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エピソード

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文明開化U(教育制度の整備、学制、津田梅子)
 文化の近代化が進んでいる欧米では、教育に国家の計を託していました。そこで、日本の政府も、本格的な国民教育に取り組みました。
 参考にしたアメリカは、進学率の伸ばす平等主義的教育を展開していました。イギリスは、エリートを養成する効率主義的教育を展開していました。
 明治新政府が採用した方針は、アメリカとイギリスの折衷案でした。
(1)平等主義により進学率の伸ばす
(2)大学・高等学校を序列化することで効率を高める
 1868(慶応4)年4月、福沢諭吉は、塾を芝新銭座に移転して、慶應義塾と名づけました。
 1871(明治4)年7月、文部省を設置しました。初代文部卿には大木喬任が、初代文部大輔には江藤新平が就任しました。
 11月、全国の学校をすべて、文部省の管轄下に入れました。
 1872(明治5)年8月2日、文部省は、「学事奨励に関する被仰出書」を公布し、「学制」の理念を宣明にしました。
 8月3日、文部省は、最初の近代的教育制度法令である「学制」を頒布しました。
(1)フランスの学区制導入し、全国を8大学区に分け、1大学区に32中学区、1中学区に201小学区(5万3760校の予定、人口600人に1校)を理想とする
(2)近代的教育観である開智(勉強し)・立身(就職し)・殖産(財産を増やす)を提唱し、国民皆学を期するというものです。
 1873(明治6)年11月、東京外国語学校(今の東京外国語大学)が開成学校より分離独立しました。
 1875(明治8)年1月、文部省は学齢を満6歳から満14歳とするという布告を通達しました。その結果、各地で学制反対の一揆が起こりました。
 11月、東京女子師範学校が設立されました。
 11月、新島襄は、京都に、同志社英学校を設立しました。
 12月、この年までに、全国の小学校数は2万4225校に達し、ほぼ全国の町村に設立されました。
 1877(明治10)年4月、東京開成学校と東京医学校が合併し、東京大学となりました。たくさんの外国人教師が招聘されました。
 1879(明治12)年9月、文部省は、「学制」を廃止し、「教育令」を定める布告を通達しました。その内容は、「地方官の監督を緩め、民度に適合した教育の普及につとめる」というアメリカ式教育方法になっています。これを自由教育令といいます。
 1880(明治13)年12月、文部省は、教育令を改正しました。これを改正教育令といいます。
(1)教育令の現状適応主義を改める。
(2)教育に対する国家基準を明示し、統制を強化し、教育の中央集権化を図る。
 1882(明治15)年10月、大隈重信は、東京専門学校(今の早稲田大学)を設立しました。
 1886(明治19)年3月、帝国大学を公布し、東京大学を帝国大学と改称しました。
 4月1日、師範学校令を公布し、尋常師範学校と高等師範学校の2つに分けました。
 4月1日、小学校令を公布し、「義務教育制」を初めて打ち出しました。
 4月1日、中学校令を公布しました。
(1)尋常中学校と高等中学校の2つに分ける。
(2)府県立尋常中学校(5年制)は各府県に1校、高等中学校(2年制)は全国に5校設置する。
 1887(明治20)年、東京美術学校(今の東京芸術大学)が岡倉天心らの尽力で設立されました。
 10月、東京音楽学校(今の東京芸術大学)が設立されました。
 1890(明治23)年3月、東京女子師範学校を女子高等師範学校と改称しました。
 1894(明治27)年6月、高等学校令を公布し、尋常中学校を中学校(高等普通教育機関)に、高等中学校を高等学校(3年制)に改称しました。
 1899(明治32)年2月、高等女学校令を公布し、高等女学校(女子の高等普通教育機関)を設立しました。
(1)男子の中学校に対応する女子中等学校として制度化される。
(2)中流階層以上の子女の良妻賢母の育成を主眼とする。
(3)修業年限は4年とする。
 2月、実業学校令を公布しました。
(1)実業に従事する者に必要な教育を施す学校として設立する。
(2)実業学校は、農業・工業・商業・商船・実業補習学校の5種類とする。
(3)中等教育機関としては、既設の中学校と、新設の実業学校の2本立てとする。
 1900(明治33)年9月、津田梅子は、麹町に、女子英学塾(今の津田塾大学)を設立しました。
 1903(明治36)年2月、専門学校令を公布しました。
(1)高等教育機関としての専門学校の制度化をはかる。
(2)修業年限は3〜4年で、入学資格は中学校・高等女学校の卒業生とする。
(3)医学、法学・経済学・商学、文学、工学、農学、宗教学など多様な学科がある。
(4)慶応や同志社・早稲田などは専門学校、津田塾などは女子専門学校の適用を受ける。
(5)札幌農学校(今の北大)・東京美術学校(今の芸大)・東京高等商業学校(今の一橋大)などは、官立の専門学校の適用を受ける。
 1907(明治40)年3月、小学校令を改正しました。
(1)尋常小学校の義務教育年限を6年に延長し、高等小学校を2年制もしくは3年制とする。
(2)全国の小学校数は2万5000校に達し、就学率も98%になりました。
 1908(明治41)年4月、奈良女子高等師範学校(今の奈良女子大学)が設置されたので、東京にある女子高等師範学校は、東京女子高等師範学校(今のお茶の水女子大学)と改称されました。
 1910(明治43)年12月、義務教育の就学率は、ついに100%に達しました。
国家百年の計は、教育にあり
 明治8年、文部省が学齢を満6歳から満14歳とするという布告を出すと、全国各地で「学制」に反対する一揆が起こりました。今の感覚からすると、「塾に行かせずにすむ」と喜ばれるのに、どうして反対運動が起こったのでしょうか。
 農業を手伝ったことのない子供や、手伝わせてことのない親には分からないでしょう。私は、小学校に行く前に、田植えの手伝いや、刈り取りの手伝いをさせられてきました。小学校から高等学校まで、学校のない時間は、1人前の労働力として、計算されていました。学校のない明治初期は、朝から晩まで、子供は貴重な労働力だったのです。 
 学校や教育に対する考え方も、今の感覚では理解できません。私の中学校から、高校に進学した者は10%ほどです。高校から大学に進学したものは10%ほどです。ほとんどの子供は、中学から就職していたのです。
 牛耕できた者が「1人前」、60kgの米俵を担げたものが者が「1人前」、売れるように薪1把できた者が「1人前」と評価されました。食える仕事が出来ず、いくら勉強ができても、「それがどうした?」とバカにされたものです。
 今は、食える仕事が出来なくても、勉強さえ出来たら、「賢い」といわれる時代です。フリーターやニートとか言われていますが、私はこの風潮が背景にあると思います。食えることこそ、人間の第一歩です。
 私が最初の勤務した時のことです。市役所や郵便局という公務員の仕事(ホワイトカラー)より、現金収入の多い仕事(ブルーカラー)を選ぶ生徒がたくさんいたのにびっくりしました。
 以上の体験を踏まえた場合、(1)時間を奪われる、(2)役に立つかどうか分からない、(3)理屈を覚えて大人にたてつくことを教える、(4)それなら早くから食える仕事を身につけたほうがいい、学校には、そういうイメージがあったのではないでしょうか。
 啓蒙思想に触れたり、本能的に自分のやりたいことを追求したりして、親や地域の狭いしがらみを脱するために、高等教育に進むものも出てきました。
 学制反対一揆が起こった年、既に、小学校の数は、2万4000校に達し、1村に1学校という事実は、「すばらしい日本人!」と叫びたくなります。自国人のナショナリズムに訴えて喝采や票を得ようと、外国人を軽蔑し、日本の評価を下げる政治家や評論家・学者がいます。そんなことをしなくても、日本や日本人の素晴らしいことは山とあるのです。江戸時代が終わって、8年目に1村1学校なんです。
 明治43年には、就学率は100%に達しています。「教育は、子供の未来を変える」ということが理解されたのです。
 ベナン共和国のゾマホン(ビートたけしのTVによく出る)が、日本の教育を導入しようとしている意味も分かります。
 明治新政府は、「欧米に追いつき追いこせ」をフローガンに、教育に熱意を注ぎました。このエネルギーに圧倒されるばかりです。
 御雇外国人を招聘しています。月給を調べてみました。ベルツ(500円)、ナウマン(350円)、フェノロサ(370円)、クラーク(600円)、モールス(370円)、キンドル(1045円)などです。当時、伊藤博文は参議で月給は500円、後総理大臣になって800円でした。庶民は10円の時代です。そんな高額の外国人を6193人も招いたのです。
 なぜ高額かというと、中流の学者や研究者では、世界のトップの教育には追いつけない。世界でトップの学者や研究者を招いたのです。今のアメリカに、日本から頭脳流出が続いています。当時は、世界の頭脳が日本に流入したのです。「総理大臣よりも高額の待遇で」という条件を付けられた人もいました。
 戦前に教育を受けた人は、今の教育の現状を憂いて、教育勅語を評価します。しかし上に見たように、教育に膨大な投資をした結果が、優秀な人物を生んだのです。
 今、教育に必要なのは、国家百年の計です。私は、在職時代、色々な人と交流をしました。アルコールが増えると、学校批判・教師批判がでます。私は、じーっと聞いていて、やがて「自分の子供さんをコントロール出来ますか」と尋ねます。ほとんどの親は「うーん、難しい」と答えます。そこで、私は「学校では、親がコントロールできない子供を1クラス40人も預かっているのですよ」と言います。これで、一件落着です。最後は、1クラスの生徒を外国並みに少なくするという話になります。
 もっと、先生の負担を少なくし、専門性を深め、生徒と接触する時間を確保すれば、多くの問題は解決します。そのためには、今の安直な投資でなく、明治時代のように、教育に膨大な投資をする必要があります。
 津田塾大学を創設した津田梅子には、とても関心があります。調べてみました。
 1871年(明治4)年11月、北海道開拓使次官の黒田清隆は、「開拓には有能な人材が必要である。有能な人材を育てるには教養ある母親が不可欠である。そのためには、女子教育を振興すべきである」という趣旨で、アメリカに派遣する女子留学生を募集しました。期間は10年でした。
 アメリカ留学の経験を持つ梅田仙は、黒田清隆と懇意であり、娘の梅子を応募させました。この時梅子は、6歳でした。合格すると、父親の津田仙は、「英和小辞典」と人形を持たせました。見送りの人々は、梅子を見て「こんな子をアメリカにやるなんて、母親は鬼に違いない」と噂したといいます。ワシントン勤務の森有礼は、梅子を見て、「どうすればいいんだ」とうなったといいます。津田梅子は、船の上で7歳の誕生日を迎えました。
 梅子以外には、永井繁子(8歳)、山川捨松(11歳)、吉益亮子・上田貞子(14歳)がいました。そのうち吉益亮子・上田貞子は、10カ月ほどで帰国しました。
 1882年(明治15)年11月、津田梅子は、10年の期間を1年延長してもらい、帰国しました。時に18歳でした。梅子が1年間でも長くアメリカにいたいと思った理由は、日本にはないアメリカ人女性の考えを学びたかったからです。
 1885年(明治18)年、津田梅子(21歳)は、華族女学校が開校されると、教授補として就任しました。
 1889年(明治22)年、津田梅子(25歳)は、2年間の研究休暇を得て渡米、ブリンマー・カレッジ入学します。
 1898年(明治31)年、津田梅子(34歳)は、女子高等師範学校の教授を兼任します。
 1900年(明治33)年、津田梅子(34歳)は、一教師の立場に限界を感じ、女子英学塾を開きます。
(1)学校創立の目的は、アメリカの女性に比べ、教養ある女性を必要としない日本社会、自ら向上しようとしない日本女性に落胆し、日本女性の地位の向上のために女子教育の必要性を痛感したことにあります。この時のことを、梅子は「東洋の女性は、地位の高い者はおもちゃ、地位の低い者は召使いにすぎない」と述べています。
(2)主流の知識伝達型の教育でなく、課題探求型の教育を実践しました。生徒の研究心を重視し、教師との意見の交換を通して生徒は力をつけると考えです。
(3)「All‐Round Woman」(梅子が式辞で用いた言葉)は、聡明で公平な判断ができる女性、それ故に、夫から尊敬され、社会から必要とされる女性を意味します。
 留学生仲間は結婚し、古い日本社会の因習の中で、良妻賢母として生活しています。
 しかし、津田梅子には、そのような生き方に抵抗し、自由で、個性的な女性として、また指導者として生活しました。当時の女性活動家がそうであるように、梅子も独身を余儀なくされました。
 今の女性は、「自由を束縛されたくない」とか、恋すれば「壊れることが恐い」とか、「料理を作り時間がもったいない」とか、「子育てに時間を割きたくない」とか、「子供が生まれると体型が崩れる」とかいう個人的理由で独身を堪能しています。広いい意味での自由は、そう考える時、既に束縛されているのです。体型は、最初から崩れているのです。
 女性向上のために結婚を犠牲にした人がこれを聞けば、絶句するでしょう。 

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