馬力・1358トン・旋回砲台8門)を購入しました。
 3月9日、新政府軍艦隊(旗艦甲鉄と陽春春日了卯延年の軍艦4隻、飛龍豊安戊辰晨風の輸送船4隻)は、品川沖を出航して箱館に向かいました。
 3月18日、新政府艦隊は、岩手の宮古湾に入港しました。
 3月20日夜半、榎本武揚は、新政府の旗艦である甲鉄を奪取するため、回天・蟠竜と高雄(秋田藩から奪取した船)を宮古湾へ向け出航させました。
 榎本武揚の作戦は、「旗艦回天に土方歳三ら新撰組、蟠竜に遊撃隊、高雄に神木隊を乗船させ、宮古入港の時には、外国旗を掲揚し、開戦に当って急ぎ日章旗に改め、蟠竜・高雄は甲鉄艦の両舷に横付けして兵を乱入させ、これを捕獲する。旗艦回天は、その間、他の艦を攻撃する」というものでした。この作戦は、アボルダージといい、国際的には合法でしたが、日本では知られていない奇襲戦法ということになります。
 3月24日、回天はアメリカの国旗を、高雄はロシアの国旗を揚げて、宮古湾を通り越し、岩手の山田港に入港しました。遅れている蟠竜が着く前に、2艦は出航の時間が来たので、出港しましたが、高雄が機関に故障をおこしました。
 3月25日早朝、旧幕府軍軍艦の回天(1678トン・13門)は、アメリカ国旗を掲げて、宮古港の甲鉄の右舷に迫り、急にアメリカ国旗を降ろして日章旗を掲げました。そして、艦砲射撃をしつつ、新撰組が甲鉄に飛び移ろうとしました。ところが、回天は、甲鉄より大型で、舷側も回天の方が高く、回天の甲板から甲鉄艦の甲板までは3メートルも開いていました。しかし、土方歳三は、飛び降りを命じ、自らも斬り込みました。
 旧幕府艦隊の奇襲から体制を立て直した甲鉄側は、1分間に180発を発射できるガトリング砲を乱射しました。他の艦隊も回天に艦砲射撃を浴びせました。回天の艦長である甲賀源吾が戦死し、引揚げを開始しました。遅参した高雄は、新政府艦隊に追撃され、敵に渡すよりはと、自ら座礁して、放火・炎上しました。
 3月26日、新政府軍の艦隊と陸軍は、青森に到着し、その数は7000人となりました。
 3月26日夕、回天と蟠竜は、箱館に帰ってきました。
 4月9日、新政府軍の参謀である山田顕義は、第1陣1500人を率いて、江差の北方12キロの乙部海岸に上陸しました。そこで、参謀の山田顕義は、兵を三分し、1隊は海岸沿いに江差へ、1隊は山道を二股口へ、他の1隊は熊石へ向かわせました。
 4月12日、二股口を守備する土方歳三らは、銃撃戦で新政府軍の進撃を押し止めました。木古内口を守備する大鳥圭介らも、これを撃退しました。この時、旧幕府軍は、5万5000発の弾丸を使用しています。
 4月16日、山田顕義の要請で、黒田清隆・大田黒惟信ら第3軍3000人は、江差に到着しました。黒田清隆らは、兵を二分して、木古内口・二股口・松前口に進軍させました。
 4月17日夕刻、新政府軍は、甲鉄ら軍艦5隻の援護射撃を受けて、福山城を奪還しました。大鳥圭介は、五稜郭に退却しました。
 4月23日、二股口を守備する土方歳三らは、新政府軍の攻撃を再度撃退しましたが、木古内口を失ったので、退路遮断を恐れて、撤退しました。
 4月29日、旧幕府軍の軍艦である千代田形は、弁天台場沖で座礁し、新政府軍に拿捕されました。
 5月1日、ブリュネらは、箱館に碇泊中のフランス艦で、脱出しました。
 5月3日、大鳥圭介は、500の兵を率いて七重浜で、新政府軍と有利に交戦していましたが、新政府軍の艦砲射撃で、退却しました。
 5月7日早朝、両軍の艦隊は、箱館湾に入港しました。蟠竜は航行不能だったので、回天1隻が甲鉄ら5隻と戦いました。甲鉄の数発が回天に命中し、機関を破損したので、浅瀬に乗り上げ、浮き砲台として、砲13門を全開して、撃ちまくりました。
 5月11日、新政府軍は、全軍が集結し、箱館・五稜郭を総攻撃し、占領しました。大勢が決したと考えた旧幕府軍の多くが脱走するようになりました。土方歳三は、弁天砲台を奪回しようとして、流れ弾に当って戦死しました。
 5月11日夜、旧幕府海軍が上陸して、五稜郭に入りました。そこで、新政府軍は、無人となった回天・蟠竜に放火しました。
 5月12日、箱館港内の甲鉄は、五稜郭に艦砲射撃を開始しました。
 5月14日、五稜郭を脱走する兵が多数いました。榎本武揚は、「戦意のない者が、大勢いても戦力にはならない。去りたい者はされ」と門をひらいて、自由に脱走させました。負けを覚悟した榎本武揚は、新政府軍に、大切にしていた『万国海律全書』(海のルールブック)を送付しました。
 5月15日、旧幕府軍の弁天台場を守護する永井玄蕃ら240人は、弾薬が欠乏し、ついに降伏しました。新政府軍は、千代ヶ岱台場に降伏を勧告しましたが、拒否されました。
 5月16日明け方、旧幕府軍の千代ヶ岱台場は陥落しました。
 新政府軍は、『万国海律全書』に対する返礼として、余裕を示す酒樽など贈りました。前の老中であった板倉勝静や桑名藩主の松平定敬らが、五稜郭を出て投降しました。榎本武揚は、この状況で、自害しようとしましたが、大鳥圭介に刀をもぎ取られ、自害を思いとどまりました。
 5月17日、榎本武揚は、新政府軍の陸軍参謀である黒田清隆・海軍参謀である増田明道に、降伏を申し入れました。
 5月18日、榎本武揚らは、五稜郭に入城しました。榎本武揚・大鳥圭介らは厳重に幽閉されました。
 6月12日、榎本武揚・大鳥圭介らは、東京に護送されました。
 1872(明治5)年、榎本武揚・大鳥圭介らは、糾問所監獄から出獄しました。
 新政府内には、榎本武揚・大鳥圭介らを賊軍の首魁として、全員を斬首すべしという意見が多数を占めました。しかし、黒田清隆や大村益次郎らは、榎本武揚・大鳥圭介らの才能を見抜いていたため、極力反対しました。結局、黒田清隆や大村益次郎の少数意見が尊重されました。
 1873(明治6)年、榎本武揚は、黒田清隆の推薦で、蝦夷開拓使4等出仕となりました。
 1888(明治21)年、榎本武揚は、黒田清隆内閣逓信大臣農商務大臣となりました。
 1889(明治22)年、大鳥圭介は、特命全権清国駐箚公使に任命されました。
 1894(明治27)年、大鳥圭介は、枢密院顧問官となりました。
 箱館戦争について調べてみました。
 兵力は、新政府軍:7000人と軍艦10隻。旧幕府軍:3000人と軍艦11隻
 損失は、新政府軍:沈没は軍艦1隻、破損は1隻。死傷者は770人
 旧幕府軍:沈没は9隻。死者・行方不明は1300人、負傷者は400人、投降者は1300人
10  この項は、『合戦全集』『歴史群像』などを参考にしました。
大鳥圭介、土方歳三、榎本武揚、三者三様
 大鳥圭介は、漫才師ではありません。天保4年、私の住んでいる隣町の赤穂郡上郡町で、医者小林直輔の子に生まれました。上郡の隣町にある備前の閑谷黌で漢学を修めました。
 その後、大坂の緒方洪庵の適塾で蘭学を学びます。さらに、江川太郎左衛門より兵学を学び、中浜万次郎より英語を学んでいます。
 1858(安政5)年、大鳥圭介は、それが認められ、幕府の開成所の教授に抜擢されます。開成所から陸軍に出向して、歩兵指図役頭取となります。さらに、横浜では、フランス式陸軍の伝習を受け、歩兵奉行なります。
 1864(元治元)年、大鳥圭介は、幕政改革ついて、二院制議会などを建白しています。陸軍伝習所では、フランス人ブリュネの意見を採用し、家柄に関係なく実力のある精鋭を800人を組織して大部隊伝習隊を創設しています。
 1868(慶応4)年、徳川慶喜が、新政府に対して、恭順の意を示すと、大鳥圭介は、小栗上野介らと徹底抗戦を主張します。
 4月11日、大鳥圭介は江戸城開城の時、浅草報思寺に旧幕軍500人を集め、江戸を脱走しました。
 4月12日、大鳥圭介は、市川で、新選組の土方歳三らと合流して2000人の将となりました。
 7月、会津城が落城した時、大鳥圭介は、榎本武揚ら合流して、箱館に入りました。
 実戦で鍛え上げた土方歳三に比して、「また負けたよ」と豪快に笑ったといいます。
 1869(明治2)年、箱館戦争の敗北が決定的になると、榎本武揚は「玉砕」を提案するが、大鳥圭介に、「死のうと思えばいつでも死ねる。今度は一番降参としゃれ込んでみてはどうか。」と言われて、気を取り直したという話もあります。
 旧幕府軍の中で、戦死・殉死した者は、近藤勇や土方歳三、彰義隊・白虎隊などもいます。
 しかし、生き残った者もいます。勝海舟です。勝海舟は、「裏切り者」と罵られ、塀の外から飛んでくる石や卵を体で受け止め、「今に分かってくれる」とその痛みに耐えたといいます。今、勝海舟の偉大さを疑うものはいません。
 同じように生き残った者で、榎本武揚は、大臣にもなり、教科書にも登場して、汚名を挽回しています。
 榎本武揚と共に戦い、生き残ったにも関わらず、汚名を挽回出来ていない人がいます。それは大鳥圭介です。京唄子とコンビを組んだのは鳳啓介ですが、「おおとり けいすけ」と言って、思い出すのは、漫才師のほうです。
 私のホームページ講座を卒業した57歳の熟女がいます。大鳥圭介の生家の隣に住んでいる人です。地元では、英雄であるのに、社会的評価が低いことに怒っています。特に、土方歳三ファンからは、対極として嫌われていることが、不人気の原因のようです。55歳で大鳥圭介のホームページをアップしました。今では、ヤフーで「大鳥圭介」と検索すると上位にランクされています。
 ますます、彼女の、大鳥圭介復権のホームページが、花開くでしょう。期待しましょう。
 大鳥圭介と対比される土方歳三について、調べてみました。
(1)多摩の百姓の出である土方歳三は、「石田散薬」を行商しつつ、他流試合で修業し、天然理心流の近藤勇と出会います。そして、近藤勇の道場である試衛館の仲間(山南敬助・沖田総司ら)と清河八郎の浪士隊に合流しました。これが母体になって、新撰組が誕生します。
(2)やがて、その局長に近藤勇、副長に土方歳三がなります。土方歳三は、陣中法度・局中法度などの厳しい隊規を考案し、裏切り者を徹底して処分したので、鬼の副長と呼ばれました。
(3)新撰組は、池田屋事件・禁門の変で、長州の尊攘派を殺害します。この頃をことを、宮内大臣田中光顕は「あの土方歳三が、馬に乗って、鋭い眼で市中の見廻りをしているのが一番恐ろしかった。土方が来ると浪士は、露地から露地へ、夢中で逃げたものだ」と語っています。
(4)土方歳三は、鳥羽・伏見の戦いの時、新選組を率いて、新政府軍と戦い、敗退します。江戸城開城後も、甲斐で新政府軍を食い止めようとしましたが、敗退します。
(5)奥羽越列藩同盟の会議の席上、列藩同盟には全軍を指揮する者がいないと言われ、榎本武揚は、土方歳三を推薦しました。土方歳三は「お受けするからには、軍令に背く者は、御大身といえども、斬らねばならぬ。それでよろしいか」と言って、その場の者を震え上がらせました。
(6)会津若松でも敗退します。土方歳三は、宇都宮で足を負傷して、会津若松の宿で寝ていました。ある日、幕臣で事務方の望月光蔵が訪ねて来た時、土方歳三は「俺の隊で戦え」と言いました。望月光蔵は「自分は事務方です」と拒否しました。すると、土方歳三は「臆病者めが。俺に従って、戦いというものを学ぶんだな」と嘲笑しました。そこまで言われた望月光蔵は「あなたも4日間で宇都宮を奪還されたじゃないですか。あなたも臆病者だ」と反論しました。土方歳三は、自分の事を臆病者だと言われて血相を変え、「俺の寝床を汚すな。出て行け」と枕を投げつけました。
(7)土方歳三は、会津で敗退し、旧幕府海軍と合流し、蝦夷地に渡りました。蝦夷地で負けを知らない土方歳三は、旗艦の開陽が江差沖で沈んだことを聞き、樹の幹を手で打ち、「悔しいのう」と榎本武揚に漏らしました。
(8)箱館政府が樹立され、榎本武揚らが祝杯を交わしている時、土方歳三は、1人、皆から離れ、「今は騒ぎ浮かれる時ではない」と言い放ちました。
(9)二股口の戦闘中に、新政府軍は鈴の音を鳴らし、包囲したと思わせる行動をとりました。これを知った土方歳三の部下は、すごく動揺しました。この時、土方歳三は「本当に包囲するなら、気づかれないようにするものだ」と状況を分析して、部下を落ち着かせました。
(10)土方歳三は、ある時、部下に酒を振舞いました。しかし、「酔って、軍律を乱しては困る」と一杯だけ許しました。
(11)土方歳三は、死を予感し、側近の市村鉄之助に遺髪と写真を渡し、「日野の家族の元に届けてくれ」と依頼しました。しかし、市村鉄之助は「私は死ぬ覚悟でここまで来ました。他の者に命じて下さい」と言うので、土方歳三は「断ると言うのなら、今ここで斬る」と語気するどく突き放したので、市村鉄之助は、仕方なく命令を果たしました。この時の写真が現存しています。
(12)新撰組の島田魁らが守備している弁天台場が新政府軍に包囲されたとの報せを聞いた土方歳三は、休む間もなく、僅かな兵を率いて、救援に出ました。箱館の一本木関門についた時、敗走してくる兵に出合いました。土方歳三は「我この柵にありて、退く者を斬る」叫び、大野右仲に命じて、敗走してきた兵を反転させ、再度、弁天台場に向かわせました。
(13) 土方歳三らは、激しい敵の銃撃の中を、一本木と異国橋の中ほどの鶴岡町あたりまで進撃しました。その時一発の銃弾が、馬上で指揮する土方歳三の下腹部を貫きました。 どっと馬から落ち、附近の農家に運び入れられた土方歳三は、付添った人に「世話になった、すまぬ」と一言を残して、息を引き取りました。時に35歳でした。
 辞世の句は「よしや身は 蝦夷が島辺に 朽ちぬとも 魂は東の 君やまもらむ」というものでした。
(14)土方歳三は、馬上で指揮している時に、一発の銃弾を腹に受けて、落馬しました。壮絶な戦死でした。即死だったという説もあります。
 土方歳三の遺体が埋葬された場所は、特定されていません。@現在「最期の地」碑のある場所A大手町近辺B十字街近辺という説がありますが、はっきりと分かっていません。
(15)そのことから、土方歳三暗殺説が浮上して来ます。
@土方歳三を暗殺したのは、榎本武揚という説(榎本武揚の恭順説に対して、土方歳三は最後まで反対した)。この場合は、死体を隠す必要はありますが、榎本武揚は恭順派ではありません。
A新政府軍の撃った弾が命中したという説(この説が一番多い)。しかし、新政府軍にとって、新撰組の土方歳三は、最も憎い敵で、殺して斬首か、死後の場合、曝し首にしたいだろうから、遺体を隠す必要はありません。
B私は、@Aでない、味方に殺されたという説を考えています。当時、旧幕府軍にとって箱館・五稜郭は占領され、大勢が決したと考えた旧幕府軍の多くが脱走するように段階でありました。一般の兵隊にとっては、土方歳三に従って「死に行く」必然性はありません。弾は味方(土方歳三の背後)から飛んできたのです。その死体を検証すれば、自分たちは大罪になります。死体がない理由は、ここにあると思います。
(16)中学生の頃、従軍していたという大人から、戦争の話を聞かされました。敗戦の混乱の時、無茶な士官に対しては「弾は前からばかり飛んでくると思うなよ」という声が浴びせられたということです。土方歳三の話を聞くたびに、思い出す話です。
(17)「新撰組の残党が、土方歳三に率いられ、鳥羽・伏見の戦い、彰義隊の上野戦争、会津の戦い、箱館戦争で活躍した」という話をした時、「土方歳三が恐くて、逃げられなかった」という解釈をした生徒が何人かいました。連合赤軍の内ゲバを知っている私としては、あり得る解釈だと思いました。
 私が、日本の軍隊に反対なのは、体育系に見られるような、非人道的な制裁を恐れているからです。本当に市民に愛される軍隊を、日本人は作れるのでしょうか。1つの型に押し込める、窒息する組織は、ご免です。
 榎本武揚は、幕臣の次男として生まれました。18歳の時、長崎海軍伝習所で航海術を学び、その優秀さが認められ、江戸築地の海軍繰練所の先生になっています。
 幕府がオランダに軍艦を注文した時、榎本武揚は、幕府派遣の海軍留学生としてオランダに派遣されました。そこで、ヨーロッパの技術や国際法などを学びました。
 1867(慶応2)年、榎本武揚は、6年間のオランダでの生活を終え、幕府が注文していた最新鋭の軍艦である開陽に乗って帰国しました。その時、公法学者のフレデリックの講義筆記を持ち帰りましたが、これが有名な『万国海律全書』でです。その後、榎本武揚は、33歳で、軍艦奉行と開陽の艦長となています。
 黒田清隆は、五稜郭と箱館を占領した時、旧幕府軍の病院長である高松凌雲を使者として派遣し、榎本武揚に降伏を勧めさせました。
 これに対して、榎本武揚は、「別本2冊、釜次郎(武揚)和蘭留学中、苦学いたし候海律、皇国無二の書に候へば、火に付けし烏有と相成り候段、痛惜いたし候間、ドクトル(高松凌雲)より海軍アドミラル(黒田清隆)へ御贈り下さるべく候」という手紙と『万国海律全書』2冊を託しました。喧嘩はするが、日本と日本人を愛する人だったということが分かります。幕末には、このような人がゴロゴロ(失礼)いたんですね。
 五稜郭は、1864(元治元)年、10年かけて完成しました。築城費用は9万8000両、備砲の24ポンド砲50門の費用は4万両にのぼりました。戦争は、金になるんですね。
 伊予大洲藩士でオランダ兵学者の武田斐三郎が設計しました。ヨーロッパ式の菱花(星)形の稜堡式城塞で、その突角部の砲座を設けて、各稜堡から砲火を発射できる構造になっています。総面積は18万平方メートル、周囲は高さ4.5メートルの土塁、その外側に深さ5.4メートルの壕をめぐらしています。
 以前、家族で北海道旅行に行きました。五稜郭は是非行きたい場所でした。しかし、余り時間がないというので、先に五稜郭の全体が見渡せるタワーに上りました。かなり、待たされましたが…。先に五稜郭を見た人は、時間不足でタワーに上れなかったそうです。同じ時間でも、前後を誤ると、目的が達成できないという教訓です。

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