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エピソード

170_01

中央集権の強化U(太政官制・軍隊の近代化)
太政官制の変遷
 太政官制とは1868年〜1885年の内閣制度成立までの中央の政府機構をいいます。毎年のように変わる制度に、教える側の苦労します。教える側が苦労するので、覚える方はもっと苦労する所です。
 1868(慶応3)年閏4月、政体書に基づき、太政官は、司法・立法・行政を統括し、下には七官をおきます。これを太政官七官制といいます。
 @議政官(立法官)は、立法機関で、上下両局を組織します。
 A行政官は、行政機関で、B神祗C会計D軍務E外国の各官を統括します。
 F刑法官は、司法機関です。
 1869(明治2)年3月、下局(議長と議員は藩代表の貢士で構成され、上局の命を受けて審議する機関)は、公議所(立法機関)に再編成されます。
 7月、二官六省制(祭政一致・天皇親政・大宝令制の形式)となりました。二官六省とは、@神祗官A太政官の二官と@刑部A兵部B大蔵C外務D民部E宮内の六省をいいます。
(1)集議院は、公議所(立法機関)の後身として設立されましたが、権限を縮小されて、政府諮問機関となり、その後、左院に吸収されました。下局(議政官の構成機関)→公議所(立法機関)→集議院(立法の諮問機関)→左院(立法の諮問機関)
(2)二官とは、神祗官(太政官の上位に位置づけ)と太政官(左右の大臣、大納言、参議で構成)
(3)太政官の下に六省・大学校・開拓使を統括します。六省とは、@刑部A兵部B大蔵C外務D民部E宮内の各省をいいます。刑部省の下に弾正台を統括します。
 太政官七官制の神祗官はそのまま神祗官に、会計官は大蔵省に、軍務官は兵部省に、外国官は外務省に、刑務官は刑部省に名称変更しています。表意文字から大体予測できます。
 1871(明治4)年7月、太政官三院八省制となりました。太政官三院八省とは、太政官の下に正院・左院・右院という三院をおき、右院の下におかれた@司法A兵部B大蔵C外務D宮内E神祗F工部G文部の八省をいいます。
(1)三院制とは、正院・左院・右院をいいます。@正院は、行政の最高機関で、太政大臣・左右の大臣・参議で構成されています。A左院は、正院の諮問立法機関で、元老院・地方官会議で構成されています。B右院の下に八省を統括し、八省の長官(卿)・次官(大輔)らによって協議します。
(2)八省とは、@司法A兵部B大蔵C外務D宮内E神祗F工部G文部の各省をいいます。
 二官六省からの変更を見ると、神祗官は神祇省に、刑部省は司法省に、弾正台は司法省に吸収、民部省は大蔵省に吸収、工部省と文部省は新設されました。
 この結果、正院を中心とする藩閥政府の独裁体制が確立しました。藩閥政府とは、薩長土肥4藩による官僚政府のことです。14代までの総理大臣を○数字で示しました。薩長が交互に就任し、後半からは長州が抜きん出ていることがわかります。
 薩摩藩(西郷隆盛・寺島宗則・大久保利通・A黒田清隆・CE松方正義)
 長州藩(木戸孝允・井上聞多馨・BH山県狂介有朋・@DFI伊藤俊輔博文・JL桂太郎)
 土佐藩(板垣退助・後藤象二郎・佐々木高行)
 肥前藩(G大隈重信・大木喬任・副島種臣・江藤新平)
 公家(三条実美・岩倉具視・KM西園寺公望)
軍隊の近代化
 奇兵隊諸隊の反乱、諸藩の農民一揆など体験した新政府は、藩兵を解散し、兵権の中央集権化を真剣に考えるようになりました。
 1869(明治2)年、政体書により、軍務官を改組して、陸軍・海軍・軍備・兵学校などを管轄する兵部省が設置されました。卿・大輔・少輔などで構成されていました。
 1871(明治4)年4月、薩長土の御親兵を元に東山鎮台・西海鎮台が設置されました。
 8月、廃藩置県により各藩の藩兵を解散し、東京鎮台・大阪鎮台・鎮西鎮台・東北鎮台という四鎮台を設置しました。その時の兵力は、合計歩兵23大隊、歩兵10小隊でした。
(1)東京鎮台は東京におかれ、そのうち、第一分営は新潟、第二分営は上田、第三分営は名古屋におかれました。
(2)大阪鎮台は大阪におかれ、そのうち、第一分営は小浜、第二分営は高松におかれました。
(3)鎮西鎮台は小倉におかれ、そのうち、第一分営は広島、第二分営は鹿児島におかれました。
(4)東北鎮台は石巻におかれ、そのうち、第一分営は青森におかれました。
 1872(明治5)年3月、御親兵を廃止し、近衛兵を設置しました。
 11月9日、太陽暦を採用しました。
 11月28日、全国徴兵の詔に基づいて太政官布告(徴兵告諭)が出されました。原文には「西人之れを称して血税と云ふ。其の生血を以て国に報ずるの謂なり。…海陸二軍を備へ、全国四民男児二十歳に至る者は、尽く兵籍に編入し、以て緩急の用に備ふべし」とあり、「生血…」が誤解を生み、後の血税騒動に発展しました。
 12月23日、この日を明治6年1月1日としました。このエピソード日本史も1873年以降、太陽暦で表記します。
 1873(明治6)年1月9日、鎮台を増設し、名古屋鎮台・広島鎮台をおき、6鎮台の管轄を定めました。
 1月10日、徴兵告諭に基づいて徴兵令が出されました。
(1)国民皆兵の方針に基づき、満20才以上の男子を兵籍に編入することになりました。
(2)この構想は、長州の奇兵隊幹部である大村益次郎の構想で、大村益次郎が暗殺された後は、同じ長州の奇兵隊幹部である山県有朋に引き継がれました。
(3)徴兵検査に合格した者には、徴兵令書が公布され、3年間の兵役につくことになります。
(4)問題点は、
@農家や商家の跡取には、兵役が免除される制度があり、この制度が悪用されたことです。
A税率は、江戸時代と同じであるのに、農家にとって重要な働き手である子供は学校へ、若者は軍隊へとられたという意識から、血税騒動(一揆)が多発したことです。
(5)問題点はありますが、結果として、軍隊の近代化が確立しました。
  7月、鎮台条例により北海道を除く地域が6軍管区、14師管区に分けられ、各軍管区に鎮台が、各師管区に営所が置かれました。平時の総兵力は3万1680人、戦時の総兵力は4万6350人になりました。
(1)第一軍管区(東京の第一師管区、佐倉の第二師管区、新潟の第三師管区)。戦時兵力は1万370人。
(2)第二軍管区(仙台の第四師管区、青森の第五師管区)。戦時兵力は6540人。
(3)第三軍管区(名古屋の第六師管区、金沢の第七師管区)。戦時兵力は6540人。
(4)第四軍管区(大阪の第八師管区、大津の第九師管区、姫路の第十師管区)。戦時兵力は9820人。
(5)第五軍管区(広島の第十一師管区、丸亀の第十二師管区)。戦時兵力は6390人。
(6)第六軍管区(熊本の第十三師管区、小倉の第十四師管区)。戦時兵力は6940人。
藩閥政府と、軍の近代化の裏表
 公議世論とか開国和親というスローガンで始まった、中央集権国家の実体を見ると、明治維新に貢献した論功行賞という姿が浮んできます。これを藩閥政府といいます。地方政治の実態を調べてみました。
 私の住んでいる兵庫県では、初代県知事は@伊藤博文(27歳。長州)です。二代目久我通城(20歳。公卿)、三代目中島錫胤(40歳。徳島)、四代目A陸奥宗光(25歳。土佐系)、五代目B税所篤(42歳。薩摩)、六代目C中山信彬(28歳。肥前)、七代目神田孝平(41歳。岐阜)、八代目D森岡昌純(42歳。薩摩)、九代目E内海忠勝(42歳。長州)、十代目林薫(39歳。東京)、十一代目F周布公平(41歳。長州)、十二代目大森鐘一(41歳。静岡)、十三代目G服部一三(49歳。長州)となっている。
 明治の十三代目で区切ったが、8人が薩長土肥で占められており、その比率は62%に達します。明治時代、全国は46府県だったので、h長土肥4県の占める比率は0.8%である。いかに少数の藩閥が全国を支配していたかが理解できる。地方政治でも藩閥政府が行われていたことになります。
 それ以外の知事も、その間に割り込ませるという人事をしています。
 兵庫県出身の知事が誕生するのは、三十六代目坂本勝が最初で、1954(昭和29)年になってからです。
  1871(明治4)年11月2日、播磨一国の諸県を統合して、姫路県が設置されました。
 11月8日、姫路県を嫌った飾磨県と名称変更しました。
 1873(明治6)年1月、陸軍省は、全国城郭の存廃を定め、姫路城など39城郭を指定しました。所が、歳費不足で、神戸清一郎に23円50銭で売却されました。しかし、神戸清一郎は、その使途に困り、取り除くにも莫大な費用を要するので、その権利を放棄しました。
 7月、大阪鎮台の歩兵第十連隊が、姫路の旧城内に配置されことになりました。
 1874(明治7)年10月、大阪から一個中隊が派遣され、姫路城の内曲輪(内堀)に屯営しました。その結果、内堀の城郭の一部が壊されました。これが現在の三の丸公園になります。
 1875(明治8)年、兵舎を増築するため、本城・向屋敷・東屋敷などが破壊されました。
 1879(明治12)年、陸軍大佐の中村重遠は、太政官に保存を訴え、それが認められました。これが、現在、菱の門内に中村重遠大佐の顕彰碑がある理由です。
 1885(明治18)年、歩兵第八旅団が設置され、司令部が中曲輪町(中堀)に置かれました。その結果中堀の城郭の一部が壊されました。これが現在の大手前公園です。
 1896(明治29)年、第十師団が編成され、司令部が内京口門内に置かれました。また、歩兵第三十九連隊、騎兵第十連隊、野砲兵第十連隊、輜重兵第十大隊が編成され、歩兵第三十九連隊は中曲輪の車門内に、その他の特科隊は郭外の平野に屯営しました。 
 1898(明治31)年、第十師団が置かれ、騎兵・砲兵・輜重兵の特科兵三連隊が加えられました。
 1893(明治36)年、明治天皇が行幸して、城北錬兵場(今の競馬場)で、大観兵式が行われるというので、姫路駅から城北錬兵場まで、広い道路を作りました。これが今の御幸通りです。
 こうして、国宝姫路城は、新政府側の軍事拠点として、一部破壊されて、使用されるようになりました。
 一部の郷土史研究者は、姫路城が軍隊によって使用され、破壊をまぬかれたことを、感謝する表現をしています。
 しかし、上記の年表を見ると、保存すべき城郭に指定された姫路城を、旧幕府軍の拠点を理由に、一部ではあるが破壊して、軍事施設を建てたことがわかります。ほぼ、新政府の中央集権化が確立した段階で、保存されても、世界遺産の貴重な一部は復元されません。
 軍の近代化という表の部分と世界遺産で国宝が破壊されたという裏の部分があったことが分かります。

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