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エピソード

169_01

中央集権の強化T(版籍奉還・廃藩置県)
 1868(慶応4)年4月、新政府は、旧幕府直轄領(天領)と旗本・与力らの領地を次々と接収し、旧幕府の重要地を府(京都・東京・大阪)とし、その他の旧幕府領を県としました。しかし、同時に247藩には、まだ、諸侯(藩主)がいて、府県藩三治の状態で、中央集権とは遠い状況でした。
 1868(明治元)年11月、借金に苦しんだ姫路藩主酒井忠邦は、版籍奉還を建白しました。最後の大老であった姫路藩の版籍奉還を認めたら、薩長らが苦労して倒幕した意義が薄れます。そう判断した薩長ら新政府側は、しばらく差し置くという措置をとりました。
 1869(明治2)年1月、長州の木戸孝允(37歳)・薩摩の大久保利通(40歳)・土佐の板垣退助(33歳)・肥前の大隈重信(42歳)は、長州藩主毛利敬親・薩摩藩主島津忠義・肥前藩主鍋島直大・土佐藩主山内豊範と連名で、版籍奉還の上表を、天皇に提出しました。原文には「願くは朝廷其宜に処し、其与ふ可きは之を与へ、其奪ふ可きは之を奪ひ、凡列藩の封土更に宜しく詔命を下し、これを改め定むべし」となっています。
(1)版籍の版は図(領地)、籍は戸(領民)であり、奉還は天皇のる。つまり、王政復古により領地・領民の支配権を天皇にお還ししますという解釈にまります。
(2)実質的には、領地・領民を新政府が接収し、全国の支配権を掌握することを意味します。
 6月17日、明治天皇の命を受けて、新政府は、各藩に奉還を命令しました。この時、藩主にとって重大関心事は、自分や自分の家族のことでした。新政府は、「今まで通り、生活は保障されます」と説明しました。
 6月25日、そこで、274藩の藩主が版籍奉還を願い出て、許可されました。
(1)藩主は、知藩事に任命され、石高に代わる家禄が支給されました。知藩事は、今まで通りの生活費(旧藩実収高の10分の1)は、保障されました。しかし、本来の知藩事は、府の府知事や県の県知事と同じで、政府の任命する地方官で、世襲ではありませんでした。
(2)知藩事の家禄と藩財政((旧藩実収高の10分の9)を分離することに成功しました。藩主の無能と欲を利用した巧妙なトリックといえます。
(3)しかし、旧来の藩が現存し、旧来の知藩事が租税権・軍事権を掌握することには変わりがなく、家臣であった中央官僚が、主君であった知藩事を罷免・左遷出来るわけでなく、実質的な中央集権の効果はあがりませんでした。一部には、偽札事件の責任を問われた黒田長知が福岡藩知事を罷免され、中央の有栖川宮熾仁親王が知藩事に任命されるようなことがありました。
 7月、参議に佐賀の副島種臣(42歳)、薩摩大久保利通(40歳)、長州の広沢真臣(37歳)・前原一誠(36歳)らが加わりました。
 8月、高崎藩・郡上藩・延岡藩・甲府県・上田藩で農民一揆が起こりました。
 11月、山口藩は、諸隊を再編成して、常備軍を編成しました。これは、老齢・弱体化した諸隊の隊員をリストラして、若者・壮健な者だけを選抜して、陸軍を編成するというものです。
 11月、三田藩・島原藩でも農民一揆が起こりました。
 12月、長州藩の諸隊は、選抜された者も、リストラされた者も一致して、陸軍への編入(再就職)を要求して、反乱を起こしました。
 12月、兵庫県・大垣藩・名古屋藩で、農民一揆が起こりました。
 1870(明治3)年1月、高松藩・仙台藩・松代藩で、農民一揆が起こりました。
 2月、長州の木戸孝允(38歳)・井上馨(35歳)・品川弥二郎(27歳)らは、同僚であったり、部下であった諸隊を、武力で鎮圧しました。この時、木戸孝允は「自分には帰る故郷がなくなった」と言ったといいます。
 3月、宇和島藩・新潟県で、農民一揆が起こりました。
 6月、長州の木戸孝允が参議に加わりました。
 7月、盛岡藩は、多額の借金で破綻し、廃藩置県以前に廃藩されました。
 9月、佐賀の大隈重信が参議に加わりました。長州の木戸孝允・伊藤博文(29歳)、薩摩の西郷隆盛(40歳)、土佐の板垣退助、肥前の大隈重信らは、各地で多発している農民一揆や、長州藩の諸隊の激しい抵抗を知って、廃藩による中央集権確立の必要性を痛感しました。
 10月、長岡藩も、財政破綻で、廃藩置県以前に廃藩され、柏崎県に編入されました。
 1871(明治4)年2月、西郷隆盛は、薩長土から精鋭軍を集めて、御親兵を組織しました。この結果、新政府軍は、軍事面で、各藩より優位に立ちました。
 7月、新政府は、御親兵が見守る中、各藩の知藩事を皇居に呼び出し、廃藩置県の詔(「藩ヲ廃シ県ヲ被置候事」)を発しました。この結果、止され、3府302と開拓使が設されました。今後については、「今般藩ヲ廃シ県ヲ被置候ニ付テハ追テ御沙汰候迄大参事以下是迄通事務取扱可致事」という布告が出されました。
 11月、新政府は、知藩事を罷免し、東京居住を命令しました。
(1)中央官僚を府知事県令として府県に派遣する。
(2)それまでは、大参事(知藩事の下に置かれた、全国一律の設置された職)が事務を取り扱う。
(3)一応、中央集権化が強化されたことになります。
 11月、全国は、1使3府72県に統合されました。
 1886(明治19)年、県令は県知事と改称し、全国は府知事・県知事に統一されました。
 1888(明治21)年、全国は、3府43県716郡に統合されました。
米百俵、歴史は下剋上、兵庫県の誕生
 2001(平成13)年5月7日、小泉純一郎首相が所信表明演説で取り上げたことで、長岡藩の「米百俵」は有名になりました。
 1869(明治2)年5月、佐久間象山の門下生であった小林虎三郎(戊辰戦争の時、長岡藩の参戦に反対)は、故郷に帰り、その焼け野原に、「国や町が栄えるのは人にある。食えないからこそ、学校を建て、人物を養成するのだ」という信念で国漢学校を開校しました。
 1870(明治3)年5月、長岡藩は財政難で、日に3度の粥も食べられないないほど、困窮していました。これを知った支藩の三根山藩は、見舞いと称して米百俵を送りました。それは、のどから手が出るような米でした。その時、長岡藩の大参事である小林虎三郎は、「この米を、1日か2日で食いつぶしてあとに何が残るのだ。この百俵は、今でこそただの百俵だが、使い方によっては、はかりしれないものになる」と訴え、米百俵の代金を、自分の国漢学校の書籍・器具の購入にあてました。この時代なら出来たことで、現在なら、自分の経営する私立学校に、公費を横流ししたとして大問題になる所業です。
 6月、国漢学校の新校舎が開校し、町人や農民の子弟も入学が認められました。ここの卒業生には、東京帝国大学総長の小野塚喜平次、解剖学の医学博士の小金井良精、司法大臣の小原直、海軍の山本五十六元帥らが輩出しました。
 長岡の「米百俵」の故事は、文豪山本有三の戯曲で紹介され、反戦の思想で裏打ちされ、大ベストセラーとなりました。しかし、軍部の支配下では、反戦戯曲だと強い弾圧を受けて絶版となりました。
 1975(昭和50)年、長岡市が『米百俵ー小林虎三郎の思想ー』と題して復刻版を出しました。
 1979(昭和54)年、歌舞伎座で上演されました。
 2001(平成13)年、歌舞伎座で再演されました。
 教育は、「百年の計」という教訓です。教育費を削減し、靖国神社に参拝する首相が「米百表」を叫ぶ。理想と現実のギャップの大きさを感じました。政治家は、「理想を現実化する人」と教わってきましたが、皮肉な結果です。
 廃藩置県を知らされると、薩摩藩の島津久光(知藩事の島津忠義の国父)は、鹿児島の邸内で、猛烈に花火を打ち上げました。島津久光からすると、面倒を見てやった西郷隆盛や大久保利通が命令の張本人だったことが許されなかったのでしょう。
 歴史は、大なるか、小なるかは、別として、下剋上で、進んでいることを実感できます。
 私の住んでいる兵庫県の誕生を調べてみました。
 1868(慶応3)年1月、天領が直轄化され、兵庫に裁判所が設置されました。
 閏4月、久美浜県が設置され、丹後4郡、但馬の城崎・二方・美含・気多を管轄しました。
 5月、兵庫裁判所が廃され、兵庫県が設置されました。伊藤博文が、初代兵庫県知事に就任しました。
 6月、但馬村岡・播磨福本が藩に昇格しました。
 1869(明治2)年6月、版籍奉還の詔が出されました。
 8月、生野県が設置され、久美浜県管轄のうち但馬・播磨の分を管轄しました。
 1870(明治3)年10月、福本藩は、窮乏のため、廃藩を願い出て、鳥取県に併合されました。
 1871(明治4)年5月、淡路北部(津名郡)43カ村を兵庫県に移管しました。
 7月、廃藩置県の詔が出されました。兵庫・生野・久美浜の3県と地元17藩、飛び領地15を加え、合計35の区分を持つ県とななりました。
 11月、県の統廃合が全国的に実施されました。生野・久美浜県が廃止され、豊岡県(但馬、丹後両国と丹波3郡)・姫路県→飾磨県(播磨)・名東県(淡路、阿波)が新設されました。
 旧兵庫県は、摂津の島上・島下・能勢・豊島を大阪府に、播磨9郡は飾磨県に、淡路の津名郡43カ村を名東県にさき、新たに旧三田、尼崎両県の管地を加えました。
 1876(明治9)年8月、兵庫・飾磨・豊岡・名東(淡路)の4県が統合し、兵庫県が成立しました。
 明治29)年4月、岡山県吉野郡石井村と讃甘村内の中村が佐用郡に編入されました。
 昭和30)年4月、岡山県和気郡日生町の一部が赤穂市に編入されました。
 都道府県名と県庁所在地が違うのは、以下の通りです。高校時代から、違うのは、幕末に新政府に抵抗した有力藩のあるところだと聞かされていました。今まで、噂は聞いていましたが、実証したことはありません。
 @北海道(札幌市)、A岩手県(盛岡市)、B宮城県(仙台市)、C茨城県(水戸市)、▲栃木県(宇都宮市)、D群馬県(前橋市)、E東京都(新宿区)、F神奈川県(横浜市)、G石川県(金沢市)、H山梨県(甲府市)、I愛知県(名古屋市)、J三重県(津市)、K滋賀県(大津市)、L兵庫県(神戸市)、▲島根県(松山市)、M香川県(松山市)、▲沖縄県(那覇市)
 @北海道は、五稜郭の戦いで、最後まで新政府軍と戦いました。A岩手県は奥羽列藩同盟の盟主です。B宮城県も奥羽列藩同盟の盟主です。C茨城県は徳川家の御三家です。D恭順に傾いた徳川慶喜に主戦論を説いた小栗忠順は、群馬県の知行地で、新政府軍と戦っています。E東京都は、徳川慶喜の本拠です。F神奈川では、藩論未決定の小田原藩が新政府軍と箱根戦争を起こしています。G石川県の金沢藩では、保守的重臣層により尊攘派が弾圧を受け、明治には薩摩藩の県令が金沢士族に対して反感を持っていました。H山梨県では、東山道総督参謀の板垣退助が、新撰組の近藤勇が率いる甲陽鎮撫隊や幕府軍と柏尾付近で交戦しています。I愛知県も、徳川家の御三家です。J三重県の津藩は、鳥羽・伏見の戦いの時、旧幕府軍側で、戦っています。K滋賀県は、彦根藩が大老井伊直弼です。L私の住んでいる兵庫県は、長征時の最後の大老が姫路の藩主でした。M香川県の松平氏は、御三家に次ぐ家格を与えられており、鳥羽・伏見の戦いの時にも、当然旧幕府軍側で、戦っています。
 以上、見てきたように、都道府県名と県庁所在地が違うのは、17都道県です。そのうち、新政府に何らかの形で抵抗しているのが14都道県です。沖縄は例外として、2県ははっきりとは、分かりませんでした。御三家でも和歌山県は和歌山市です。
 まだまだ調べる必要がありますが、17分の14(82%)の確立で、噂が、実証されたことになります。

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