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エピソード

178_03

文明開化X(宗教界の動き、廃仏毀釈)
 政治・経済・教育の近代化が進められている反面、国民に対する統制は強化されていきました。
 そのバックボーンは、絶対主義的天皇制国家と神道国教化で、国民のそれへの従属です。
 1868(慶応4)年1月15日、明治新政府は、王政復古(天皇親政)による新政府の成立を列強に通告しました。
 3月14日、明治天皇は、神々に、五箇条の御誓文を誓約しました。
 3月15日、明治新政府は、五榜の掲示で、五倫の道(君臣・父子・夫婦・長幼・朋友)など、江戸時代の民衆統制政策を継承することを宣言しました。
 3月17日、神祗事務局は、神主を兼務している僧侶に対して、還俗するよう命じました。
 3月28日、新政府は、王政復古・祭政一致から神道国教化の方針を採り、その純化のため神仏混淆を禁止することを決定しました。そこで、神祗事務局は、国学者福羽美静が起草した神仏判然令神仏分離令)を公布しました。
その内容は、次の通りです。
「一、中古以来、其権限、或いは牛頭天王の類、其の他、仏語を以って神号に相ひ称へ候神社。少なからず候、何れも其の神社の由緒委細に書き付け、早早、申し出づべく候事、
一、仏像を以って神体と致し候神社は、以来相ひ改め申すべく候事」(神仏判然の沙汰)
 1868(慶応4)年4月、その結果、廃仏毀釈の運動がおこりました。(「社人ども、俄かに威権を得、陽に御趣意と称し、実は私憤をはらし候様の所業も出来候」)。「廃仏」とは、像・寺院などをすること、「毀釈」とは、y・釈迦の教えを損(こわす)することです。
(1)高知藩では、596ケ寺の内451ケ寺(76%)が廃寺の憂き目にあっています。
(2)松本藩では、松本市内だけでも24カ寺中21カ寺が廃寺(後に10カ寺再興)となっている。
(3)富山藩は、一宗1カ寺という廃寺政策を強行しました。その結果、1636あった寺院が6ケ寺になりました。
(4)伊勢神宮領では、196カ寺が廃されました。
 1868(慶応4)年閨4月、政体書が公布され、神祗官が復興されました。
 1872(明治5)年4月、教部省管轄の教導職を設置しました。神職・僧侶を教導職として神・仏合同の教化運動を起こしましたが、この運動も、仏教側から神仏分離の激しい反対があったので失敗しました。
 1874(明治7)年1月、明治天皇は、招魂社に初めて参拝しました。
 1877(明治10)年1月、教部省も廃止されました。
政治が心の問題(宗教)に介入した悲劇、介入する悲劇
 神仏判然(分離)令という法律によって、狂った「焚書・坑儒」ならぬ廃仏毀釈が、日本中を襲いました。
 上記以外でも、次のような話が残っています。
(1)明治4年の「寺領上知の令」によって、五重塔が売り出されたり、仏像や寺宝を持ち出されたりしました。
(2)神仏混清の羽前羽黒権現・讃岐金毘羅大権現などは、神社と定められて、仏堂・仏像・仏具が廃棄されました。
(3)大津の日吉山王権現は、神官120人により、仏堂・仏像・仏具が廃棄させられ、社名も日吉神社となりました。
(4)鳥羽・伏見の戦いのとき、浄土真宗の総本山である東本願寺と西本願寺は、新政府軍に膨大な献金をしました。その結果、神仏分離令や寺領上知の令の影響を受けませんでした。
 私の住んでいる兵庫県は、播磨・但馬・淡路・摂津の一部・丹波の一部で構成されています。播磨の中心が姫路です。江戸時代最後の大老が姫路藩の酒井忠績だったこともあって、薩長新政府によって、厳しい状況に追いやられます。姫路城の内堀や中堀が破壊され、そこに、軍隊を派遣されました。
 こうした仕打ちを知ってか、播磨では、薩長新政府の政策には、非協力でした。例えば、廃仏毀釈についても、「灘の喧嘩祭り」で有名な松原神社の隣が、八正寺というお寺です。「継ぎ毛獅子」で有名な大塩天満宮の隣が、明泉寺です。「提灯割神事」で有名な魚吹神社の隣が、円勝寺です。
 政治が、人間の心に介入しました。仏教のルーツは、なるほどインドです。しかし、中国・朝鮮を経て、日本に来たときには、東アジアの仏教に変質しており、日本に土着したときには、日本の民間信仰と混交して、日本人の仏教になっています。例えば「お盆」がその例です。
 歴史のある根強い信仰が、新政府の政策を跳ね除けたといえます。
 最近、お寺さんの、こんな文章に出合いました。 
 「”葬式仏教”という言葉は、寺院や僧侶を批判・侮蔑する言葉になっています。お経をおがんでは高いお布施をもらい、特権階級のように振舞う僧侶への不信感の表明でしょう。 しかし、私たちは好き好んでこうなったのではない」
 「明治政府は、神道を国教化して、寺院の土地を召し上げ仏像の首をはねて仏教を徹底的に弾圧しました」
 「江戸時代まで、お寺は”役所(住民登録)”であり、社会の尊敬を集める”知識人”であり、困窮した人達を救済する
”救済者”でありました。葬式の仕事はそのほんの一部でした。
 「土地や田畑の多くを失ったお寺は、封建制の遺物である”檀家制度”や”信者組織”に道を見出し、”死者儀礼・祖先供養”と”現世利益・ご祈祷”を商品化して”おがんでなんぼ”の生き残り作戦に出たのです」
 「敗戦後占領軍が行った”農地解放”で日本の仏教寺院の大半は”経済的自立”の手段を失いました。その上、”政教分離”で公的な場所から締め出された僧侶に世間の関心や信頼が集まるわけがありません」
 「アメリカの占領政策のねらい通り、今ほとんどの仏教寺院は宗教活動に専念できる状態ではありません。伝道者であるべき僧侶がしょっちゅう金の心配ばかりしているのですから。”戒名料問題””葬式仏教批判”はわかりますが、しかし私たちがこの歴史的な重い現実を背負っていることをまずご理解ください」
 まず、このお寺さんは、世俗と出家の違いを理解していません。出家するとは、世俗の全てとの縁を切る、凡人には越すに越せない世界なのです。世襲制の坊主には、この覚悟が足りません。
 このお寺さんは、江戸時代の僧侶を高い評価していますが、江戸時代から、「寺請制度」で僧侶の堕落が始まったことを理解していません。個人の信仰が家の信仰になってしまったのです。この段階で、個人の魂の救済という真の宗教はなくなり、葬式仏教に成り下がったのです。今の僧侶は、人の死を担保に、江戸時代の惰性で、安穏と暮らしているのです。政治に介入される前の宗教は、もっと庶民に積極的でした。
 真の伝道者になるには、世俗を捨て、世俗の人が体験できない心身の修行をするべきです。自ずと信頼を得るでしょう。
 私は山田洋次監督の『フーテンの寅さん』が大好きで、48作全て持っています。
 葛飾柴又にあるお寺の住職は「ゴゼン様」と呼ばれています。トラヤでいいことがあっても「ゴゼン様」はやって来て、お祝いをしたり、言ったりします。不幸があると、見舞いに来たり、相談にやって来ます。
 私の小さい時の「ゴエンさん」(住職)の記憶も、同じです。「出家とは世俗を超えたところにある」。だから、癒されたり、教えを受けたりするのです。
 「ゴゼン様」や「ゴエンさん」には、映画や記憶の中でしか会えないのでしょうか。

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