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エピソード

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殖産興業と富国強兵T(工部省と内務省)
 明治新政府は、「欧米列強に追いつけ追い越せ」のスローガンの元に、殖産興業富国強兵を目的として、近代産業の育成を図りました。
 富国とは殖産興業によって、日本の経済力をつけることです。強兵とは、軍事力を強化して、それを背景に、外国に進出することです。幕末、日本が欧米列強にやられたことをやり返そうという考えです。
 では、殖産興業と何か。それは、欧米列強の近代的諸制度の導入すること、つまり、資本主義の原理を日本の産業に採用するということです。現実的には、民間のマニュファクチュア経営を上から指導するということです。
 そのために、新政府がまずやったことは、資本主義化の弊害になっている封建的諸制度の撤廃です。
 1869(明治2)年1月、自由往来の妨げになっていた諸道の関所を廃止しました。
 9月、自由往来の妨げになっていた諸藩の津留を禁止しました。
 1872(明治5)年1月、自由往来の妨げになっていた各駅の助郷の解散を命じました。
 4月、自由商業の妨げになっていた株仲間を廃止しました。
 1870(明治3)年閏10月、民部省から鉱山・製鉄・灯明台・鉄道・電信機を移管して、工部省を設置しました。初代工部卿に就任した伊藤博文(29歳)は、「19世紀後半の西欧先進国の産業構造をそっくり日本へ移植する」という壮大な工業化構想をスローガンに掲げました。
(1)殖産興業費の支出総額中で、鉄道敷設の経費は5割を占めています。いかに、新政府が鉄道業に力を入れていたかが分かります。
 1872(明治5)年、新橋〜横浜間鉄道が開通しました。
(2)殖産興業費の支出総額中で、官営鉱山経営の経費は3割を占めています。鉱山は、軍需産業には不可欠です。
 旧幕府所有の佐渡金山(新潟)・生野銀山(兵庫)を官営(国有)化しました。
 旧藩所有の高島炭坑(長崎)・三池炭坑(福岡)・釜石鉄山(岩手)・院内銀山(秋田)・阿仁銅山(秋田)を官営化します。
(3)軍備の近代化を図るため、官営軍事工場を設立しました。ここでは、多数の外国人技師が指導にあたりました。
 砲兵工廠(東京・大阪)・長崎製鉄所(長崎)・横須賀造船所(神奈川)などです。
 品川・深川・赤羽の3工作分局は、政府直営の官営工場として設立されました。品川工作分局はガラス食器など日常品や板ガラスを製造し、深川工作分局はセメント製造しました。赤羽工作分局は、機械製作工場として各種の工作機械やその付属品を製造しました。
 兵庫造船所長崎造船所は、政府直営の官常工場として工部省に所属しました。
 1872(明治5)年10月、官営富岡製糸場を開業しました。
 新政府は、製糸業を機械化することによって、唯一の輸出商品である生糸の大量生産を行い、輸入超過の貿易収支の改善図ろうとしました。
 まず、フランスの工場システムと器械を導入し、各地の器械製糸所のモデルとしました。指導者としてフランス人のポ−ル=ブリュ−ナ−を外人技師として、招聘しました。
 1873(明治6)年11月、内務省を設置しました。最初の卿が大久保利通(44歳)です。岩倉遣欧使節団として、西欧の大工業の実態を目撃した大久保利通らは、民間製造業の保護育成を通じて輸出振興を当面のスローガンとしました。軍需産業を通じて殖産興業を図るのが工部省、民営化による競争主義で、殖産興業を図るのが内務省ということになります。
 内務省は、輸出用の製糸・紡績を中心に、官営模範場を設立し、それをモデルに、民間の機械制生産を促進しようと図りました。
 1874(明治7)年、富岡製糸場を内務省に移管し、各地から工女を募って、ここで技術を習得した工女(富岡工女)を技術者として、全国の器械製糸所に派遣しました。
 1876(明治9)年、札幌農学校(今の北海道大学)に、クラーク(51歳)を招き、アメリカ式の大農場経営を移植することに努めました。
 1877(明治10)年、三田育種場を設立し、外国や国内各地から農作物や果樹を取り寄せて試作を行うとともに、蚕糸・製糸・染料・畜産の技術を改良に努めました。眉糸紡績部門では、群馬県に新町紡績所が開業しました。
 1877(明治10)年、内務省は、ウィーン万国博覧会を模範として、第1回内国勧業博覧会が、東京上野公園で開催しました。官営工場の最新式機械など8万点が出品され、来場者はは45万人に達しました。
 1879(明治12)年、毛織物部門では、東京の千住に製絨所が設けられました。その結果、陸海軍・警察・郵便局・鉄道などの制服などを自給できるようになりました。
富岡工女第一号の尾高ゆう、札幌農学校のクラーク
 新政府は、鳴り物入りで国立の富岡製糸工場を設立しました。器械はフランス製で、技術指導は青い目のフランス人ポ−ル=ブリュ−ナ−です。最高級の大臣で800円の時代に、彼の月給は750円といわれ、エリート中のエリートとして扱われました。
 しかし、300釜・400人体制の伝習工女の募集は、難航を極めました。その理由は、「ポ−ル=ブリュ−ナ−は赤鬼だ」とか彼が飲むワインを「若い娘の生血だ」という噂が広まっていたことでした。
 そこで、初代所長の尾高惇忠(今の深谷市)は、その噂を打ち消し、募集を成功させ、洋式技術を導入するため、自分の娘「ゆう」を伝習工女の第一号にする決意を固めました。ゆう(13歳)は、父の立場を理解し、率先して富岡に向かいました。
 それを聞いた近隣の子女は、伝習工女を志願するようになりました。ここに当時応募した工女の出身地があります。それによると、人数は235人で、その内士族の娘は85人(36%)で、出身地では深谷市が尾高ゆうの影響もあってか21人と最多です。
 彼女たちの得た技術は、やがて全国に及び、日本を世界の製糸立国に発展させていったのです。
 札幌農学校に招かれたウィリアム=スミス=クラーク博士について、調べてみました。
 1861年、クラーク(36歳)は、少佐として南北戦争に参加し、武功を挙げたことにより、准将に出世しました。
 1876年、クラーク(51歳)は、マサチュセーッツ農科大学の学長に就任しました。
 5月15日、クラークは、明治新政府より、北海道に「近代的な農業学校を」という熱い期待に応え、札幌農学校の初代教頭として、アマーストを出発しました。農科大学生の2人の卒業生を帯同させました。
 7月31日、クラークは、札幌に到着しました。
 8月14日、札幌農学校の開会式に出席しました。僅か8ヶ月の滞在でした。マサチューセッツ農科大学の休暇を利用しての訪日という形をとったようです。
 1877年4月16日、クラークは、札幌を出発して、アメリカに向かいました。この時、見送りの学生に対して、「Boys be ambitious」(少年よ大志を抱け!)と言ったとされていますが、その場に居た学生によると「Boys be ambitious like this old man」(年はとっているが、この私のように、君たちよ(少年よ)大志を抱け!)だったと言います。
 彼の帰国後に入学した2回生のなかには、内村鑑三・新渡戸稲造らがいます。
 1886年、クラークは、病気で亡くなりました。時に59歳でした。
 現在、アマーストの町中に、楡の木があります。クラークが、札幌から種を持ち帰って育てたもので、町の人も今も大切にしているということです。

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