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エピソード

168_01

新政府の発足(五箇条の御誓文・五榜の掲示・政体書)
 1867(慶応3)年、王政復古の大号令(天皇親政)が出されました。
 1868(慶応4)年3月14日、五箇条の御誓文を公布して、新政府の国策の基本方針を明らかにしました。
(1)起草者は、越前の由利公正(40歳)が『議事之体大意』として原案を作成し、土佐の福岡孝弟(34歳)が『会盟』として修正し、最後に長州の木戸孝允(36歳。桂小五郎)が『御誓文』として完成させました。
(2)内容は、公議世論(列侯会議)の尊重、開国和親(西欧との外交)など5項目に渡っています。
(3)形式は、天皇が神々に誓約するという形をとっています。
 3月15日、進歩的な五箇条の御誓文が出された翌日、国民には、五榜の掲示を公布して、旧幕府の民衆統制政策を受け継ぐ基本方針を表明しました。
(1)「人たるもの、五倫の道を正ふすへき事」。五倫(五は5、倫は人の道)とは5つの人の道で、君臣・父子・夫婦・長幼・朋友の儒教的道徳を強制しています。
(2)「宜しからざる事に大勢申合せ候を徒党」・「徒党して強て願ひ事企るを強訴」・「申合せ居町居村を立退き候を逃散」・「右類の儀これあらば、申出すべし。 御褒美下さるべき事」。江戸時代と同じように、民衆運動を禁じています。
(3)「切支丹邪宗門の儀は、堅く御制禁たり」「若し不審なる者これ有るは…申出すべし。御褒美下さるべき事」。キリスト教を邪宗門として禁止しています。
(4)「外国人に対して暴行を為すを禁す」。攘夷運動を禁止しています。
(5)「逋逃を禁す」。逋(税金や借金を払わず、にげる)逃(にげる)とは、罪をおかして逃亡することをいいます。
 4月、神仏分離令が出され、廃仏毀釈運動がおこります。これについては、別項で扱います。
 閏4月、五箇条の御誓文に基づき、政治の基本的組織を規定した法である政体書が制定されました。政体書は、表意文字から判断して法律とは想像できない錯覚を利用して、私も、テスト問題によく出題しました。「五箇条の御誓文に基づき、政治の基本的組織を規定した法を何というか」。
(1)起草者は、土佐の福岡孝弟と佐賀の副島種臣(41歳)で、アメリカの制度を参考にしています。
(2)基本としては、太政官(中央政府)に権力を集中し(「天下の権力を全て太政官に帰す」)、三権分立(司法・立法・行政の独立)、官吏公(互)選を骨子としています。
(3)太政官制とは、1885年の内閣制度成立までの中央政府の制度のことです。太政官は、司法・立法・行政を統括し、下には七官をおきます。
(4)七官とは、議政官・行政官・会計官・神祗官・軍務官・外国官・刑法官のことです。
@議政官は、立法官ともいわれ、上下両局を組織し、法律制定・条約や戦争の審議をします。上局は、議定・参与で構成され、重要国政を議決します。下局は、議長と議員は藩代表の貢士で構成され、上局の命を受けて審議します。
A行政官は、行政機関で、神祗・会計・軍務・外国の各官を統括します。行政官の長を輔相といいます。
B刑法官は、司法機関です。
(5)府藩県三治制は、政体書によって規定された地方制度で、東京・大阪(江戸時代は大坂)・京都などを府、その他を県としました。@には府知事、Aには県知事を置き、Bは従来どおり諸侯(藩主)が治めることにしました。府・県・藩を、府知事・県知事・諸侯が治めるから、府藩県三治制といいます。
 7月、江戸を東京都と改称しました。
 8月、睦仁親王が即位して、明治天皇となりました。時に17歳でした。 
 1868(明治元)年9月8日、明治改元の詔が出されました。一世一元の制が制定されました。
 1869(明治2)年3月、東京に遷都しました。
 7月、神祗官が再興されました。
 1870(明治3)年、大教宣布の詔をだし、神道の普及に努めました。
 1872(明治5)年、神武天皇の即位の日(紀元前660年1月1日)を太陽暦に換算して、1月29日としました。
 1872(明治5)年、明治天皇は、全国巡幸に出かけました。
 1873(明治6)年、神武天皇の即位の日(紀元前660年1月1日)を太陽暦に再換算して、2月11日としました。
一世一元の制・祝日の制定は、天皇の神格化?
 五箇条の御誓文とは、5つの条文を御誓文することですが、誰が御誓いするのかというと、天皇しかこの場合使えません。誰に誓うのかというと神しかありません。つまり、天皇が万民を代表して、5つの内容を、神にお誓いになるという意味です。
 五榜の掲示とは、榜とは「左右に広がった長方形の立て札」のことです。つまり、5つの内容の立て札を掲示するという意味です。
 最近、どんどんと、日本語の表意文字が消えていきます。私は余り野球を見ませんが、プロ野球を見ると、セリーグでは国鉄からヤクルト、パリーグでは、南海・近鉄・西鉄が消え、今はソフトバンク・オリックス・ロッテになっています。
 明治初期、ほとんどの庶民は、天皇の存在を知りませんでした。近くには300年近く君臨した巨大な権力の象徴であるお城があり、そこにはお殿様が住んでいました。その影響力は絶大でした。
 西郷隆盛らは、絶対的天皇制の下での国家体制しか、外国列強と対抗できる道はないと考えていました。だから、徹底して旧幕府の権力や権威を削ごうとしました。それが戊辰戦争でした。
 次に考えたのが、天皇の存在を知らせることでした。京都から東京へ、大デモンストレーションを行いました。過去の将軍の行列より盛大に行列を行いました。その道々、親孝行で評判の子に下賜金を与え、話題性を持続させました。 その極めつけが、一世一元の制です。岩倉具視は「自今以後、革易旧制、一世一元、以為永武」と定めました。これは、天皇一代(一世)につき一元号(年号)というものです。江戸時代の天皇名をすらすら言えなくても、明治以降は大正・昭和・平成と言えます。
 元号を強制的に公文書で使わすことで、天皇の名を必然的に覚えさそうと言う作戦です。すばらしい。
 あまり公文書と関係ない人にはどういう作戦を立てたかというと、庶民が休める日を制定しました。
 明治時代、休暇というと盆と正月しかありませんでした。そこへ、強制的に休める日がやって来ました。庶民の感謝の気持ちが伝わってきます。
 1月1日、元日です(宮中で行われていた元日の節会)。
 1月3日、元始祭です(天皇が天津日嗣の元始を祝い奉る祭り)。
 1月5日、新年宴会です(天皇が、皇族・大臣・高級軍人・外国の公大使などを宮中に招いた新年の祝賀)。
 1月30日、孝明天皇祭です。
 2月11日、紀元祭です。現在の紀元節
 3月21日頃、春季皇霊祭です(歴代の天皇・皇后・后妃・皇親の尊霊を祭る)。現在の春分の日
 4月3日、神武天皇祭です(神武天皇の崩御の日)。
 9月23日、秋季皇霊祭です現在の秋分の日です。
 10月17日、神嘗祭です(その年の初穂・新穀にて造れる神酒神饌を、天皇が伊勢神宮に奉納)。
 11月3日、天長節です(明治天皇の誕生日)。現在の文化の日です。
 11月23日、新嘗祭です(伊勢神宮に奉納した神酒神饌に感謝し、それを天皇が食す)。現在の勤労感謝の日
 こうして見ると、皇室に関わる行事が巧みに国民の休みとして取り込まれていることが分かります。この狙いが、いい、悪いは別として、天皇の神格化にありました。
 その結果、敗戦後、神格化された昭和天皇が「人間宣言」を発したのです。

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