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エピソード

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文明開化W(靖国神社の戦後)
 不幸にして、戦争は多くの人を犠牲にしました。
 「戦争に賛成だ」と公然と発言する人はいません。しかし、戦争は起きます。戦争によって儲かる「死の商人」と、それに群がるハイエナがいるからです。しかし、彼らは自ら戦争に参加しません。国民を自衛のためとか正義のためだと称して借り出します。その手段が、愛国心だったり、戦前のような靖国神社だったりします。
 権力は国民に対して目に見えない網を被せたがります。国民は、それを払いのけます。その繰り返しの歴史だったともいえます。今のその歴史の真っ只中です。
 1945年12月15日、GHQは、国家神道(神社神道)に対する政府の保証・支援・保全・監督および弘布の廃止に関する覚書を発表しました。これを国教分離といいます。従来の国体観念の改革を要求して、国の行事であった神道の祭典は、皇室の私的な行事となりました。軍国主義の役割を補完していた神社も、本来の神社の姿に帰ることになりました。
 靖国神社は、「国家との関係を断って宗教施設として存続する」という宗教法人になりました。
 12月15日、GHQの民間教育情報部長であるダイク代将は、記者会見で、国教分離の覚書の趣旨を「神道は、決して軍国主義的、超国家主義的なものでなかったが、神の子として侵略その他の蛮行がすべて合理化されたのは明治以来の官製神道の教義によるものであつた」と語りました。
 1946(昭和21)年1月1日、天皇は、神格化否定の詔書を発表しました。これを天皇の人間宣言といいます。マッカーサーは、詔書に満足の意を表明しました。人間宣言の内容は、以下の通りです。
「朕は爾等国民と共に在り、常に利害を同じうし休戚を分たんと欲す。朕と爾等国民との間の紐帯は終始相互の信頼と敬愛とに依りて結ばれ、単なる神話と伝説とに依りて生ぜるものに非ず。天皇を以て現御神とし、且日本国民を以て他の民族に優越せる民族にして、延て世界を支配すべき運命を有すとの架空なる観念に基くものにも非ず」
 *解説(私(天皇)と国民との絆は、神話と伝説ではない。私を現人神=人の姿をしてこの世に現れた神とし、日本民族は他民族より優越しているので、世界を支配すべき運命を持っているという架空の観念でもない。私(天皇)と国民との絆は、相互の信頼と敬愛で結ばれている→私たちの敗戦後の出発点は、まさにここにあります)
 1月4日、GHQは、軍国主義者の公職追放および超国家主義団体27の解散を指令しました。
 1月19日、マッカーサーは、極東国際軍事裁判所条例を承認し、戦争犯罪人(平和・人道に対する罪、戦時法規違反の罪)を審問・処罰のため裁判所の設置を命令しました。
 1月21日、自由党の鳩山一郎は、憲法改正要綱を発表し、天皇は統治権の総攬者であることを明記しました。
 1947(昭和22)年5月、政教分離を定めた日本国憲法が施行されました。
 1948(昭和23)年11月、極東軍事裁判所は、A級戦犯25人に有罪の判決を下しました。これを東京裁判という。
 12月、A級戦犯の東条英機ら7人が絞首刑に処せられました。
 1951(昭和26)年9月、日本と48カ国は、サンフランシスコ平和条約(11条戦争犯罪を含む)に調印し、戦争状態を終結させました。
 9月、日本はアメリカは、日米安全保障条約に調印し、アメリカ軍の駐留を承認しました。
 10月17日、外務省の西村熊雄条約局長は、衆議院の特別委員会で、「第11条は戦犯に関する規定であります。戦犯に関しましては、平和条約に特別の規定を置かない限り、平和条約の効力発生と同時に、戦犯に対する判決は将来に向かって効力を失い、裁判がまだ終わっていない者は釈放しなければならないというのが国際法の原則であります。従って、11条はそういう当然の結果にならないために置かれたものでございまして、第1段におきまして、日本国は極東軍事裁判所その他連合国の軍事裁判所によってなした判決を受諾するということになっております」
 1952(昭和27)年8月、宗教法人法により宗教法人靖国神社が設立されました。
 1953(昭和28)年、援護法改正で絞首刑7人は公務死扱いとなり、他の戦死者と同じく、遺族は年金受給者となりました。
 1954(昭和29)年12月、重光葵(東条内閣の外相。A級戦犯無期)が鳩山一郎内閣の外務大臣となりました。
 1956(昭和31)年4月、遺族会からの要望で厚生省は「靖国神社合祀事務に関する協力について」という通達を出して、都道府県が御祭神の選考を行うこととなりました。その基準は「戦傷病者戦没者遺族等援護法」「恩給法」としました。
 1957(昭和32)年2月、岸信介(東条内閣の商務大臣。A級戦犯容疑者)が総理大臣となりました。
 4月、厚生省と都道府県が選考した御祭神を「御祭神名票」に記入して、靖国神社に送りました。靖国神社は、この御祭神名票により、最初の戦犯の合祀を行ないました。
 1959(昭和34)年3月、千鳥ケ淵戦没者墓苑が、東京に完成しました。
 1963(昭和38)年12月、賀屋興宣(東条内閣の蔵相。A級戦犯無期)が池田勇人内閣の法務大臣となりました。
 1966(昭和41)年2月、厚生省より、A級戦犯の御祭神名票が靖国神社に送られてきました。靖国神社法案が国会に提出されるという政治的な背景もあって、すぐには合祀されませんでした。
 1969(昭和44)年6月、自民党は、儀式・行事の経費を国費に、つまり、靖国神社を国家管理にするという靖国神社法案を国会に提出しまたが、廃案になりました。
 (1973(昭和48)年4月までに合わせて5回提出、いずれも廃案となっています)
 1969(昭和44)年11月、神道政治連盟が発足しました。
 1972(昭和47)年10月、周恩来首相は、日本への賠償請求の放棄をした時、「あの戦争の責任は日本の一握りの軍国主義者にあり、一般の善良なる日本人民は、中国人民と同様、一握りの軍国主義者の策謀した戦争に駆り出された犠牲者である」と説明して、中国国民を納得させたといいます。
 1974(昭和49)年、靖国神社法案は、衆議院で採決されましたが、参議院で廃案とされました。
 1975(昭和50)年4月、三木武夫首相は、初めて靖国神社に参拝した時、私的を強調しました。
 1975(昭和50)年8月、昭和天皇は、靖国神社に参拝しました。これが天皇として最後の参拝になります。平成天皇は、靖国神社には参拝していません
 1978(昭和53)年4月、福田赳夫首相は、内閣総理大臣と記帳し、玉ぐし料は私費で参拝しました。
 10月、安倍晋太郎官房長官は、参院で、「警備上の都合で、私人としての行動の際にも公用車を使用している。記帳に肩書を付すことも慣例として用いられている」と答弁しました。
 10月、靖国神社は、A級戦犯14人は、密かに、昭和受難者として合祀しました。靖国神社は、援護法改正で戦犯刑死者も復権したことを理由にしましたが、厚生省は復権とは関係ないと言っています。また靖国神社は、A級戦犯を合祀して理由として、サンフランシスコ平和条約第11条の受諾の意味は、敗戦国としてやむなく刑の執行を約束したにすぎず、東京裁判そのものを認めているわけではない。だから、彼らは戦犯ではなく、他の戦死者と同じ、戦争による公務死であるとしています。
 1979(昭和54)年4月、朝日新聞がA級戦犯合祀を取り上げ、明らかとなりました。
 1980(昭和55)年3月、みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会が結成され、国会議員の集団参拝が始まりました。
 1982(昭和57)年11月、中曽根康弘(元海軍主計少佐)が総理大臣となりました。
 1979(昭和54)年4月、靖国神社がA級戦犯14人を合祀したことが明らかとなって、最初に大平正芳首相が靖国神社に参拝しました。この時は、中国からの抗議はありませんでした。
 1980(昭和55)年11月、宮沢喜一官房長官は、衆院で、「総理大臣が国務大臣の資格で参拝することは憲法20条との関係で違憲の疑いを否定できない」と答弁しました。
 1984(昭和59)年8月、中曽根康弘首相は、藤波孝生官房長官のもとに私的懇談会である閣僚の靖国神社参拝問題に関する懇談会を設置しました。
 8月13日、戦没者遺児132人は、靖国神社境内の能楽堂で公式参拝を祈願する断食に入りました。
 8月15日、藤波官房長官は、参拝のあと、遺児たちの前で中曽根首相の公式参拝実現を示唆し、50時間の断食は終わりました。
 8月15日、武道館での全国戦没者追悼式に参列した後、中曽根首相は、戦後初の公式参拝を行いました。ただ、憲法違反との批判を避けるために、お祓いも受けず、二拝二拍手一拝の拍手もせず、本殿で黙祷・一礼し、玉串と榊の奉奠の代わりに、供花代の名目で3万円を公費から支出しました。この参拝に対し、松平永芳靖国神社宮司は「無礼・非礼のきわみというほかありません」と非難しました。
 1985(昭和60)年8月15日、中曽根康弘首相は、靖国神社に公式参拝しました。
 8月15日、中国の人民日報は、「靖国神社は、これまでの侵略戦争における東條英機を含む1000人以上の(戦争)犯罪人を祀っているのだから、政府の公職にある者が参拝することは、日本軍国主義による侵略戦争の害を深く受けたアジアの近隣各国と日本人民の感情を傷つけるものだ」と報道しました。
 9月19日、中曽根康弘首相は、「靖国神社の秋の例大祭参拝を見送る」と発表しました。
 9月20日、中国は、周恩来首相の中国国民への説明と矛盾するとして、首相の参拝に抗議しました。
 12月4日、日本国際貿易促進協会訪中団長として中国を訪れていた桜内義雄前外相は、呉学謙中国外相と北京で会談しました。その後、桜内氏は、記者会見で、「靖国神社へのA級戦犯合祀は、戦犯を認めたサンフランシスコ平和条約第11条からみて問題がある」と述べ、「日本遺族会が7年前に目立たない形で戦犯合祀した。もし、戦犯合祀が当時表立って行われていれば、平和条約11条を指摘する政治家がいて、合祀は行われなかっただろう」と語りました。
 12月27日、章曙駐日中国大使は、日本記者クラブで講演して、「A級戦犯合祀との関連でかつての戦争をいかに正しく認識し、アジア諸国の人民の感情を傷つけないようにするか。この問題さえ解決されるなら(靖国問題の)解決策を見いだすことは決して難しくない」と語りました。
 1986(昭和61)年8月14日、後藤田正晴官房長官は、「首相は、昨年8月15日に靖国神社を公式参拝した。しかし靖国神社がA級戦犯を合祀していること等もあって、近隣諸国の国民の間に批判を生み、わが国の平和友好への決意に対する誤解と不信さえ生まれる恐れがある。わが国が、国際社会の平和と繁栄のために重い責務を担うべき立場にあることを考えれば、近隣諸国の国民感情にも適切に配慮しなければならない。政府としては、諸般の事情を総合的に考慮し、慎重かつ自主的に検討した結果、明8月15日には、首相の靖国神社への公式参拝は差し控えることとした」との談話を発表しました。その結果、公式参拝は見送られ、以後、8月15日以外に私的参拝することが慣例となりました。
 9月3日、中曽根康弘首相は、「靖国公式参拝はA級戦犯をほめたたえることになる」と語りました。
 9月16日、中曽根康弘首相は、「太平洋戦争は間違った戦争であり、中国に対し侵略の事実あった」と発言しました。
 9月18日、中曽根康弘首相は、衆院内閣委員会で、「極東国際軍事裁判については、我が国は過去においてアジアの国々を中心とする多数の人々に多大な苦痛と損害を与えたことを深く自覚し、このようなことを二度と繰り返してはならないとの反省と決意の上に立って、平和国家としての道を今歩んでおるわけであります。そして、先ほど申し上げましたように、サンフランシスコ平和条約第11条によって極東国際軍事裁判所の裁判を受諾しております」と答弁しました。
 1987(昭和62)年3月、盛岡地裁は、靖国神社にささげる玉ぐし料の公費支出・天皇や首相らに靖国神社への公式参拝を求めた県議会の決議に関する岩手靖国訴訟に対して、合憲の判決を下しました。
 1990(平成2)年7月、政教分離に違反すると非難する声があり、厚労省は、靖国神社への閲覧を中止しました。
10  1991(平成3)年9月、仙台高裁判決は、岩手靖国訴訟に対して、「天皇、首相の公式参拝は、目的が宗教的意義を持ち、特定の宗教への関心を呼び起こす行為。憲法の政教分離原則に照らし、相当とされる限度を超えるものと判断せざるをえない」と違憲判断を下しました。県が上告しましたが、最高裁はこれを却下したので、この裁判は、違憲判断で確定しました。
 1992(平成4)年2月、福岡高裁は、「首相が公式参拝を繰り返すならばそれは、靖国神社への援助・助長・促進となり違憲となる」と指摘しました。
 4月、中曽根康弘首相は、参拝を中止した理由を「この参拝が中国の内部の権力闘争に援用され、特定政治家の失脚につながる危険があるという情報を聞き、日中友好を維持するために参拝は行わなかった」と語りました。平沼赳夫氏も「我が国にとって最大の脅威はソ連であって、我が国の平和を確保するためには何としてでもソ連を封じ込めておかねばならない。そのためには中国が1枚岩で安定していることが絶対条件で、ケ小平体制を危うくすることはどうしてもしてはならないとの考えで、敢えて中止に踏み切った」と書いています。
 7月、大阪高裁は、「首相の公式参拝は一般人に与える効果・影響・社会通念から考えると宗教的活動に該当し、違憲の疑いが強い」と判示しました。
 1996(平成8)年7月、橋本龍太郎首相は、誕生日に私的に参拝しました。参拝後、橋本首相は「いとこはあそこに帰ってくると言って出撃した。大祭とか終戦記念日は避けて、誕生日という私的な日を選んだ」と説明しました。しかし、中国政府が遺憾の意を表明したことで、以後の参拝を見送りました。
 1999(平成11)年8月、野中広務官房長官は記者会見で、「A級戦犯を分祀し、靖国が宗教法人格を外して純粋な特殊法人として国家の犠牲になった人々を国家の責任においてお祀りし、国民全体が慰霊を行い、各国首脳に献花してもらえる環境を作るべきではないか」と語りました。
 2000(平成12)年7月、自民党の靖国問題に関する懇談会が発足しました。
 2001(平成13)年5月、小泉純一郎首相は、国会で、「あえて公式参拝として行うかどうかは、戦没者の遺族の思いや近隣諸国の国民感情などを総合的に考慮し、慎重かつ自主的に検討して判断したい」「犠牲となった戦没者に敬意と感謝の誠をささげる思いに変わりはなく、その思いを込めて個人として参拝するつもりだ」答弁しました。
 6月27日、東京新聞は、「A級戦犯を祭る靖国神社に日本の首相が参拝するのである。中国側の反発は当然であり、賠償放棄を納得した中国人民の感情を逆なでするものであるといわねばならない」と報道しました。
 8月13日、小泉純一郎首相は、橋本龍太郎首相以来5年ぶりに靖国神社に参拝しました。
 その後、小泉首相は、毎年のように靖国神社に参拝しています。その結果、日中間・日韓間の首脳会談が断絶状態になっています。
 2006年5月9日、経済同友会は、小泉首相の靖国神社参拝に再考を促すことなどを盛り込んだ「今後の日中関係への提言」を発表しました。
 2006年5月12日、日本遺族会会長の古賀誠元自民党幹事長は9月の自民党総裁選に向けた自らの政策提言で、靖国神社に合祀されているA級戦犯の「分祀の検討」を盛り込む意向を固めました。
 この項は、『近代日本総合年表』などを参考にしました。
靖国神社をめぐる戦後
 靖国神社は、現在は宗教法人となってり、個人として参拝することには、全く問題ありません。しかし、選挙で参拝を公約した場合は、政教分離を決めた憲法に違反することは明白です。
 植民地だった韓国や侵略を受けた中国は、軍人も・日本人の被害者で、戦争指導者の責任を追及することで、韓国人や中国人を納得させてきた歴史があります。戦争指導者を合祀している靖国神社に参拝することは、韓国や中国の指導者への裏切り行為でもあります。
 以前は、タカ派といわれた石原慎太郎氏や渡辺恒雄氏らも同じ視線で靖国参拝に批判的でした。
 最近、有力な経済団体や日本遺族会会長の古賀誠氏らも、別な施設や分祀の提案をするようになりました。柳田国男の主張に「いやだと言われていることを無理にすることもない」というのがあります。
 下記の表は、1975年〜2005年までの歴代首相の靖国参拝記録です。
75 76 77 78 79 80 81 82 83 84 85 86 96 97 01 02 03 04 05
1月                                  
4月                    
8月                      
10月                        
 靖国神社をはじめ、東条英機らを戦犯でないと主張する人は共通して「日本はサンフランシスコ講和条約の11条に関しては、判決を受け入れたので、裁判を受諾したのではない」を根拠に挙げます。
 サンフランシスコ講和条約第十一条(戦争犯罪)の解釈をめぐって、論議があります。
(1)「日本国は、極東国際軍事裁判所並びに日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷の裁判を受諾し、且つ、日本国で拘禁されている日本国民にこれらの法廷が課した刑を執行するものとする。これらの拘禁されている者を赦免し、減刑し、及び仮出獄させる権限は、各事件について刑を課した一又は二以上の政府の決定及び日本国の勧告に基くの外、行使することができない。極東国際軍事裁判所が刑を宣告した者については、この権限は、裁判所に代表者を出した政府の過半数の決定及び日本国の勧告に基くの外、行使することができない」
(2)「Japan accepts the judgments of the International Military Tribunal for the Far East and of other Allied War Crimes Courts both within and outside Japan,and will carry out the sentences imposed thereby upon Japanese nationals imprisoned in Japan」
 日本文を読んで、「東京裁判を受諾したということは、A級戦犯を認めたことだから、A級戦犯合祀する靖国神社に参拝をするのは、国際法に違反する」と主張する人がいます。
 英文を読んだ人は、「the judgments of the International Military Tribunal」という部分の「judgments」を「裁判」でなく「判決」と誤訳しているとして、「刑期の執行を受諾した」と解釈する人や、「判決を受け入れたが、東京裁判そのものを受け入れたわけではない」と解釈する人がいます。
 戦勝国が戦敗国を一方的に裁いたのであって、「日本には戦犯はいない」という人までいます。
 判決を裁判と誤訳したとしても、裁判の結果が判決なので、同じ意味です。「判決を受け入れたが、東京裁判そのものを受け入れたわけではない」というのは、詭弁です。
 「judgments」を「刑期の執行を受諾した」と翻訳すべきだという人は、原文の「accepts…and」という記述をどう解釈しているのでしょうか。都合の良いように解釈しているとしか言えません。
 日本と48カ国は、サンフランシスコ平和条約に調印し、戦争状態を終結させたのです。11条だけを取り上げることの不自然さを感じます。また、日本の戦後は、この時から始まったのです。この事実を否定することは出来ません。
 小泉首相は、国会で「A級戦犯については重大な戦争犯罪を犯しているという認識か」という質問に対して、「裁判は受諾している」「二度と戦争を犯してはならない」「戦争犯罪人であるというと認識をしている」と答弁しています。
 私は、アメリカは「真珠湾攻撃」を暗号で解読していたと思っています。しかし、日本軍の奇襲攻撃によって多大の被害を受けた一般のアメリカ国民は、「リメンバーパールハーバー」を利用されて、太平洋戦争に参加しました。そんなアメリカ人に「あれは正義の攻撃だった」といっても、納得してもらえるのでしょうか。
 日本の侵略がなくても、中国人や朝鮮人の犠牲者は存在したというのでしょうか。
 追加記事です(2006年5月)。上記4の記述は、アップし時のものです。「judgment」でなくて複数の「judgments」が気になっていました。
 そこで英英辞典を引いてみると、judgmentには判決だけでなく、裁判もありました。裁判に複数とついていることを調べると、東京裁判は、東京だけでなく、B・C級戦犯を裁くために、アジア各地で行われました。つまり戦犯を裁いた複数の裁判の総称をjudgmentsと複数で表現していることが分かりました。
 日本人を多数死亡させた、日本の庶民の財産を焼亡させた戦争指導者を裁くことが出来なかった日本・日本人。A級戦犯を総理大臣にしたり、大臣に復活させた日本・日本人。このレールを引いたアメリカ。これを認めた日本。今になって、「大東亜戦争は自衛のための戦争だった」とか「だれも悪いものはいない」とか、「東京裁判は間違いだった」とかとか言っても、国内の一部で通用しても、国際的には通用しない議論と言えます。
 私たちの社会でも、管理職・指導者(政治家・官僚)に高い賃金と名誉が与えられているのは、従業員(日本)の命運を左右するような決定や実行をする責任と、その結果に対する責任を負わされているからです。これを結果責任といいます。私の持論は、「結果責任を回避するなら、管理職・指導者になるな」です。
 最近、国内でしか通用しない政治家・学者・評論家が、マス=コミを賑わわせるようになってきました。
 読売新聞は、2005年6月4日付の社説で「『A級戦犯』が合祀されている靖国神社に、(首相は)参拝すべきではない」と論じました。同社の渡辺恒雄主筆は、「(靖国神社は)殺した人間と被害者とを区別しなければいかん」と語り、A級戦犯と一般の戦没者を同列におく靖国神社を批判しました。
 都知事の石原慎太郎氏は、2005年9月5日、「私はあの極東裁判は歴史的にも法的にも正当性を欠いていると思う。戦争遂行者の責任、その検証と追及を東京裁判の不当性、非合法を理由に何もかもチャラにしてはならない。日本人自らの手による責任の自覚と責任の追及を始まりとしないかぎり、そして、それを全くしてこなかったことの意味を深く問い返さないかぎり、真の歴史の教訓を汲んだことにはならない」(「産経新聞」「正論」より)
 以上は、朝日新聞2006年5月1日号より抜粋しました。

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