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エピソード

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殖産興業と富国強兵V(貨幣・金融制度)
 以前、別な項でも説明しましたが、物々交換は現実的な取り引きではありません。お金を仲立ちにすると、商品流通は、円滑に行えます。人間の歴史と共に、貨幣の存在が確認されるのは、そのためです。
 高度な商品経済になると、さまざまな貨幣制度が誕生します。小判のように、そのものに価値がある貨幣もあります。藩札のように、金・銀と交換されない貨幣も発行されます。これを不換紙幣といいます。不換紙幣は、金・銀と交換されない貨幣ですから、経済の実態であわせないで、いくらでも発行できる性格をもっています。その結果、インフレーションが発生し、社会が混乱します。
 殖産興業にはお金(資本)が必要です。必要な時に、お金(資本)が調達できる銀行も必要です。資本主義銀行とは密接な関係にあります。
 1868(慶応4)年2月、明治新政府は、旧幕府時代の貨幣(金銀銭貨)の時価通用を認めました。
 5月、明治新政府は、福井藩の財政再建に成功した由利公正を参与・会計事務掛に抜擢し、戊辰戦争の遂行や殖産興業の費用として総額4800万両の太政官札を発行しました。10両・5両・1両・1分・1朱の5種類で、金札ともいわれました。しかし、経済の裏付けなしに発行された不換紙幣だったので、正貨100両に対して太政官札は166両まで下落するという激烈なインフレになりました。
 1869(明治2)年5月、明治新政府は、インフレ政策として、新たに発行される金貨と交換するという兌換方針を発表しました。同時に、小額面の民部省札(不換紙幣)を発行しました。2分・1分・2朱・1朱の4種類です。インフレ化しました。
 9月、五代友厚は、三井八郎右衛門らと、半官半民の通商会社・為替会社を設立しましたが、失敗に終わりました。
 1871(明治4)年6月、伊藤博文は、欧米先進国が金本位制に移行しつつあると建議して、金本位制採用による新貨条例を制定しました。
(1)純金2分(1.5g)を1円金とし、1円=100銭、100銭=1000厘という十進法を採用しました。
(2)本位貨幣として、金貨を発行しました。20円・10円・5円・2円・1円の5種類です。
(3)補助貨幣として、銀貨銅貨を発行しました。銀貨は、50銭・20銭・l0銭・5銭の4種類です。銅貨は、1銭・半銭・1厘の3種類です。
(4)アジア諸国では、銀本位制の国が多かったので、貿易上、1円銀貨を鋳造しました。
(5)本位貨幣は金貨、貿易貨幣は銀貨を使用しました。これを金銀複本位制といいます。しかし、金貨は余り流通せず、貿易では銀貨が、国内では不換紙幣が流通しました。
 10月、明治新政府は、大蔵省兌換証券を発行し、インフレ化しました。
 1872(明治5)年5月、明治新政府は、由利公正らが発行した太政官札や民部省札などの不換紙幣と交換するために、新紙幣の「明治通宝」を9種類を発行しました。総額は5289万7165円でした。しかしこの新紙幣も不換紙幣のためインフレを招きました。
 12月、伊藤博文の建議に基づき、大蔵大丞渋沢栄一(33歳)は、不換紙幣を整理するために、アメリカの「National Bank」(国立銀行)を参考にして、国立銀行条例を公布しました。
(1)民間の経済力をバックにして、兌換銀行券(金と交換が出来る貨幣)を発行する。これを国立銀行券といいます。
(2)国立銀行の資本金は5万円以上とする。国立銀行は、その6割(3万円)を政府に納付すると、政府は、同額の金札引換公債証書を国立銀行に与えます。国立銀行は、この範囲内で、つまりこれを担保として、紙幣を発行することができました。
(3)残りの4割(2万円)は、正貨(金塊)で兌換のために、手元に置いておく。
(4)制限が多っかたので、希望は5行だけでした。しかし、大阪の鴻池善右衛門は、第三国立銀行を開業する予定でしたが、結局、準備が出来ませんでした。最終的に、第一・第二・第四・第五の国立銀行に許可が下りました。
 1873(明治6)年7月、三井・小野組は、国立銀行条例により、東京第一国立銀行を開業しました。資本金は250万円でした。
 12月、大阪第五国立銀行が開業しました。資本金は50万円でした。
 1874(明治7)年3月、新潟第四国立銀行が開業しました。資本金は20万円でした。
 8月、横浜為替会社は、横浜第二国立銀行が開業しました。資本金は25万円でした。
 10月、台湾出兵に際して政府は、小野組・島田組・三井に対して、取扱官金と同額の抵当の払込を要求した。三井はこの情報をいち早く察知し、英国オリエンタル銀行より融資を受け、破産を免れた。
 11月、小野組はこの要求に応じ切れず、破産。大蔵省は、小野組の官金委託を第一国立銀行に切り替える。
 12月、島田組はこの要求に応じ切れず、破産しました。
 1874(明治7)年7月、国立銀行券の流通高は、急減しました。
 1876(明治9)年6月、この頃、、経済の実態にあわない銀行券の増発は、インフレをもたらし、金貨1000円に対して、銀行券の交換比率が1017円というように金価格を暴騰させました。そこで、金兌換の銀行券は、すぐ金貨と兌換され、銀行の金塊は不足するようになりました。
 7月、私立三井銀行が開業しました。資本金200万円です。総長は三井八郎衛門、副長は三野村利右衛門です。
 8月、そこで、明治政府は、国立銀行条例が改正しました。
(1)銀行紙幣の金貨兌換を中止する。
(2)資本金の8割(80%)の公債証書を政府に委託させ、同額の銀行紙幣(不換紙幣)の発行を許可する。
(3)資本金の2割(20%)を政府紙幣で保有させ、引き換え準備にあてさせる。
(4)設立の条件が緩和されたので、153の銀行が設立されました。
(5)インフレがより進行しました。
 1879(明治12)年11月、京都百五十三銀行が設立許可されました。これ以後の設立は、不許可となりました。
 1881(明治14)年10月、松方正義は、大蔵卿に就任し、不換紙幣の整理など松方財政を本格的に開始しました。
 1882(明治15)年6月、唯一の発券銀行としての日本銀行が設立されました。
 1883(明治16)年5月、国立銀行条例を改正しました。
(1)各国立銀行の発券銀行の権限を停止する。
(2)営業期間満期後は、普通銀行に転換する。 
 1886(明治18)年、銀本位制度が確立しました。
 1897(明治30)年、金本位制度が確立しました。
 1899(明治32)年2月、供託法が公布され、国立銀行はその歴史を終えました。
 今まで見てきたように、明治新政府は、経済の近代化を進めるために、上からの改革を次から次へと繰り出しました。そして、その改革を現実化させるために、伝統的な豪商や、藩閥系の新興商人に接近しました。逆に、豪商や新興商人の方から、有力な政治家に接近して、様々な保護を受けました。こうした政治家と接近した特権的な資本家を政商といいます。
 その代表的な政商は、江戸時代からの三井住友・安田・鴻池など豪商と、三菱などの新興商人があります。
資本主義社会と銀行、政商
 明治初期の銀行の役割は、殖産興業の資本援助というより、政府の事業や軍需に発行された不換紙幣の後始末的な性格が強かったのです。
 不換紙幣を増発することで、インフレを起こし、庶民の持っている貨幣の価値を薄めるという政策です。
 今も同じ方法が繰り返されています。私が就職した頃の初任給は1万3800円でした。自動車教習所の初期費用も大卒公務員の初任給に連動していました。今1万円は1回の食料の買い物代です。その頃、貯金していた人の貨幣価値は地に落ちているということです。CMや広告に踊らされることなく、自分の生活は、自分で守る気構えが必要だと実感しています。
 国立銀行は、国立でなく、民間の銀行です。渋沢栄一が、日本に導入した時、アメリカの制度を参考にしました。アメリカには、各州の銀行法による「State Bank」(官立銀行)と、「National Bank」がありました。
 「National Bank」は、銀行法(国の法律)で設立されたので、直訳すると国法銀行となります。
 日本では、国法銀行以外は銀行と称することができず、三井銀行は、三井組バンクという名称を使っていました。
 国立銀行条例の改正によって、全国で153の国立銀行が誕生しました。私の住んでいる兵庫関係の国立銀行を調べてみました。
 第三十八国立銀行(姫路)を最初にして、第五十五国立銀行(出石)・第五十六国立銀行(明石)、第七十三国立銀行(神戸)・第九十四国立銀行(龍野)があり、、第百三十七国立銀行(篠山)が兵庫では最後の設立となりました。
 財閥の三井と住友が合併する時代です。少し前なら、絶対にあり得ないと思っていたことが、現実になっているほど、今は政治・経済ともに、未曾有の時代です。ここで改めて、政商を調べてみました。
(1)三井について。三越百貨店のルーツは、井高利が後屋呉服店を開いたことにあります。明治になると、長州の井上馨と接近し、政府の米穀流通や官営三池炭鉱の石炭輸送を引き受けるなど様々な保護を受け、発展してきました。
(2)住友について。幕末の住友家は、別子銅山・両替業を経営していました。戊辰戦争の時、別子銅山は、新政府によって接収の対象とされました。その時、広瀬宰平は、公家の岩倉具視に接近し、接収を回避出来ました。その後、住友家は、別子銅山の産銅を大蔵省造幣寮に納入したり、官有林の払い下げを受けたり、囚人労働など、様々な保護を受けました。
(3)三菱について。土佐藩の郷士である岩崎弥太郎は、土佐藩の後藤象二郎の保護を受けて、海運業に手を出し、薩摩の大久保利通と接近して、西南戦争のきっかけを作り、その後は、肥前の大隈重信の庇護を受けて、大きく成長しました。
(4)安田について。富山藩の下級武士である安田善次郎は、江戸幕府の古金銀の回収の代行をしていました。その後、明治新政府が、由利公正が発行した太政官札を時価でなく、正貨と1対1で交換するという情報を得て、太政官札を時価で買い集め、5000両の利益を得ました。
幕府による古金銀の回収の代行(1867年)、新政府による太政官札の価格変動を見越した投機(1868・69年)等で巨利を得た。その後、80年には安田銀行を設立。日本の「銀行王」となった。
(5)小野組について。小野組の番頭である古河市兵衛は、渋沢栄一らに接近し、小野組が破産した時、返済の一部を受託し、古河鉱業として、銅山経営で活躍しました。
明治時代の高額所得者(色は政商)
第一位 第二位 第五位 第六位 第九位 第十位
明治20年 岩崎久弥 毛利元昭 細川護成 渋沢栄一 徳川義礼 鴻池善右衛門
明治28年 岩崎久弥 三井八郎右衛門 住友吉左衛門 徳川茂承 安田善次郎 鍋島直大

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