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エピソード

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殖産興業と富国強兵U(郵便制度、鉄道、海運)
通信制度(電信・郵便・電話)
 経済の近代化には、正しい情報をより早く伝達する必要があります。それが、通信制度です。
 1838年、モールスは、電信機により、1分間に10個の単語を送る実証試験に成功しました。ドット(・)とダッシュ(―)の組み合わせをモールス符号といいます。
 1869(明治2)年、電信はテレガラフといわれ、東京〜横浜間で初めて開通しました。線がないので、無線と言われます。モールスが実験に成功して、31年後のことです。
 1871(明治4)年、越後高田の前島密(36歳)は、飛脚に代わる西洋式の郵便制度を提案しました。藩閥でもない前島密には、税制上の援助がありません。そこで、前島密が考案したのが、国家から保護を受けている地主(旧庄屋・名主)層に、世襲の局長になってもらい、屋敷の一部に郵便局を開設することでした。準官吏としての名誉と国家からの報酬で、1万3000局の郵便網が全国市町村に張り巡らされました。これが今、話題になっている特定郵便局のルーツです。
 ともかく、低額の切手をはり、ポストに入れると、全国どこでも、あて先に届けられる郵便制度が発足しました。
 オーストリアにも同じような制度があります。私たちが宿泊したホテルの名前が、「ポスト・ホテル」でした。ホテルが、郵便局を代行しています。前島密は、このような制度を視察したのかも知れません。
 1874(明治7)年、電信が、青森〜東京〜長崎間に開通しました。
 1876年、ベルは、電気で会話を伝送する電話を発明しました。
 1877(明治10)年、明治新政府は、電話を輸入しました。ベルが実験に成功して、翌年のことです。
鉄道(東海道線・山陽本線)
 経済や軍隊の近代化には、必要な物資を大量に迅速に運ぶ必要があります。それが、鉄道網です。
 1872(明治5)年、イギリスの援助で、東京(新橋)〜横浜間の官営鉄道が初めて走りました。技術援助は、イギリスに依存しました。
 1874(明治7)年、大阪〜神戸間が開通しました。
 1877(明治10)年、大阪〜京都間が開通しました。
 1889(明治22)年、東海道線(東京〜神戸)が開通しました。
 1894(明治27)年、山陽本線(神戸〜下関)が開通しました。
海運(岩崎弥太郎、日本郵船会社)
 経済の近代化の後、大量の商品を海外に輸送したり、富国強兵のために軍隊の海外に派遣するには、海運会社が必要になります。
 1870(明治3)年10月、土佐藩九十九商会を設立して、3隻の汽船で、海運事業を開業しました。同郷の後藤象二郎の援助があって、岩崎弥太郎(37歳)は、その経営・監督の任に当たりました。
 1872(明治5)年8月、渋沢栄一らは、半官半民の日本郵便蒸気船会社を設立しました。
 1873(明治6)年3月、岩崎弥太郎は、土佐藩の借金を支払う代わりに、九十九商会をを受け継ぎ、三菱商会を設立し、そこの社長となりました。
 1874(明治7)年4月、薩摩の大久保利通の意を汲んで、西郷隆盛の弟西郷従道(32歳)は台湾に出兵しました。この時、政府が輸入した船の使用を認められ、兵隊や大砲・弾丸・食料を独占的に輸送したのが、岩崎弥太郎の三菱商会です。その結果、三菱商会は、政府の補助金を受けて、国内海運を独占し、全国汽船総トン数の73%を手にします。また、岩崎弥太郎は、薩摩の大久保利通と濃密な関係になります。
 1875(明治8)年5月、薩摩の大久保利通や肥前の大隈重信らは、欧米の海運業と対抗するため、国内の海運業の保護政策を打ち出しました。これをいち早く知った岩崎弥太郎(42歳)は、三菱商会を改称して、三菱汽船会社を設立しました。
 6月、渋沢栄一らが設立した日本国郵便蒸気汽船会社が、解散させられました。
 9月、新政府は、最初の海運政策を決定し、三菱汽船会社を保護する命令書を交付しました。岩崎弥太郎は、三菱汽船会社を郵便汽船三菱会社と改称しました。
 10月、政府の保護を受けた郵便汽船三菱会社は、新政府の船を無償で受け、太平洋郵船会社横浜上海線を買収し、上海航路を開きました。
 1877(明治10)年2月、新政府の命を受けた岩崎弥太郎は、鹿児島にある陸軍の弾薬庫から兵器・弾薬を秘密裏に引き上げようとしました。これがきっかけで、西南戦争が勃発します。この時、岩崎弥太郎は、郵便汽船三菱会社が所有する汽船を、新政府軍の軍用船として独占的に活用しました。岩崎弥太郎は、この戦争によって1300万円という莫大な利益を得ました。
 1881(明治14)年10月、三菱の最大の保護者であった大隈重信が失脚し、岩崎弥太郎は、窮地に陥りました。
 1882(明治15)年7月、渋沢栄一は、三井家の保護者である長州の井上馨と組んで、共同運輸会社(渋沢栄一と三井の共同出資会社)を設立しました。
 1885(明治18)年9月、明治政府は、郵便汽船三菱会社に対して、共同運輸会社と対等合併を勧告ました。この結果、郵便汽船三菱会社は、中心事業であった海運業を失い、社員の多くが新会社の日本郵船会社に移籍しました。
 その後、日本郵船会社は、政府の保護を受けて、近海航路ボンベイ航路欧米豪航路の3大外国航路を開設しました。
最初の汽車は横浜・神戸へ、死の商人と財閥三菱
 最初の電信が引かれたもの、東京〜横浜です。最初の汽車が走ったのも、東京(新橋)〜横浜です。
 関西でも、最初の汽車が走ったのが、大阪〜神戸です。
 現在は、JRの東日本は東京〜大阪まで、JRの西日本は大阪〜博多までになっています。しかし、以前は、東海道線と山陽本線の分岐点は、実は神戸だったのです。以前クイズ番組にも取り上げられました。
 何故、横浜・神戸が、重要なのでしょうか。答えは簡単です。横浜・神戸は、港町だったのです。
 以前にも、別の項で書きましたが、私の住んでいる兵庫県の相生市には、新幹線が止まります。初めて相生市を訪れた人には、4万足らずの相生市に新幹線が停車するのが不思議なようで、よく質問されます。以前、相生市にある石川島播磨重工業(相生の播磨造船所と東京の石川島重工業が合併)で造船世界一を記録したことがありました。一番総理に近い男といわれた河本敏夫国会議員が相生市の出身です。この経済と政治の力が結合して、相生に新幹線が止まるようになったのです。
 つまり、経済力があって、それを押す政治力があって、様々なことが結実するのです。庶民のためにあるのではないのです。最近、政治駅が問題になります。政治力のみです。票をあてにした、結実です。日本を破滅に導く果実です。
 日本で最初の汽車は、東京(新橋)〜横浜間を走りました。この時イギリスの経済的援助を受けました。これは、正しかったと思います。しかし、レールの幅が、世界の標準(1435mm)ではなく、1067mmと狭かったのです。レールの幅が狭いと、その上を走る車両は大きく制約され、スピードも出ません。狭い日本には、狭いイギリスの実情が合うという配慮かと思いました。
 しかし、イギリスに行って確認すると、なんとイギリスでは、世界の標準(1435mm)の広いレールで、列車は、ガンガンとスピードを上げて、走っていました。
 日本の新幹線は、広いレール、つまり世界の標準(1435mm)を採用しています。輸送・速度、あらゆる面で、有利なことは体験済みです。なぜ、明治新政府は、狭いレール、つまり狭軌を採用したのでしょうか。
 大隈重信は、イギリス人技師と交渉したとき、レールの幅と輸送能力・速度との関係を理解できぬまま、財政上の問題で、狭軌を決定したといいます。大隈重信の回想には、「(私は)鉄道の事は丸きり素人で解らない。英国人技師のモレルに聞くと、”ゲージはどうしませう”と言う。私は”ゲージとは何だ”と云ふやうな有様であった。”日本は、貧乏な国であるから軌幅は狭い方が宜からう。世界にソンナのがあるか”と聞くと、モレルは”中々評判が宜しい”と云ふ。…それで決まった」とあります。
 日本の地形は、複雑で山地が多いという地理的事情、それによる建設費が割高になるという事情を説く人もいます。
 私は、経済的援助や技術的援助の場合、将来のライバルに、自国と同じレベルの援助をするかという疑問をもっています。イギリスは、自国の植民地(ニュージーランド・セイロ・南アフリカなど)に狭いレールを押し付けています。日本に対しても、同じ視点で、狭いレールを勧めたのではないでしょうか。
 だとするならば、日本が幕末に、ペリーやハリスから、不平等条約を押し付けられたように、無知からくる悲劇を食い止めるためにも、外国を視察するなり、本を読んで、勉強する必要を痛感しました。今も、無知な外交が行われて、後世の人々に悲劇を残してはいないでしょうか。
 何故、貿易をするのに、自国の船が必要でしょか。考えてみました。
 自国の船がない場合、製品を例えばアメリカの商船に依頼します。アメリカの商船会社の社長は、アメリカ人が依頼した輸送運賃と、日本人が依頼した輸送運賃を同じにするでしょうか。日本人の商品により高い運賃を要求するはずです。アメリカ人の商品と、日本人の商品が、インドに届けられました。販売額は日本人の商品の方が運賃が高い分、割高になります。割高な商品は、売れ残ります。
 逆に、自国の船には、政府が保護を与えます。運賃を特別安くします。インドでの販売額は、特別安くなります。特別安くなれば、同じ品質の場合、アメリカの商品よりたくさん売れます。
 貿易を考える場合、自国の船が必要な理由は、これでお分かりでしょう。
 戦争によって利益を得る人を死の商人といいます。財閥三菱の創業者である岩崎弥太郎は、まさに死の商人です。
 三井・住友・鴻池のように江戸時代に基礎を築いた老舗は、深く政治と関係を持っています。汚い仕事をしなくても、利益を得るシステムが構築されています。
 しかし、新興企業にとっては、h長土肥という藩閥を利用したり、老舗が嫌がる汚い仕事をする必要があります。
 最近はどうでしょうか。財閥系とか老舗といわれた企業が、汚い仕事を一杯して、マス=コミを賑わわせています。以前の常識では、信じられないことです。財閥や老舗も、成果主義の病に取り付かれたのでしょうか。
ベルの電話の原理←電話(テレフォン)の原理を示す、素晴らしいホームページを発見しました。

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