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エピソード

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四民平等(資本主義社会・身分撤廃・士族解体)
資本主義社会
 明治維新の改革で、「四民平等」の平等という言葉を聞いて、素晴らしいと考える人が多いと思います。
 封建社会の「男尊女卑」とか「身分制度」という言葉を聞いて、暗い社会と考える人が多いと思います。
 しかし、封建社会や近代(資本主義社会)を正しく理解しないと、言葉の奴隷になってしまいます。
 日本では、中世(鎌倉時代〜江戸時代)の社会を封建社会といいます。教科書的に言えば、封建社会とは、土地を中心に考えると「土地の給与を通じて、主人と従者が御恩と奉公の関係によって結ばれる社会」ということになります。
 人間関係を中心に考えると「土地の給与を通じて、主人(将軍・大名・町人・親方)と従者(武士・丁稚・徒弟)が御恩と奉公の関係によって結ばれる社会」ということになります。
 身分(士農工商)は、家に与えられ、固定されます。当然失業もありません。その反面、個人より家が重視され、身分の自由な移動もありません。個人主義・自由主義が否定される社会といえます。
 日本では、近代(明治時代〜現代)の社会を資本主義社会といいます。教科書的に言えば、その特徴は4点です。
(1)機械や原材料などの生産手段の私有が認められている(私有財産制)。
(2)利潤の追求を目的とした自由競争がおこなわれている(経済活動の自由)。
(3)多くの財は市場で売るための商品として生産され、労働力までもが商品化されます(商品経済)。
(4)労働者を雇用する資本家と雇用されて賃金を得る労働者に大別されます(資本家と労働者)。
 資本主義社会を簡単に言うと、生産手段を持つ資本家が労働力を商品として買い、生産活動を行うことによって利潤を追求する社会です。
 資本家が労働力を商品として買う(採用する)のは、家ではなく、個人の労働力が対象になります。これが個人主義の尊重です。
 資本家が利潤を追求するには、原材料を自由に購入するとか商品を市場で自由に販売する必要があります。また、労働力を採用する自由・解雇する自由も必要になります。倒産する自由も起業の自由もあります。他方、労働者には、受験する自由も受験しない自由もあります。そこで得たお金は個人の財産になります。これが自由主義(自由競争)の誕生です。
 個人主義と自由主義は、資本主義社会には不可欠な要素です。
身分撤廃(四民平等)
 以前の項で説明しましたが、マニュファクチュアの経営者にとっては、専売制によって原材料は自由に買えない、鎖国によって自由に販売できない、封建的身分制によって自由に労働力を購入できない不自由さを感じ、これを打破する政治家を援助してきました。その代表が、長州藩の白石正一郎です。彼らにとって、鎖国政策と中央集権により専売制は打破されましたが、残っている問題は身分制の問題です。
 1869(明治2)年6月、公卿諸侯(大名)を華族と改称しました(「自今公卿諸侯之称を廃せられ改て華族と称す可き旨仰出され候」)。皇族の数は28人、華族の数は2829人です。
 12月、旗本藩士士族と改称しました(「大夫士以下之称廃せられ都て士族及卒と称し禄制相定められ候」)。その数は154万8568人です。
 12月、陪臣・微禄武士を卒族と改称しました。その数は34万3881人です。
 1870(明治3)年9月、平民に氏(苗字)の称を許可しました(「自今平民苗氏被差許候事」)。
 1871(明治4)年4月、属地主義にもとづく戸籍法(壬申戸籍)を公布しました。
 8月23日、華士族が、平民と結婚することを許可しました(「華族より平民に至る迄互婚姻被差許候条、双方願に不及其時々戸長へ可届出事」)。また、華士族や平民が、住居を移転したり、職業を選択する自由を認めました。これらをまとめて四民平等といいます。
 8月28日、身分解放令(「穢多非人等の称廃せられ候条自今身分職業共平民同様たるべき事」)が出されました。
 1872(明治5)年1月、卒の身分を廃止し、皇族・華族・士族・平民とする。その内容は、華族・士族・平民の3族籍に大別し、卒族を平民に編入するというものです。その結果、卒族と合計され平民の数は3145万395人(93.4%)となりました。
 2月、最初の近代的な戸籍といわれる壬申戸籍が実施されました。しかし、この戸籍には、被差別部落民を新平民と登録されるなど大きな問題点がありました。
 こうして、身分は解体され、個人として登録されましたが、依然、士族は保存されました。
士族解体(秩禄処分)
 明治新政府にとって、近代化を推進する上で、財政問題が大きな障害になっていました。新政府の地租収入は2005万円です。他方、士族に支払う秩禄俸禄・家禄賞典禄)は、1607万円でした。地租収入の80%が士族へのサラリーです。俸禄とは、武士の給与をいいます。家禄とは、政府が華・士族の家格に応じて支給した現物(米)による給与をいいます。賞典禄とは、王政復古・戊辰戦争の功労者に与えた給与をいいます。
 秩禄の整理が、避けて通れない課題でした。
 1869(明治2)年12月、版籍奉還にともなう禄制を定め、家臣を士族と改称し、士族の俸禄を削減しました。
 1871(明治4)年7月、廃藩置県にともない、各藩の士卒の家禄を中央政府が負担しました。その額は、国家歳出の3分の1を占めました。
 1872(明治5)年1月、卒の身分を廃止し、皇族・華族・士族・平民とする。これで、34万3881人の秩禄を削減しました。いわゆる大リストラです。
 11月、全国徴兵の詔を発しました。この結果、士族の存在理由がなくなりました
 1873(明治6)年12月、秩禄奉還の法を制定しました。その内容は100石以下の士族で、秩禄の奉還を希望する者には、秩禄公債と現金で家禄数カ年分を一時に支給するというものです。その結果、士族の13万5800人(3分の1)が応募し、支給された現金は1932万6000円、公債額面高は1656万5000円に及びました。その結果、秩禄の3分の1を整理できました。
 1874(明治7)年3月、秩禄公債証書発行条例を制定しました。
 11月、秩禄奉還を100石以上の士族にも許可しました。
 1875(明治8)年8月、士族授産の失敗により、秩禄公債証書発行条例を廃止し、秩禄奉還の法を停止しました。
 9月、地租改正にともない、秩禄(家禄・賞典禄)の現米支給制を廃止し、貨幣支給制(金禄)に変更しました。基準は、明治5年から3年間の貢納石代相場を平均し、これを金禄に改定して支給するというものです。この基準による支給額は、国家歳出の3分の1になります。禄の総額は年間1767万円で、その内519万円は華族(2829人)で分割し、残りの1248万円を士族(154万8568人)で分割するという形になります。
 1876(明治9)年8月1日、国立銀行条例を改めて条件を緩和し、各地に国立銀行の設立を促しました。
 8月5日、新政府は、過去の制度を改め、華士族の秩禄(家禄・賞典禄)を全廃する方針を固め、金禄公債証書発行条例を公布しました。これを秩禄処分といいます。その内容は、次の通りです。
(1)金禄は、永世禄・終身禄・年限禄の3種類ありました。
(2)公債支給額
元高 元高×年数 公債利子 1人平均 年間利子
公卿・大名・家老 519人 1000円以上 5〜7.5年 5分 6万527円 3026円
上・中士層 1万5377人 100円以上 7.75〜11.5年 6分 1528円 97円
下士層 26万2317人 10円以上 11.5〜14年 A7分 @415円 B29円

(3)元金は5年間据え置き、6年目から毎年抽選で30年間に償却することになっています。
 金禄公債の内容は、文面で書けば以上となります。理解できましたか。
 私が分からないので、聞く生徒はもっと分からなかったと思います。そこで、このように書き換えました。色が私の立場です。
 江戸時代株式会社が倒産したので、下級士族である私は、退職金として現金でなく、@額面415円の金禄公債証書(期限付き年金証書)が与えられました。この紙切れを持っておれば、私は、銀行からA年利7%B利子(29円)がもらえます。抽選に当ると、現金の415円が与えられ、その段階で、証書は終了します。外れれば、30年間、7%の利子(29円)をもらって、終了します。
 当時の大工の日当が45銭で、土方の日当が24銭ですから、私の日当8銭(年29円/365日=8銭)では、家族を食べさせることが出来ません。そこで、働きに行きます。剣術や柔術が出来れば、警察官になれます。読み書き算盤が出来れば、公務員や学校の先生になれます。私は、特技がありません。伝手を頼んで、雇ってもらってもヘマばかりで、長く務まりません。このような社会がくることを察知して、もっと、特技を身につけるべきだったと反省の日々です。
 問題点は、次の通りです。
(1)公債の利子で生活できるのは、華族と一部の上層士族でした。華族は1人平均6万527円の公債ですから、利子5分(5%)として、年収は3200円となります。彼らは、有利な状況を利用して、鉄道会社に投資するなり、新しい資本家に成長していきました。利用できず没落した者もいます。堤康次郎氏は、没落華族から土地を手にいれ、西武の基礎を開きました。これも自由主義の結果です。
(2)家禄(サラリー)を打ち切られ、退職金として与えられたのが金禄公債です。士族は1人平均415円の公債ですから、利子7分(7%)として、年収は29円となります。当時、米1石が5円の時代なので、29円では米を6石しか買えません。士族のほとんどは、利子では生活できません。そこで、就職先を求め、水を得た魚のような仕事を見つけた元武士もいれば、冷たい社会の仕打ち打ちのめされる元お侍さんも出てきました。これも個人主義の結果です。
 1906(明治39)年4月、金禄公債の償還額は、31万人1億7400万円(国家歳出の27%)に達しましたが、予定の30年を要して、無事終了しました。特権的士族が、すべて解体されたことになります。これを士族の解体といいます。
士族の商法と士族授産(屯田兵)
 1878(明治11)年9月、金禄公債証書の質入・売買を解禁しています。その結果、公債の利子で生活できない下級士族は、公債証書を現金化して、それを元手に商売に手を出しました。これを士族の商法と言います。
 ここに「士族の商法」を描いた有名な絵があります。誰しも記憶にある絵です。ヒゲをはやし、威張っている店の主人に、お客さんがペコペコ頭を下げている絵です。これでは、二度とお客さんは来ません。破綻する士族が多かったのも当然といえます。
 1880(明治13)年5月、内務省は、士族授産のための勧業資金貸与の内規を決定しました。
 その中で有名なのが、屯田兵制度です。屯田兵とは、北海道の開拓と警備にあたった農兵です。榎本武揚の影響を受けた開拓使次官の黒田清隆が制度化しました。士族の救済措置制度です。
 1903(明治36)年、屯田兵制度は廃止されました。その間、7万5000町歩を開拓しました。
政治は、「非情である」を知る
 平民は氏(苗字)の称を許可されました。普通は、「明治新政府は、いいことやるじゃん」と思うでしょう。しかし、江戸時代、氏(苗字)の称を許さず、明治になって、それを許したには理由があるはずです。
 江戸時代の通婚・移動範囲は、大体隣村までです。子供(長男)が生まれても、太郎は既にいる。弥太郎もいる。それなら田吾作としょうということになります。
 しかし、マニュファクチャの工場に、色々な村の農民が働きに行きました。「太郎さん、事務所まで来てください」と召集をかけると、太郎さんがゾクゾク集まってきます。これでは、非効率です。そこで、氏(苗字)の称を許可したのです。
人権という意味ではありません。工場や軍隊に必要だから、与えられたのです。
 「四民」とは士農工商を指し、「平等」とは、四民の間で通婚が許可されたということです。また、四民が、どこに住んでも、どんな職業についても、自由ということになりました。
 それでは、通婚の自由・移転の自由・職業選択の自由を与えたのでしょうか。人権という意味ではありません。資本主義社会では、労働力を個人として自由に採用・解雇する必要があるからです。
 その前提で、四民平等が必要だったのです。
 資本主義社会では、実力のある個人は、会社を選択する自由を持っています。逆に、会社は、実力のない個人を受験させない自由を持っています。自由に、競争して、実力を蓄える時代です。
 大リーガーのイチロー選手が膨大な年俸を得るのは、会社が、誰よりも高い商品価値をイチロー選手に与えているからです。イチロー選手を見るために、たくさんの人が球場にくれば、会社は、イチロー選手に与えた年俸以上の利潤を手にすることが出来るからです。
 逆に、リストラされるのは、その人に与える給料以上の利潤を、その人が稼がないと会社が思っているからです。
 明治新政府は、欧米列強に追いつき追い越すために、政治的にこのような時代を創設したのです。このような時代にすばやく対応しないと、時代から取り残されるのです。そういう意味では、政治は、非情です。
 非情な政治に、取り残された人々が、明治時代の士族といえます。
 私の住んでいる兵庫県の淡路島に、その悲劇が伝えられています。稲田騒動(庚午事変)といいます。
 1869(明治2)年7月、版籍奉還により徳島藩は、禄制の改革を実施しました。その時、洲本城にいる家老稲田邦植(1万4500石)の家臣は、藩知事蜂須賀茂韶の陪臣扱いとして、一律に卒族に編入しました。
 8月、家老稲田邦植は、藩知事蜂須賀茂韶に対して、家臣の士族扱いを陳情しました。
 12月、家老とはいえ大名格の稲田邦植の家臣で、江戸在住の者は、洲本を徳島藩から独立させることを、岩倉具視らに陳情しました。公武派の徳島藩も、運動するが、勤皇派の稲田家臣には不利な展開になりました。日頃から、徳島藩の武士は、洲本の士族を低く見る傾向があっただけに、この運動は、不穏な方向に発展する可能性がありました。
 1870(明治3)年3月、新政府は、洲本藩の独立を認める代わりに、家老稲田邦植主従に対して、北海道移住を内命しました。しかし、藩知事蜂須賀茂韶は、内命を見合わせるように意見書を提出しました。
 5月、上京していた徳島藩の若手藩士7人は、洲本駐在の藩士と呼応して、銃士100人・銃卒4個大隊を率いて、洲本城下の家老稲田邦植の別邸や益習館(稲田家の私設学問所)、稲田家家臣の屋敷を襲撃・放火しました。その結果、死者17人、負傷者20人が出ました。
 9月、襲撃・放火した首謀者10人は、斬首の刑となりました。しかし、藩知事蜂須賀茂韶の嘆願で、切腹に変更されましたが、これは、法制史上最後の切腹となりました。27人が八丈島へ流刑、81人が禁錮の刑にしょせられました。
 4月、家老稲田邦植と家臣700人は、北海道静内に移住しました。
 2005(平成17年)1月、映画「北の零年」(行定 勲監督)が上映されました。淡路から北海道に移住した稲田家の家臣小松原英明(渡辺謙)とその妻志乃(吉永小百合)、娘多恵(石原さとみ)らの実話です。

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