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エピソード

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初期の国際問題U(征韓論争、江華島事件、日朝修好条規)
 一番人間関係が難しいのが、家族です。
 他人の場合、「また喧嘩をやっとるわい」と傍観できます。「他人の喧嘩は大きいほど面白い」と言っておれます。
 しかし、家族は、否応なく、毎日顔を合わせます。出てきた問題はその都度解決しなくてはいけません。ある意味では修羅場です。それを乗り越えているからこそ、家族の絆は誰よりも強いのです。
 次に、トラブルを起こすのが、近所です。ゴミの問題、騒音の問題など日常的に利害がぶつかり合います。しかし、ある時は、我慢して見て見ぬ振りをし、またある時は助け合ったりするから、困ったときは「遠くの親籍より近くの他人」と言われるように、大きな力になるのです。
 外交でも、近くだから接する機会が多く、利害が対立するのです。それを克服することで、お互い力になるのです。
 1868(慶応4)年3月、明治新政府は、対馬藩主宗義達を通じて、朝鮮政府に、幕府の滅亡・新政府の成立を通告しました。
 朝鮮の執政である大院君(49歳)は、鎖国排他政策をしていたので、開国和親の日本に疑いを持ちました。そこで、江戸幕府と同じ使者である対馬藩主宗義達が、これまでと異なった文書の語句・印を使っていることを口実に、受け取りを拒否しました。
 1871(明治4)年11月、右大臣岩倉具視を全権大使とする遣欧使節が、横浜を出港しました。
 1872(明治4)年8月、遣欧副使大久保利通に「大きな改革と人事異動はしない」と約束させられた、留守を預かる参議西郷隆盛は、陸軍元帥となり、近衛都督を兼務しました。
 8月、留守政府は、学制を発布しました。
 9月、留守政府は、日本最初の鉄道を開通しました(東京新橋〜横浜間)。
 11月9日、留守政府は、太陽暦を採用しました。
 11月15日、留守政府は、国立銀行条例を公布しました。
 11月26日、岩倉大使は、フランス大統領と謁見しました。
 11月28日、留守政府は、徴兵の詔書及び太政官告諭を発しました。
 1873(明治6)年5月7日、大蔵省の実権を握る大蔵大輔井上馨は、予算問題で各省と衝突し辞職を表明しました。兵部大輔山県有朋は、御用商人とのスキャンダルを追及されるなど窮地に陥りました。
 5月10日、元帥西郷隆盛(47歳)は、陸軍大将となり、国内をまとめる覚悟をしました。
 5月26日、遣欧副使大久保利通は、留守政府のことが気になり、帰国しました。
 5月末、明治新政府は、朝鮮との自由貿易をとなえ、三井組の手代を釜山に派遣しました。これを知った大院君は、「近ごろ彼(日本人)の所為を見るに、無法の国というべし」という張り紙を、倭館の門前に張り出しました。
 7月23日、遣欧副使木戸孝允が帰国しました。
 7月28日、地租改正条例を布告しました。
 7月末、明治新政府は、朝鮮に派遣されていた外務省役人から、大院君の「無法の国」という報告を受けました。板垣退助は、これを「無礼だ」と称して、兵を率いて釜山に渡れと主張しました。西郷隆盛は、「”無礼”だけでは開戦の大義にはならない。陸軍大将の自分が使節として行けば、朝鮮は、必ず危害を加えるだろう。その時が征韓のチャンスである」と説きました。つまり、一度死んだことのある西郷隆盛は、自分の命と交換に、征韓の大義名分と国論統一を図ろうとしたのです。どこまでも恐い存在といえます。
 8月17日、閣議は参議西郷隆盛の朝鮮派遣を内定しました。この時の太政大臣三条実美でした。参議は木戸孝允(長州)、西郷隆盛(薩摩)、板垣退助・後藤象二郎(土佐)、大隈重信・江藤新平大木喬任(肥前)でした。
 8月19日、大久保利通の意を汲んだ明治天皇は、「西郷を派遣するのはよいが、岩倉使節の帰国後に、さらに熟議してから正式に上奏するように」と念を押しました。
 9月、岩倉遣欧使節が帰国しました。
 10月8日、岩倉具視は、右大臣に就任しました。
 10月12日、西郷隆盛は、朝鮮使節の件が進捗していないことに腹を立て、太政大臣三条実美と右大臣岩倉具視に「不誠実だ」と厳重に抗議しました。そこで、三条実美と岩倉具視は西郷隆盛対策として、大久保利通を参議に呼び戻しました。
 10月13日、西郷隆盛に代わって使節になるべく、副島種臣が参議に迎えられました。
 10月14日、閣議の席上、西郷隆盛は、「朝鮮交渉は国政上の緊要事であり、速やかに実行に移すように」と求めました。板垣・後藤・江藤・副島がそれを支持しました。岩倉具視と大久保利通は、「内政を優先し、それによって外征をはかるだけの国力を養うことが先決である」と反論しました。これを大隈・大木が支持しました。木戸は欠席しました。数の上では、征韓派が優勢でしたが、結論は、翌日に持ち越されました。
 10月15日、西郷隆盛は、「言うべきことは言った」と始末書を太政大臣三条実美に出して、閣議は欠席しました。その日の閣議は、「西郷隆盛の朝鮮派遣」を正式に決定しました。
 10月17日、木戸孝允・大久保利通・大隈重信・大木喬任の諸参議は、西郷隆盛の朝鮮派遣を不満として、辞意を表明しました。太政大臣三条実美と右大臣岩倉具視も辞意を表明しました。しかし、慰留されました。
 10月18日、三条実美が急病となり、岩倉具視が太政大臣代理に就任しました。
 10月24日、明治天皇は、岩倉具視の奏上を受け入れ、「朝鮮遣使を無期延期する」という詔を発しました。西郷隆盛をこれを聞いて、参議・近衛都督を辞職しました。
 10月25日、後藤象二郎(36歳)・板垣退助(37歳)・江藤新平(40歳)・副島種臣(46歳)の諸参議は、辞表を提出しました。
 10月25日、伊藤博文(32歳)・寺島宗則(41歳)・勝海舟(51歳)は、新参議に迎えられました。
 1875(明治8)年4月、明治新政府の外務官僚の一部は、朝鮮王室の内紛に介入して、軍艦を派遣し、朝鮮を屈服させる糸口を作ろうという意見が出てきました。
 5月、朝鮮訪問中の外務少丞森山茂の交渉援助と朝鮮威嚇のため、軍艦雲揚号が釜山に入港しました。示威運動を目的に、戦技訓練を行いました。
 9月、軍艦雲揚号は、朝鮮西海岸を北上し、沿岸の測量を行いながら、江華島付近に停泊しました。さらに、飲料水補給の名目で、ボートに分乗して漢口を遡り始めました。朝鮮の首都京城近くだったので、朝鮮の守備兵が雲揚号を砲撃しました。雲揚号も応戦し、砲台を破壊し、長崎に帰港しました。
 12月9日、明治新政府は、開戦も辞せずという方針を堅持しながら、陸軍中将兼参議黒田清隆を特命全権弁理大臣とし、江華島事件談判のため、軍艦6隻と共に、朝鮮に派遣しました。
 12月13日、日本陸戦隊は、釜山で朝鮮軍と衝突しました。
 1876(明治9)年1月6日、元老院議員井上馨と副大臣に任命し、朝鮮に派遣しました。
 1月19日、黒田清隆特命全権弁理大臣は、陸兵増派を要請しました。そこで、陸軍卿山県有朋が下関に派遣されました。
 2月、黒田清隆・井上馨正副大臣は、江華府で、日朝修好条規(江華条約)に調印しました。
(1)日本が結んだ最初の不平等条約(領事裁判権・関税免除)です。
(2)釜山・仁川・元山の開港(朝鮮の開国)
(3)清国の朝鮮における宗主権の否定
西郷隆盛は非征韓派?、欧米にやられたことを、アジアでやり返す日本外交
 一部の学者は、西郷隆盛が、「使節は非武装、礼装で交渉すべき」と発言した点を取り上げ、征韓論から一番離れていたと主張します。軍服で行って殺されれば、「やっぱり」となります。礼装で行って殺されるから、大義の戦争に持ち込めるのです。
 また、西郷隆盛が板垣退助のあてた手紙があります。「使節は必ず暴殺されますから開戦のきっかけになるはずです。だから私を派遣することに協力してください。私も死ぬくらいのことはできます」というものです。これは、西郷隆盛の真意ではなく、板垣退助を説得するために意図的に書かれた手紙だとする人もいます。そして、副島種臣を押すグループは、肥前の3人に板垣退助ら土佐派を獲得すると、多数を占めるので、それを妨げるための手紙だというのです。
 何もこのような姑息な手段を使わなくても、西郷隆盛の真意は、板垣退助のような人物は理解しています。
 結果を見ても、西郷隆盛の派遣に反対したのは、大隈重信・大木喬任ら肥前派が2人も入っています。西郷隆盛が非征韓派なら、武断派の西郷隆盛でなく、外交では実績のある副島種臣を派遣する方がはるかに現実的です。
 どこにでもカリスマ西郷隆盛を美化しょうとする人は多々いるものです。「木(一部)を見て森(全体の流れ)を見ず」の論です。
 江華島事件の時、外務卿の寺島宗則は、駐日アメリカ公使のビンハムに「日本は対朝鮮交渉には、ペリルの平和的開国のやりかたにならう」と言って、抗議の余地を与えませんでした。
 不平等な内容の日朝修好条規を結んだ時、外務卿の寺島宗則は、駐日アメリカ公使のビンハムに「貴国のペリルが下田に来るがごときの所置なり」と語ったといいます。
 後日、アメリカ公使のビンハムは、黒田清隆に、『ペリー日本遠征記』を贈りました。
 まさに、日本が欧米列強にやられたことを、今度はアジアで日本がやり返すという感じです。
 日朝修好条規で、日本は、清国の朝鮮における宗主権の否定しまし、朝鮮の独立を保障しました。原文は「朝鮮は自主の邦にして」となっています。この事実を、最近の学者や政治家からすると、日本が朝鮮の独立に寄与したと自慢することでしょう。しかし、その後の経過を見ると、日本が朝鮮に進出しやすいようにしただけのことです。
 関税に関しても、免税の措置をとっています。これも高く評価する人がいるかもしれませんね。しかし、工業が進んでいない国にとっては、安価で大量の輸入品が入ってきて、自国の産業を滅ぼすことを意味しています。

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