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エピソード

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地租改正
 明治新政府は、欧米列強に伍するため、国家財政を安定し、その税によって、殖産興業富国強兵を図ろうとしました。そのために、封建的諸制度の改革は避けて通れぬ道でした。次に、殖産興業には、誰を資本投資家にするか、誰を労働力の担い手にするかも、重要な課題でした。
 地租が国家収入の90%を占めており、地租の近代化も不可欠でした。農村に依存する封建制を脱却して、産業構造の近代化も必要な事業でした。
歳入総計 内租税(A) 内地租(B) (B)/(A)
1873年 8551万円 6501万円 6060万円 93%
1874年 7345万円 6530万円 5941万円 91%
1875年 6948万円 5919万円 5035万円 85%

 私たちが歴史を学ぶ場合、政治がどういう方向で動いているかを見極め、賛成するか、反対するかは別として、正しい対応をすることが大切です。
 1870(明治6)年6月、薩摩の大久保利通(41歳)・松方正義(36歳)と長州の井上馨(36歳)らは、地租改正意見を提出しました。
 1871(明治4)年9月、「田畑勝手作」が許可され、利潤追求のためにどのような作物も栽培されるようになりました。
 12月、華族・士族・卒族に職業の自由を公認しました。
 1872(明治5)年2月、地価を定めるために、「田畑永代売買」の解禁を布告しました。その内容は、次の通りです。
(1)地目・反別・地価を記入した地券(土地所有権確認書)を発行し、年貢負担者(地主・自作農)に交付する。その結果、封建的領有制が解体されました。
(2)地価は、田畑面積・収穫高・平均米価等による土地価格のことです。
(3)土地は、不動産として所有権を明確化され、ここに土地の私有制度が確立しました。
 1873(明治6)年7月、地租改正条例が公布されました。西郷隆盛が、赤報隊を切り捨てたように、新政府は徴税の主役を農民とし、江戸時代の歳入を減じないという方針で、その骨子を決定しました。
(1)課税基準は、江戸時代の石高(玄米収穫高)を廃止し、地価とする。
(2)納税法は、江戸時代の現物納を廃止し、金納とする。
(3)税率は、地価の100分の33%)とし、地租の3分の1を民費として金納し、地方税に充てる。
(4)税率は、豊凶に関係なく一定とする。
(5)納税者は、江戸時代の耕作者を廃止し、地券の所有権者地主)から取り立てる。
 地租改正の結果を見てみましょう。
(1)国家財政に占める地租の割合は、1874年(80%)、1877年地租2.5%に引き下げ(70%)、1887年所得税導入(42%)、1891年(36%)と年々減少しました。地租の割合の減少は、それ以外の課税対象(所得税・法人税)が生まれたことを意味します。農村依存から脱皮し、産業構造の近代化が進んだことを意味します。
(2)年々上昇する地価に課税したり、税率を豊凶に関係なく全国一律にし、金納化することで、国家歳入が計算できるようになりました。この結果、近代的租税体系が確立しました。
(3)税金の金納化は、現金化できる商品や付加価値の高い商品の開発・生産を促し、より資本主義化を進めることになりました。
(4)農産物代の小作人・地主・国家の配分を見てみましょう。
小作人 地主 国家 この表を見て、小作人の配分は同じですが、
地主の取り分が極端に増加していることに気
がつきます。国家が地主を保護しています。
それは地主を資本家に育成しようとする国
家方針
です。
1873年 32% 34.0% 34.0%
1877年 32% 47.3% 20.7%
1881年 32% 56.4% 11.6%
(5)当時の小作地は全耕地の3分の1ありました。国家は地主に対して、小作地の所有権を認めました。そのため、小作人は、地主に対して、60%以上の小作料を現物で支払いました。貨幣の乱発などで、物価が騰貴(インフレ化)すると、地主は、インフレと関係のない地租で金納するので、地主の取り分は、ここでも増加しました。ここでも、国家の地主保護政策は健在です。
 反面、自営農民は、土地を手放して、小作人になったり、都市の労働者となりました。自作農が手放した土地を地主が買い取り、肥大化していきました。肥大化した地主を寄生地主といいます。
 また、小作人は、生活苦で、農村を離れ、都市の労働者になりました。
(6)入会地(私有地でない、村共有の山野地)は、新政府の山野地私有化政策により、国有地に編入されました。新政府の役人が、「この土地は誰の土地か」と聞いても、自分の土地なら「私の土地です」と言えます。しかし、村共有の土地の場合、誰も「私のです」とは言えません。
 入会地の性格を知ってか知らずか、新政府は「私の土地です」と言わない山野地を国有化していきました。特に、共有の性格が大きい林野の75%が国有化されていきました。
 この過程で発生したのが、有名な小繋事件です。
「地方官心得」による地租・地価の算出法(1873(明治6)年7月28日付)
(1)田1段歩の標準収穫量の代金を算出する
 (標準収穫量は、1段につき1石6斗で、代金は4円80銭、但し1石ニ付代金3円)
(2)必要経費を控除する
 代金 4円80銭
  @マイナス「種籾・肥代1割5分引」=金72銭 
  Aマイナス「村入費」(地租〔地価の3%〕の3分ノ1)=金40銭8厘
  Bマイナス「地租」(地価の3%)=金1円22銭4厘
  ABの小計1円63銭2厘
 残金(純利益)=2円44銭8厘
(3)純利益を地価の6分(6%)の利とみなして地価を算定する
 2円44銭8厘÷0.06=40円80銭
X=地価、P=代金(収穫量×米価)
X=(P−0.15P−0.01X−0.03X)/0.068.5P
地価=〔代金−(肥料代+村入費+地租)〕÷純利益(地価の6%)

地租改正に隠された本質を探る
 地租は地価の3%(0.03)という数字の根拠はどこにあるのでしょうか。この数字は、「地租改正は従来の年貢による収入を滅らさない」という新政府の方針から計算されたものです。農民の収入である2円44銭8厘は、地価40円80銭の6分(0.06)にあたります。この結果、農民が負担すべき1円63銭2厘は、収穫代金4円80銭の34%(二公一民)に設定されました。当時、最大も課税対象となったのが、人口の大多数を占める農民です。農民からいかに税金を取るかが、新政府の最大の課題でした。
 現在の消費税は5%ですが、最初は3%でした。累進課税の場合、所得の多い人から多くの税をとろうとする政策です。しかし、消費税の仕組みは、ビール1本を、大リーガーのイチローが飲んでも、安月給のサラリーマンが飲んでも同じ額です。生産から消費まで、品物が動けば、全てに税金がかかります。政府にとっては、笑いのとまらない仕組みです。
 殖産興業の経営者、つまり資本家を育成するために政府が行った政策は、地主の保護でした。私の住んでいる旧赤穂郡をみても、今も酒造業を営んでいる人は、大庄屋とか庄屋とか言われた豪農出身でした。
 富国強兵のための、軍需工場も出来ました。軍隊も出来ました。徴兵制で兵隊も確保出来ました。
 他方、私の住んでいる相生から電車で、40分東へ行ったところに加古川があります。そこに働いていた人の話を聞きました。彼らは、百姓では食えないので、働きに出たといいます。姫路までは電車があったが、姫路からは歩いて帰ってきたそうです。
 政策的に必要な人材が作れるということを知りました。では、2005年の今、政府は、政策的に何を考えているのでしょうか。是か非ではなく、それを知り、それに対応する自己を確立しなければ、歴史に流されることを知りました。
 地租改正は、土地の所有者を確定し、土地面積を測量(地押丈量)し、その土地の収穫量(等級)を決定して、地価を確定する一連の作業をいいます。等級が高くなると、地価が高くなり、地価が高くなると、税金が高くなります。等級をめぐる紛争が多発するのは当然です。
 栃木県の地主総代坂入源左衛門の日記には、苦労してやっと妥協的な等級が決定したのを、内務省の役人が覆した時の状況が描かれています。「脳髄を費やし空腹を厭わす、等級を調査し、ここにいたったものをすべて廃棄してこの方法をほどこそうとするのか。ああ、困難のいたりの事件である」。
 経済の近代化のために、新政府は、下層の農民を対象とする政策を実施しました。厳しい状況にあっても、自由と個人主義という新しい社会体制を利用して、不満をエネルギーに変えて、困難を切り開いた人もいます。
 しかし、新しい体制に順応できず、不満をエネルギーに変える器用さもなく、より困窮化する農民もいます。彼らは、百姓一揆という形でしか、自分を表現できなかったのです。しかし、力には力の対応です。没落を早めました。
 有名な小繋事件を理解するには、入会地の性格を正確に知る必要があります。私の生まれ育った村には、入会地が存在していました。私の家では、私有の山林が二山もありました。山に入って、古木や枯れ草を集めるのが、子供の仕事です。それは炊飯のカマドに使われます。私の時にはありませんでしたが、父の話では、新芽の下草が刈敷(重要な肥料)として田んぼに使われていたそうです。
 私の体験は、小学生になると、正月休みから、「とんど」の1月15日の前日まで、毎日放課後、入会地(村の共有林)に入り、薪を作りました。6年生がリーダーで、他の大人の介入を排除する、小学生の自治的組織でした。「木は切ってはいけないが、枝はよい」というのが、大人から唯一指示されていたマナーでした。
 この私の体験から、入会地(村の共有林)は私有の山林がない百姓の大切な生活の糧だったのです。入会地で、子供たちは擬似大人社会を体験するのです。これを元に、小繋事件を考えたいと思います。
 岩手県二戸郡一戸町字小繋村(40戸)は、田畑が少なく、2000ヘクタールの入会地(村の共有林)に頼り、そこから建築材・燃料・肥料・飼料や食料などを得ていました。
 1877(明治10)年、元名主は、黙っていては国有化されると思い、自分名義で地券をうけました。
 1896(明治29)年、元名主は、自分名義の山林800ヘクタールを陸軍省に売り込もうとしましたが、失敗しました・
 1907(明治40)年、元名主は、現金欲しさに、茨城県鹿志村の海産物商である亀吉に自分名義の地券を譲渡しました。
 1915(大正4)年、小繋村で大火事があり、登記簿・証書などが焼失しました。その結果、今まで通り、小繋村の百姓が入会地に入ったところを、鹿志村の依頼を受けた警察官によって、追い出されました。
 1917(大正6)年、小繋村の百姓は、「共有の性質を有する入会権の確認および妨害排除」と盛岡地裁に訴えました。
 1939(昭和14)年、小繋村の百姓は、一審・二審で敗訴し、大審院は、「部落民は……入会権を自然放棄した」という理由で上告を棄却しました。
 1944(昭和19)年、最終判決にもかかわらず、小繋村の百姓は、入会地に入りました。そこで、鹿志村から訴えられて、森林法違反のかどで告訴・投獄されました。
 1966(昭和41)年、紆余曲折があって、有罪が確定しました。
 小繋事件は、元名主が、黙っていては国有化されると思い、自分名義で地券をうけた点までは、正しかったと思います。しかし、それを私有と勘違いしたことで、事件化しました。
 私の住んでいる兵庫県の宍粟郡でも同じことがありました。しかし、元庄屋は、今まで通りの、村の権利をそのまま継承しています。
 私の生徒が、「明日テンヤクなので、休みます」と言って来ました。テンヤクという言葉が聞きなれなかったので、地元の人に確認すると、「天役」という字を当てるそうです。天役の仕事は、村の共有林を維持・管理の仕事です。植林の下草刈り・枝打ち仕事・伐採・搬出などです。高校生になると、「一人前」として駆り出されるのです。その結果、年に30万円ほどの現金が入るとのことでした。
 今は、売るより世話の方に金がかかるということで、野放しになっています。樹齢が適齢期を迎えている杉が、放置されているので、「伐って欲しい伐ってほしい」と花粉を飛ばしているのです。これが花粉症の原因です。

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