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エピソード

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初期の国際問題T(岩倉具視遣欧使節、日清修好条規、征台の役、琉球処分)
 殖産興業・富国強兵をスローガンとする新政府は、江戸末期に結んだ日米和親条約日米修好通商条約不平等条項に悩まされます。
 これらの諸条約は、日米修好通商条約第13条によると「1872(明治5)年7月4日以降に改正交渉が可能」となっていたので、大久保利通らは、各国首脳への表敬訪問・条約改正への打診・西洋文明の視察のため、岩倉具視を団長とする使節団を派遣することにしました。
 1871(明治4)年7月14日、西郷隆盛木戸孝允大隈重信板垣退助が参議となりました。
 7月29日、日清修好条規・通商章程を調印しました。
(1)日本側代表は伊達宗城(54歳)、清国代表は李鴻章(49歳)でした。
(2)日本が外国と結んだ最初の対等条約(相互開港・相互領事裁判権など)でした。
(3)しかし、条規第2条(「若シ他国ヨリ不公及ヒ軽藐スル事有ル時、互ニ相助ケル」)が問題化しました。この相互援助規定は欧米諸国に対する攻守同盟ではないかという問題でした。日本は修正を要求しましたが、李鴻章は応じませんでした。
 11月、台風で宮古島の漁船が牡丹社台湾最南部の恒春半島)に漂着しました。当時、牡丹社は、原住民と移住漢人とが境界争いを繰り返す危険地帯といわれていました。そこに上陸した66人のうち54人が、その混乱に乗じて、原住民に殺害されました。清朝政府は、保護した12人を日本人として沖縄に送り返しました。もともと琉球は、江戸幕府と清朝政府との両属関係にあったのです。これを琉球漁民殺害事件牡丹社事件)といいます。
 明治新政府は、台湾を領有する清朝政府に善処をもとめましたが、清朝政府は原住民を「化外の民」として応じませんでした。
 1871(明治4)年11月、右大臣岩倉具視を全権大使とする遣欧使節が、横浜を出港しました。
 大型使節団の派遣には、背景がありました。最初は、肥前の大隈重信ら数人の使節の予定でしたが、薩摩の大久保利通は、外交の主導権を失いたくないという気持ちと留守中に木戸孝允の権力が伸びることを恐れて、強引な工作をしました。まず、長州の木戸孝允を抱き込みました。それを察知した木戸孝允は、腹心の伊藤博文を同行させました。
(1)全権副使は、参議木戸孝允・大蔵卿大久保利通・工部大輔伊藤博文・外務少輔山口尚芳の4人でした。
(2)随行は、総勢50人にのぼりました。留学生の津田梅子らも同乗しました。
 1872(明治5)年1月、岩倉遣欧使節は、ワシントンに到着して、グラント大統領と会見しました。この時、「キリスト教を邪教扱いしている国とは交渉したくない」という発言が出ました。
 何度も船旅を経験している伊藤博文に対して、初体験の木戸孝允は反感を感ずるなどの対立も生まれました。
 2月12日、アメリカは、「万国公法」により天皇の委任状を求めました。うかつにも持参していなかったので、遣欧副使大久保利通と伊藤博文は、全権委任状を得るため、急いで、ワシントンを出港しました。
 3月24日、遣欧副使大久保利通と伊藤博文が帰国しました。
 5月17日、遣欧副使大久保利通と伊藤博文は、天皇の全権委任状を得て、横浜を出港しました。
 6月17日、遣欧副使大久保利通と伊藤博文は、ワシントンにつきました。この船旅で、大久保と伊藤は接近するようになりました。
 6月19日、「万国公法」に不慣れな岩倉大使は、条約改正の交渉中止をアメリカ国務長官(外相)のフィシュに通告しました。この過程を通じて、大久保利通と木戸孝允は、口も利かないほど対立したといいます。ともかく、交渉は不調に終わったが、日本の近代化の遅れを痛感させられ、文物・制度の視察にしぼって、英・仏・白・蘭・独・露・丁・瑞典・伊・襖・瑞西の11カ国を歴訪することに、目的を変更しました。
 1872(明治5)年9月、明治新政府は、琉球藩を設置し、国王尚泰を藩主・華族としました。
 1873(明治6)年4月、外務卿副島種臣は、日清修好条規を批准しました。
(1)日本には、行き詰っていた朝鮮問題の打開のために、急ぐ理由がありました。
(2)清朝側には、日本を「臣服朝貢の国」として、強硬な対等条約反対論がありましたが、曽国藩と李鴻章らの主張によって反対論を抑えました。
 1874(明治7)年2月、元参議江藤新平らの佐賀の乱が勃発する状況の中で、閣議は、参議大久保利通・参議大隈重信が提案した台湾征討を決定しました。
 4月4日、明治新政府は、陸軍中将西郷従道西郷隆盛の16歳下の弟)を台湾蕃地事務都督として、兵3600を率いて征討することを命じました。
 4月18日、参議木戸孝允は、征台の役に不満をもち、辞表を提出しました。
 4月19日、明治新政府は、台湾征討を中止し、西郷従道に出発延期を命じました。
 5月4日、参議大久保利通・参議大隈重信は、長崎で、西郷従道と会ったが、西郷従道の強硬意見をいれて、征討実施を決定しました。この時、兵隊や弾薬などの輸送を請け負ったのが、岩崎弥太郎三菱会社です、
 7月、西郷従道軍は、原住民地区の牡丹社をほぼ制圧しましたが、マラリアなどにかかり、戦死12人、病死561人を数えました。
 9月、全権大使大久保利通は、北京で、清朝の恭親王と台湾問題を交渉を開始しました。
 10月25日、決裂直前に、清朝の李鴻章から依頼された駐清イギリス公使のウェードは、調停案を全権大使大久保利通に示しました。
 10月31日、清朝は、日本の行動を義挙と認め、被害漁民への賠償金50万両(テール)を支払うという互換条款を締結しました。
 1879(明治12)年4月、2個中隊を派遣して、首里城を接収し、琉球藩を廃し、沖縄県としました。琉球の日中両属関係を清算したことで、このことを琉球処分といいます。
 5月、清朝公使は、琉球の廃藩置県は承認しがたいと抗議しました。外務卿の寺島宗則は、内政上の都合によると回答しました。
先進地に学ぶ遣欧使節、初めての海外出兵、外交とは
 明治維新を成し遂げた日本のトップが、雁首を揃えて、海外視察する様は、外国人に何と写ったでしょうか。
 日本の指導者が、明治4年の段階で、恥ずかしがらずに、欧米に出かけるという姿は、見習うべきことだと思います。
自分の立場を知り、相手を知れば、今、何を為すべきかが分かります。
 大使の岩倉具視は、アメリカに上陸して、今までかたくなに拒否していたチョンマゲを切りました。
 プロシャのビスマルク首相は、「プロシャもかっては日本と同じ弱小国であったが、富国強兵策の結果、強大国になりました」といわれ、その後、軍隊も憲法もプロシャ式に改めるきっかけになりました。
 当時のお金で100万円を使い「条約は結びそこない、金は捨て、世間へたいし(大使)、なんと言わくら(岩倉)」と皮肉られても、外交より内治を重視する方針は、日本の発展の基礎固めとなりました。
 大久保利通は、イギリスの黒煙が天に登る製造業を見て驚き、石炭・鉄以外の原料は輸入して「何方へ参り候ても地上に産する一物もなし」と工業国の有様を西郷隆盛の手紙しています。
 さらに、大久保利通は「英米仏は開花登ること数層にして及ばざる事万々なり。依てプロシャの国には必ず標準たるべき事多からん」とも手紙しています。
 明治で最初の海外出兵となった台湾征討は、不平士族を弾圧するために準備されたように思えます。しかし、佐賀の乱が鎮圧されると、大久保らは中止を勧告します。しかし、西郷従道は、どのように言ったかは分かりませんが、断固出兵を主張し、大久保らの承諾を得ます。
 富国強兵のリハーサルとなった台湾征討は、琉球の日本化と、莫大な賠償金を獲得しました。明治新政府は、ビスマルクが言ったように、富国強兵は金(大国)になることを体験しました。
 同時に、指揮官が、寄せ集めの4000の軍をコントロール出来ることも学びました。
 明治6年、イギリス公使のパ−クスは、明治新政府に対して、キリシタン弾圧を厳しく攻撃しました。それに対して、三条実美・岩倉具視・木戸孝允が、その対応に困惑していると、オランダ人のフルベッキに師事したことがある大隈重信は、「西洋にも迫害の歴史事実がある」と事実を交えて反撃したので、パークスも大隈重信を見直したということです。
 外交には、相手が理解できない主義主張を説いても、力がありません。相手と同じ土俵で相撲をするべきです。そのために必要なことは、相手の文化・歴史を知ることです。このことを、大隈重信が教えています。

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