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エピソード

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不平士族の反乱T(自由民権運動、板垣退助、佐賀の乱)
 新政府に不満をもつ江戸時代の武士が、各地で暴動をおこしました。その背景を考えてみました。
(1)自由主義とか個人主義というような近代化政策(西欧化政策)が急速に進展して、心身共に追いつけなくなったことが上げられます。
(2)幕藩体制のような地方分権化を採用する江戸時代では、地方有力者にも活躍の場が与えられていました。しかし中央集権化することで、「有司専制の藩閥政冶」と批判されるように、一部のグループにしか活躍の場が与えられなくなりました。
(3)幕藩体制が崩壊し、政治的に活躍する場がなくても、家禄とか身分とかいう特権が、唯一のプライドでした。しかし秩禄処分や士族の商法で財産・家計を失い、徴兵制で身分をも失いました。
 時代の変わり目では、時代の流れに取り残される人は常にいます。繰り返される悲劇は、今(2005年)もおきています。
 1869(明治2)年11月、兵権の中央集中を図って兵部省を設置した大村益次郎(46歳)は、京都木屋町で、萩藩士に襲撃され、死亡しました。
 1870(明治3)年1月、新政府の常備軍に選ばれなかった奇兵隊遊撃隊など諸隊の兵士1000人は山口(萩藩庁)を包囲しました。これを諸隊脱隊騒動といいます。旧藩主で知藩事毛利元徳は、鎮撫しますが、効果はありませんでした。
 2月、元奇兵隊幹部の木戸孝允は、新政府からの応援を断り、支藩の援助を求め、常備軍を率いて、出撃しました。
 2月10日、木戸孝允は、長府藩兵・清末藩兵と常備軍の一部を山陽道から東進させました。岩国藩兵・徳山藩兵を三田尻の近くへ進軍させました。木戸孝允は、800人の常備軍を率いて、小郡に進軍しました。木戸軍は、遊撃隊の待ち伏せを受け、後退します。そこへ、三田尻を越えた岩国藩兵・徳山藩兵が現われ、千切峠で、遊撃隊を敗北ささせて、山口に迫り、諸隊の背後に回ることに成功しました。
 長府藩兵・清末藩兵と長州藩兵一部も、脱退兵を敗走させます。
 2月11日、木戸孝允は、脱退兵が包囲していた山口を解放しました。常備軍の死者20人、負傷者64人。脱退兵側の死者60人、負傷者73人。その後、脱退騒動の首謀者ら133人が処刑されました。
 1871(明治4)年8月、新政府は散発廃刀の自由を認めました(「華士族の廃刀勝手たるべし」)。
 1873(明治6)年10月24日、明治天皇は、西郷隆盛の朝鮮遣使を無期延期と裁可しました。西郷隆盛は、参議を辞職しました。
 10月25日、副島種臣江藤新平後藤象二郎板垣退助は、参議を辞職しました。これが明治6年の政変です。
 1874(明治7)年1月12日、参議を辞職した板垣退助・後藤象二郎・江藤新平は、日本で最初の政党である愛国公党を結成しました。板垣退助らは、新政府に対して、古い武器である武力を捨て、新しい武器としての言論による戦いを採用しました。
 1月13日、郷里の不穏な動きを知った元参議(司法卿)の江藤新平は、板垣退助らの民撰議院設立建白書に署名した後、板垣退助の勧告を無視して、郷里の佐賀に帰りました。生ぬるい言論活動に限界を感じたといえます。同郷の副島種臣は、東京に残りました。
 1月14日、征韓派の高知県士族武市熊吉らは、右大臣の岩倉具視を、赤坂の喰違で襲撃して負傷させました。その後、武市熊吉ら7人は斬首されました。これを赤坂喰違の変といいます。
 1月17日、板垣退助・後藤象二郎・副島種臣・江藤新平ら8人は、民撰議院設立建白書を左院に提出しました。
 1月18日、板垣退助らは、『日新真事誌』にも掲載し、士族や有力農民・商人を中心にした国会の設立を主張し、明治新政府の有司専制を攻撃しました。
 2月1日、帰郷した江藤新平は、武器・弾薬を準備している佐賀征韓党(朝鮮出兵)と佐賀憂国党(封建復帰)を説得するうちに、逆に指導者に祭り上げられてしまいました。そして明治天皇の元侍従である島義勇らと、佐賀士族を率いて挙兵しました。軍資金は、銀行を襲撃して20万円を強奪しました。
 2月3日、加藤弘之(後の東大総長)は、「その前に教育が必要である」と民撰議院設立尚早論を『日新真事誌』に発表しました。大井憲太郎津田真道は、「開設こそ開明化の条件である」と即時設立論をを発表しました。この結果、自由民権運動が大いに盛り上がりました。
 2月4日、熊本鎮台は、少数の兵を率いて、佐賀県庁に入りました。
 2月14日、参議兼内務卿の大久保利通は、佐賀の乱鎮圧に出発しました。
 2月18日、これを見た江藤新平らは、佐賀県庁(佐賀城)に発砲して、熊本鎮台の指揮官を追い返し、県庁を占領しました。これを佐賀の乱といいます。江藤新平は、「自分が立てば、西郷隆盛も立つ」と信じていた節があります。
 2月23日、戦いの最中、江藤新平ら指導者は、戦線を離脱して、鹿児島に向かいました。西郷隆盛と組んで再挙を図る考えでした。西郷隆盛は、「早まったことをしましたな。おいどんは残念でごわす」と言って、ついに立ち上がらず、江藤新平の作戦は失敗しました。成功していれば、この離脱は、勇気ある撤退と評価されるでしょうが、失敗しては「敵前逃亡」といわれても仕方がないでしょう。
 3月1日、大久保利通率いる政府軍は、嘉彰親王(小松宮)を征討総督として佐賀県庁を奪回しました。
 4月7日、江藤新平らは、鹿児島から土佐の林有造を頼って逃げ落ちます。ここでも門前払いを受け、土佐甲浦で逮捕され、佐賀に送り返されました。
 4月8日、江藤新平・島義勇ら11人は、急遽設置した佐賀裁判所で、一編の申し開きも許されず、尋問をうけました。
 4月10日、板垣退助は、高知に立志社を創立しました。
 4月13日、江藤新平(41歳)・島義勇(53歳)ら11人は、判決(「除族ノ上、梟首申シ付ル」)を申し渡されました。その後すぐ、極刑(斬首さらし首)に処せられました。実は、死刑を梟首・斬罪・絞首に改正したのが、江藤新平でした。
言論という選択は、頭が痛い
 諸隊脱隊騒動を鎮圧した元奇兵隊の幹部である木戸孝允は、「私には帰る故郷がなくなった」と言ったといいます。弾圧した者の中には、木戸孝允の元同僚もいただろうし、部下もいただろうし、親戚もいただろう。しかし時代の流れに冷徹な木戸孝允は、今まで多くの血を流してきたのは、欧米列強に負けない、新しい国家を作るためだったと理解し、「泣斬馬謖(泣いて馬謖を斬る)」思いだった。
 私は、近代日本の基礎と作った1人だと高く評価しているが、その冷血さが、人情主義の西郷隆盛の人気に及ばないのかもしれない。
 板垣退助は「板垣死すとも自由は死せず」ということで有名です。演説中刺された時に言った言葉で、実際は軽傷だったのです。
 私がすごいと思うのは、暗殺したり、自害する時代に、言論という武器を採用したことです。言論で相手に勝つには、相手よりもより勉強をする必要があります。駆け引きもあります。つまり、頭の戦いです。
 これは伝聞です。言論で新政府と戦おうと誓った同志の江藤新平が、佐賀の乱で、武力で新政府と戦う道を選びました。このことを知った板垣退助は、自分の部下に、「」江藤新平が逃げてきても門前払いをせよ」と言いました。板垣退助の予言どおり、命からがら、土佐に逃げてきました。部下は、言われたとおり、門前払いしました。その結果、江藤新平は斬首のあと首を晒されました。その後、部下が板垣退助に「逃げてきたものを匿うのが人の道ではないですか」と尋ねると、板垣退助は「言論で戦った同志なら、言論で援護もしよう。武力で戦ったなら、武力で責任を取るのが、その者の務めだ」と答えたといいます。
 私は、体罰否定論者ではあります。しかし、懲戒論者でもあります。正しいときは褒め、間違ったときは叱る。これが指導の基本です。言葉で説得しても、最初から、聞き入れる耳を持たない生徒や子供に対して、私は懲戒します。聞き入れる状態になると、静かに時間をかけて、説得します。必ずフォローをします。
 最近、妻に暴力をふるうDV(ドメスティック・バイオレンス)や子供を虐待する新聞記事が多くなっています。すぐ暴力(武力)を振るう原因は色々言われていますが、結論は、相手を説得するだけの知識・話術・言論がないからです。上司にペコペコして我慢している代わりに、弱いものに八つ当たりするのです。
 相手を説得するには、勉強が必要です。「こうすれば上司を説得できる」とか「家族と上手にコミュニケーションをとる方法」いう本をいくら読んでも、勉強とはいえません。他人のしたことを真似することは不可能です。無駄です。
 体験して、それを如何に、解釈するかということを、日常生活読の中で昇華するしかありません。
 佐賀の乱で敗北した江藤新平は、鹿児島の西郷隆盛と再挙兵を画策しましたが、西郷隆盛からは、冷たく突き放されます。そこで、桐野利秋を頼ります。しかし、桐野利秋の答えも西郷と同じです。
 江藤新平は、鹿児島から四国に渡るとき、随行していた石井と徳久という者を桐野利秋に預けました。桐野利秋は、2人を洞窟に匿います。
 その後、西郷隆盛の知るところとなり、西郷が「佐賀の乱の脱徒を匿っているらしいな」と問われると、桐野は「これは自分の病気みたいなものです。どうか見逃してほしい」と哀願したといいます。

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