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エピソード

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不平士族の反乱U(神風連の乱、秋月党の乱、萩の乱、西南戦争)
 明治9年、10年に集中して不平士族の反乱が起こりました。その理由を考えてみました。
 1873(明治6)年10月、征韓論争に敗れた西郷隆盛は、参議を辞して、鹿児島に帰ります。西郷隆盛を慕う陸軍少将の桐野利秋中村半次郎)・近衛局長陸軍少将篠原国幹・、陸軍少佐別府晋介ら旧薩摩藩出身の近衛兵や士官らは、続々と西郷に続いて鹿児島に帰郷しました。
 1874(明治7)年2月4日、佐賀の乱が起こりました。
 2月6日、参議大久保利通大隈重信の提案で、閣議は、征台の役を決定しました。
 2月14日、参議大久保利通は、佐賀の乱鎮圧に向かいました。
 4月、参議兼文部卿木戸孝允は、大久保利通らの強権政策に反発して、辞表を提出しました。
 6月、元参議西郷隆盛は、佐賀の乱を教訓に、薩摩藩の居城である鶴丸城の厩跡に、私学校を設立しました。
(1)学校といっても、鹿児島では郷中(若者宿。今風の青年団)を組織化したもので、西郷隆盛を慕い帰郷した近衛兵や士官らの暴発を防ぐという性格を持っています。
(2)生徒数約800人で、鹿児島県下に136の分校がありました。その経費は、県令大山綱良が県費で賄いました。
(3)旧近衛兵を対象とする砲隊学校(監督篠原国幹)・砲兵出身者を対象とする銃隊学校(監督村田新八)と、陸軍士官養成のための幼年学校(監督篠原国幹)で構成されていました。
 1875(明治8)年2月、長州の伊藤博文が仲介し、薩摩の大久保利通は、下野していた長州の木戸孝允・土佐の板垣退助と大阪で会合し、政治改革で4人の意見が一致しました。これを大阪会議といいます。
 4月、西郷隆盛は、士族の自立・自給・自足を目的とした開墾社(監督平野正介)を設立しました。
(1)青少年士族150人を収容しました。
(2)昼は開墾して、米・粟・サツマイモなどを栽培し、夜は学問に取り組みました。
 9月、明治新政府は、家禄の金禄化を決定しました。しかし、鹿児島県令の大山綱良は、家禄税を県庁で適当に処理して、金禄調帳も提出しなかったので、鹿児島の士族の生活には、中央の意向はあまり反映されていません。
 1876(明治9)年3月、明治新政府は大礼服着用および軍人・警察官・官吏制服着用の場合を除き、帯刀を禁止する命令を出しました。これを廃刀令といいます。これは、陸軍卿の山県有朋の「軍人以外の者が帯刀することは権威にかかわる」という発言を受けて、公布されました。
 7月、大久保利通は、鹿児島県令の大山綱良を東京に召喚しました。大久保は西郷一派で占められた県官の更迭を命じましたが、大山は自分の辞職と県官の総辞職を申し出て、抵抗しました。逆に、大山綱良は、士族家禄の10年分(全国的には7年分)の公債と、利率1割(全国的には7分)を認めさせました。これを知った木戸孝允は、「中央政府とは相容れない独立国が鹿児島だ」と非難しました。
 8月、明治新政府は、金禄公債と引き換えに家禄の奉還を強制的に命令しました。これを秩禄処分といいます。今まで、県庁の保護によって生活していた鹿児島士族にとって、この秩禄処分は、過激な通達になりました。
 10月24日、刀を差していた敬神党(廃刀令に憤激した不平士族が組織)の1人が鎮台兵に咎められたことがきっかけで、太田黒伴雄(32歳)に率いられて熊本鎮台を襲撃しました。これを敬神党の乱(または神風連の乱)といいます。この時、鎮台司令官の種田政明少将は、妾の小勝と寝ていて殺されました。小勝は、「ダンナハイケナイ ワタシハテキズ」と電信したという話が残っています。
 この頃、西郷隆盛は、日当山温泉のおりました。鹿児島に帰ると、私学校生徒に火をつける可能性があるので、温泉から動こうとはしませんでした。
 10月25日、熊本鎮台兵がこれを鎮圧しました。
 10月27日、福岡の旧秋月藩士である宮崎車之助(28歳)らは、熊本の神風連の乱に呼応して挙兵し、小倉鎮台兵に鎮圧されました。これを秋月党の乱といいます。
 10月28日、山口の元参議で兵部大輔の前原一誠(43歳)に率いられた不平士族は、熊本の神風連の乱に呼応して、県庁を襲撃しようとして、広島鎮台兵に鎮圧されました。これを萩の乱といいます。
 11月、茨城県真壁郡らの農民は、貢納に関して一揆をおこし、警察官を殺傷しました。宇都宮営兵によって鎮圧されました。
 12月3日、司法卿大木喬任の指揮下に、熊本・福岡・山口に臨時裁判所を設置し、士族反乱被告の処罰を決め、前原一誠ら13人を斬罪に処しました。
 12月19日、三重県下飯野郡の農民らは、石代納に反対して一揆をおこし、支庁・区裁判所に放火しました。これを伊勢暴動といいます。愛知・岐阜・堺県下にも拡大しました。名古屋鎮台・大津営兵が鎮圧しました。処分者は5万7000人の及びました。
 12月27日、参議兼内務卿の大久保利通は、農民一揆を考慮して、地租の軽減を建議しました。
 12月末、大警視川路利良は、警視庁警部ら20人を私学校探索とその勢力抑制の為に鹿児島に派遣しました。
 1877(明治10)年1月4日、地租を減ずる詔書が出され、地租は地価の3%が地価の2.5%に減ぜられました。
 1月11日、中原尚雄警部らは、鹿児島に帰ってきました。
 1月下旬夜、政府派遣の三菱会社赤竜丸は、鹿児島に入港し、密かに、陸軍省草牟田火薬庫から火薬・銃弾を運び出す。私学校生徒数人は、これを襲撃します。
 1月30日、鹿児島の私学校生徒は大挙して、陸軍省草牟田火薬庫から大阪砲兵工厰に移送中の兵器・弾薬を奪いました。
 1月31日、私学校生徒は、磯の海軍火薬庫(元薩摩藩の集成館)から兵器・弾薬を奪取しました。
 2月1日、たまたま大隈南端の小根占にいた西郷隆盛は、弟の西郷小兵衛からこの話を聞き、「しまった…なんちゅうこっを…」と絶句したといいます。これが西南戦争の発端です。
 2月3日、西郷隆盛は、鹿児島に帰りました。
 2月3日、私学校生徒らは、中原尚雄警部らを、西郷暗殺計画容疑で逮捕しました。
 2月5日、中原尚雄は、西郷暗殺計画の口述書をとられました。「シサツ」と発言したが、「視察」なのか「刺殺」なのか確認されませんでした。
 2月7日、西郷隆盛は、私学校の決起を押さえることが出来ず、県令大山綱良に率兵上京の決意を伝えました。ここに西南戦争が始まりました。
 2月9日、海軍大輔海軍中将川村純義を鹿児島に派遣して、西郷隆盛との面談をはかりましたが、失敗しました。そこで、山県有朋は、各鎮台に警戒命令を出しました。
 2月13日、山県有朋は、広島鎮台に出動命令を出しました。
 2月13日、薩摩軍は、歩兵五大隊・砲兵二隊を編成しました。
 2月14日、小倉第十四連隊の先発隊は、熊本へ出発しました。
 2月15〜17日、陸軍大将西郷隆盛は、「今般政府に尋問の筋これあり」として、1万3000人の兵を率いて鹿児島を出発し、出水海道大口海道から北上しました。
 2月19日、明治新政府は、「鹿児島暴徒制討令」を出し、有栖川宮熾仁親王を征討総督に、陸軍卿陸軍中将山県有朋と川村純義を参軍に任命し、本営を福岡に設置しました。この段階で、西郷隆盛は逆賊となりました。
 2月19日、熊本城が炎上しました。
 2月20日、薩摩軍の先鋒が川尻に到着しました。
 2月20日、政府軍は、大阪を出発しました。
 2月22日午後6時、乃木希典少佐は、小倉にいた熊本鎮台第14連隊を率いて熊本城の救援に向かい、植木に到着し町の南側に守備陣を構えました。
 2月22日、全国から集まった兵で4万人のなった薩摩軍は守備兵3000人の熊本城を包囲しました。熊本鎮台司令長官の谷干城少将は、歴戦の兵である薩摩軍との戦闘を不利と考え、籠城して援軍を待つ作戦をとりました。熊本城の南側には自然の要塞白川があり、北側は植木町まで続く台地で囲まれており、田原坂は城北防衛の要地でした。
 2月22日午後7時、熊本城包囲軍の一部である村田新八が率いる小隊は北上を開始し、乃木少佐率いる軍と向坂で戦いが始まりました。政府軍は苦戦し、植木千本桜へ退却しました。この戦いで、乃木少佐率いる政府軍は連隊旗を奪われ、乃木少佐は自決を覚悟したほどでした。明治天皇がなくなった時、乃木希典は、連隊旗を失った責任を果たすとして、殉死したといいます。人命より旗が重視されていたのですね。
 2月23日、薩摩軍は、熊本城の総攻撃に失敗しました。
 2月23日、薩摩軍の第一番大隊は、政府軍の第十四連隊を破り、木葉に進出しました。
 2月24日、薩摩軍は、一部を熊本城の攻囲に残し、主力は北進して田原・山鹿方面に進んで、南下する政府軍を迎え撃ち、その間城の陥落を待って全軍本格的に北進して、攻勢に転ずるという作戦を採用しました。そこで、田原・山鹿を攻略し、高瀬(玉名市)に向かいました。
 2月25日、政府軍の第一旅団・第二旅団は、南関に到着しました。
 2月25日、西郷隆盛は、陸軍大将という官位を剥奪されました。
 2月26日、北進した薩摩軍は、兵力・軍需の欠乏で高瀬攻略に失敗しました。この戦いで、西郷隆盛の弟である小隊長の西郷小兵衛は、戦死しました。
 薩摩軍は、桐野利秋が山鹿、篠原国幹が田原吉次、村田新八・別働隊が木留に布陣し、政府軍の南下に備えました。
10  3月1日、大山巌少将は、四個大隊を率いて、博多に到着しました。
 3月4日、政府軍は、田原坂吉次峠を攻撃する二方面作戦を採用しました(第一次総攻撃)。政府軍は、田原坂下の豊岡眼鏡橋から攻撃しましたが、凹道の威力で撃退されました。
 吉次峠を攻撃した政府軍は、後に「地獄峠」と言われるほどの死傷者を出しました。政府軍が使った弾丸は数十万発、数百メートルの塹壕は薬莢で埋まり、政府軍の死傷者は300人に及びました。薩摩軍一番大隊長篠原国幹は、この戦いで、戦死しました。この結果、政府軍は、田原坂攻略に集中する作戦に変更しました。
 3月5日、政府軍は、主力を田原坂本道への攻撃に移し、本道の左右から攻撃しました。
 3月6日、政府軍は、本道の正面を攻撃したが、失敗しました(第二次総攻撃)。
 3月7日、政府軍は、左右から同時に攻撃しますが、ここでも苦戦を強いられます(第三次総攻撃)。
 3月8日、政府軍は、本道からの攻撃をあきらめ、田原坂西方向側の二俣台を攻撃・占領し、砲台を築き砲撃しました。
 3月8日夜、兵器に優れた政府軍の攻撃に陣地を奪われた薩摩軍は、抜刀斬り込みをかけ、奪われた陣地を取り戻す作戦を採用しました。白兵戦の経験のない政府軍は、死を恐れぬ薩摩士族の抜刀伐り込みによる肉薄接近は、恐怖そのものでした。
 3月9日、横平山五郎山では激戦が続き、田原本道でも一進一退の戦いが続きました。
 3月10日、政府軍は、第三旅団・別働旅団を、戦線に投入しました。
11  3月11日、政府軍は、横平山方面を攻撃し、激戦となりました(第四次総攻撃)。
 3月12日、二俣・横平山でも激戦が続きました。
 3月13日、抜刀斬り込みに手を焼く政府軍は、元士族の警視庁巡査に志願させ、警視庁抜刀斬込隊を編成しました。この警視庁抜刀斬込隊は、薩摩軍の抜刀斬り込みとの間の白兵戦に、威力を発揮しました。この結果、政府軍が優勢になっていきました。
 3月14日、政府軍は、七本の薩摩軍を撃破し、植木への街道を横断しようとしました。薩摩軍も反撃したので、激戦となりました。
 3月14日、熊本城と連絡の取れない政府軍は、黒田清隆を、参軍・背面軍の指揮に任命し、薩摩軍の背面を突く作戦を採用しました。
 3月15日 政府軍の警視庁抜刀斬込隊が活躍し、田原坂に猛攻撃をかけました(第五次総攻撃)。薩摩軍の抜刀伐り込みも壮絶を極めました。政府軍は死傷者が1000人を越えました。薩摩軍は、銃弾に石を混めて使用する状態になり、200人以上が死傷しました。
12  3月17日、薩摩軍に加担した鹿児島県令大山綱良の官位を奪い、東京に護送しました。
 3月18日、政府軍主力は横平山を手中に収め、七本柿木台場(現在の薩摩軍墓地)前面の丘上をほぼ占領しました。薩摩軍の生命線である植木街道は風前の灯火となりました。
 3月19日、政府軍は陽動作戦で吉次峠を攻撃しました。七本柿木台場方面の熊本隊の一部はワナにはまって、吉次へ兵を送り、不足を新来の高鍋隊に交代しました。
 3月19日、黒田清隆が率いる背面軍は、日奈久に上陸しました。
 3月20日午前5時、政府軍は、夜来の大雨のなかを、薩摩軍の柿木台場に接近しました。
 3月20日午前6時、号砲3発の合図とともに突然攻撃を開始しました。薩摩軍の柿木台場は大混乱になり逃げ出す兵が続出し、逃げ遅れた兵はことごとく刺し殺されました。
 3月20日午前10時、柿木台場を陥落させた政府軍は、田原坂本道で政府軍を防いでいる薩摩軍本隊の背後から攻撃を仕掛けて、薩摩軍本隊を敗走させました。ここに田原坂の戦いは終わりました。政府軍が使った弾丸は1日に21万発だったといいます。
 3月20日、薩摩軍は、向坂で、政府軍の200人を殺害・占領し、政府軍の熊本城進撃を阻止しようとしました。
 3月21日、黒田清隆が率いる背面軍は、八代に上陸しました。
 3月25日、黒田清隆が率いる背面軍は、四個師団に編成し、熊本に向かいました。
14  4月1日、政府軍は、吉次・木留を占領しました。
 4月14日、黒田清隆が率いる背面軍は、熊本城に入りました。腹背が敵となった薩摩軍は、木山に撤退しました。
 4月20日、政府軍は、大津御船健軍保田窪の薩摩軍を攻撃しました。
 4月21日、政府軍は、木山を攻略しました。薩摩軍は、本営を矢部浜町に移し、九個部隊に再編成しました。ここで薩摩軍は、三州割拠作戦(薩摩・大隈・日向に勢力を張り、機を見て攻勢に転ずる)を採用しました。
 4月22日、三州割拠作戦により、西郷隆盛らは椎葉経由で熊本南部の人吉に後退し、桐野利秋らは江代豊後・鹿児島・佐敷大口方面に各部隊を出動させました。この頃、薩摩軍は三州を支配下に置いていました。
 4月27日、政府軍の海軍大輔海軍中将川村純義は、海路鹿児島に入り、兵を各地に配置しました。
15  5月2日、薩摩軍は、別府晋介を司令官として、本営を横川に設置しました。
 5月3日、政府軍は、西郷隆盛らがいる人吉を攻撃しました。
 5月5日、鹿児島での戦闘で、市街が炎上しました。
 5月13日、薩摩軍の一部は、竹田に進出しました。
 5月26日、内閣顧問木戸孝允は、病死しました。時に、45歳でした。この時、「ええかげんにせんか」というのが最後の言葉だったといいます。
 5月29日、西郷隆盛は、人吉から宮崎に入り、宮崎支庁を軍務所と定めました。政府軍は、竹田を占領しました。
16  6月1日、政府軍は、人吉を占領しました。薩摩軍は、大畑に退却しました。この段階では、薩摩軍は二洲(大隈・日向)を支配下においていました。
 6月1日、薩摩軍の一隊は、臼杵を攻略しました。
 6月9日、政府軍は、臼杵を奪回しました。
 6月25日、川路利良少将率いる政府軍は、鹿児島に突入し、薩摩軍に便宜を図っていた県庁首脳部を逮捕し、鹿児島の防備を固めました。薩摩軍は蒲生加治木方面に退却し、薩摩地方を失いました。
 6月25日、薩摩軍は、佐土原西郷札を発行しました。
17  7月1日、政府軍は、横川を占領しました。
 7月11日、政府軍は、小林に侵入しました。
 7月24日、政府軍は、村田新八を総指揮官とする都城を占領しました。その結果、薩摩軍は、日向一州を支配下におくにとどまりました。
 7月31日、政府軍は、佐土原・宮崎を攻略しました。
18  8月2日、政府軍は、高鍋を占領しました。薩摩軍は、美々津に退却しました。
 8月4日、政府軍は、美々津を占領しました。
 8月14日、政府軍は、延岡を占領しました。
 8月15日、薩摩軍は、延岡奪還をめざし、貴重な鉛弾をつかい、最後の戦いを挑んだが、失敗し、宮崎の小村の長井村に退却しました。
 8月17日、3万の政府軍は、1000人に激減した薩摩軍を、長井村に包囲しました。
 8月18日午前0時、薩摩軍300人は、可愛岳の断崖絶壁を12キロ潜行して、政府軍の包囲網を突破しました。残留者の薩摩軍700人が投降しました。
 8月21日、薩摩軍は、三田井の政府軍を襲撃しました。政府軍本隊は、西郷隆盛らの動きを見失いました。
 8月27日、政府軍の第二旅団は、細島を出港しました。
 8月28日、薩摩軍は四面を政府軍で包囲されていることを知り、豊後口への脱出は不可能と判断し、九州山地の尾根伝いに米良谷須木を経て、小林・横川に向かいました。この時、政府軍は、薩摩軍が鹿児島を目指していることを察知しました。
 8月30日、薩摩軍は、政府軍の第二旅団を遭遇し、交戦せず、迂回しました。
 8月31日、薩摩軍は、渡辺山田蒲生を経て、吉田に向かいました。
19  9月1日深夜、薩摩軍は、川上吉野から伊敷を迂回して、政府軍の包囲網を突破して、4万の政府軍が占領している鹿児島の私学校に入りました。その後、政府軍のこもる米蔵を除き、鹿児島市内を制圧しました。
 9月3日、政府軍の第二旅団は、鹿児島に着き、薩摩軍を城山に追い詰めました。薩摩軍は、城山の洞穴にたてこもりました。その中には、別府晋介・桐野利秋・村田新八らがいました。
 9月6日、政府軍は、長井村での失敗を反省し、土塁・土豪を築き、城山の完全包囲網を完成させました。
 9月10日、政府軍の八個旅団は、鹿児島に集結しました。
 9月24日午前4時、政府軍は、城山を総攻撃しました。
 9月24日午前7時、岩崎口で被弾した西郷隆盛(51歳)は「晋どん、もうここいらでよか・・・」と言って、別府晋介の介錯で自害しました。桐野利秋(40歳)・村田新八・別府晋介らは、戦死しました。
 9月30日、前県令大山綱良は、斬首の刑に処せられました。
20  西南戦争で動員された兵を見ると、
(1)薩摩軍は出陣時1万3000人、途中に徴募した兵1万人、その他、熊本隊などの熊本士族や延岡隊などの日向士族・豊後の報国隊などの党薩諸隊1万人の計3万3000人です。
(2)政府軍は6万人です。
 戦死者の数を見ると、
(1)薩摩軍の戦死者は、7185人で、従軍の55%にあたります。
(2)政府軍の戦死者は、6923人で、従軍の11%にあたります。
 西郷隆盛と3万3000人の兵でも、政府軍には敵対出来ないことが証明されました。ここに、軍政の近代化が達成されたといえます。
21  1878(明治11)年5月、参議兼内務卿の大久保利通は出勤するため、紀尾井坂にさしかかった時、書生風の男が場所の前脚に切りつけました。馬車が急停止すると、車中の大久保利通は、外に出ようとしたところを眉間を切られました。刺客は、大久保利通を馬車から引きずりだして、滅多切りにしました。時に49歳でした。
 7月、西郷隆盛の私学校に共鳴した刺客の石川県士族4人・島根県士族1人ら6人は、大久保利通暗殺により斬首の刑に処せられました。
 1889(明治22)年、政府は、西郷隆盛の罪を許し、正三位の位階を贈り、名誉を回復しました。
 この項は、『図説西郷隆盛と大久保利通』・『日本合戦全集』などを参考にしました。
西郷隆盛のカリスマに迫る
 かなり詳しく、西南戦争を見てきました。その理由は、西郷隆盛は、自分の兄弟や子供、親戚、近所の人、否、薩摩の多くの人を道連れに、死んでいったのに、何故、今もって、人気があるのかという点を調べるためです。
 私も、日本の近代化を進めた功労者として、西郷隆盛を高く評価しています。しかし、西郷隆盛の裏面も知っています。それは、赤報隊事件です。詳細は別項を見てください。坂本竜馬の考えるままでは、近代日本は中途半端になると考えた西郷隆盛は、旧将軍・江戸幕府の徹底的打倒を計画します。そこで利用したのが、赤報隊です。農民を味方にするため「年貢半減」の看板を与え、中部・関東の農民を味方につけました。
 ほぼ目的を達した段階で、西郷隆盛は、赤報隊を偽官軍として、処刑し、「年貢半減」をホゴにしました。西郷隆盛の頭には、農民(一般庶民)は入っていなかったのです。
 征韓論争に敗れた西郷隆盛が鹿児島に帰りました。その時、明治天皇は「一新ノ業日洽カラスシテ未タ其半ニ至ラス今ヤ一層努力スルニ非スンハ成功期スヘカラス況ヤ北地ノ事情其余国事多端内外不容易形勢ニ際シ朕深ク憂之汝等宜ク朕カ意ヲ体認シ一層勉励其職ヲ尽サンコトヲ望ム」という勅を出して慰撫しましたが、西郷隆盛は、これを無視しています。当時の言葉で言えば、逆賊なのです。
 「20世紀は大久保利通の時代であったかもしれない。しかし、これからの21世紀は、地域社会の時代で、西郷隆盛の想いを再認識すべき時代が到来した」ともっとらしい説に出合いました。
 しかし、私学校のことを調べてみると、これは学校というものでなく軍隊組織です。地方分権とはいえ、各地に独立的な軍隊組織を持つことが許されないのは当然です。西郷隆盛のオゴリを感じます。
 「西郷隆盛の帰郷後、次々と事件(岩倉襲撃、佐賀の乱、台湾出兵)が起こります。西郷が政府の中心にいたからこそ、平穏な日々が続いていたといって過言ではない」という文章に出合いました。取るに足りぬ内容ですが、カリスマ西郷隆盛を信奉する人には、全て西郷先生は正しいのでしょう。これは逆に、西郷隆盛が撒いた事件なのです。
 「陸軍大将という身分の西郷隆盛は、明治新政府が切り捨てた武士中心の自立的・自給的理想社会を作ることで、新政府の政策に反省を促そうとしたこれは、西郷隆盛の”再革命”と評価できる」という文章もありました。
 しかし、中央集権化をめざす中央政府からすると、鹿児島県が独立国家として、地租改正や秩禄処分はしない、軍隊を持つなどは、国家への反逆と映ったでしょう。西郷隆盛がそれに気づいていないとしたら、アナクロ人間と評価されても仕方がないでしょう。
 私は、パソコンのリレーショナル・データベースの1つD'basePlusV(MSDosのOS)を使って、進路指導の全データを作ってきました。プログラムを組むのは大変ですが、誰でもが簡単に入力でき、誰でもが簡単に出力できる優れものです。
 しかし、Windowsの時代となりました。リレーショナル・データベースの1つであるAccessが発売になりましたが、誰も使える人はいません。まだ、D'basePlusV(MSDosのOS)が主役です。しかし、D'basePlusVのWindows版は発売されていません。
 十分現役として使えるのに、D'basePlusV(MSDosのOS)の将来を考え、若者に進路指導の主役を譲りました。多くの人は、「まだ、やれるのに…」と言ってくれましたが…。
 そういう視点から考えると、西郷隆盛は、大久保利通が進める近代化(自由主義化・個人主義化)にはなじめない。多くの士族も、なじめない。近代化になじめない者が生き恥をさらすより、武士としての死を用意したのではないかと思うのです。そう考えると、肉親を殺され、家・財産を失った者が、今も西郷隆盛を神として奉る理由が分かります。
(1)「雨は降る降る 人馬は濡れる 越すに越されぬ 田原坂 右手に血刀 左手に手づな 馬上ゆたかな 美少年」
(2)「薩摩隼人は天下無敵じゃが、一に雨、二に大砲、三に赤帽は苦手じゃ」
 田原坂の戦いは、雨の中で行われました。赤帽とは赤い帽子を被った近衛兵ですが、最も恐れたのが雨とはどういうことでしょうか。薩摩軍は雨に弱い先込めのエンピ-ル銃を使っていました。政府軍は、雨の中でも発射できる元込めのスナイドル銃を使っていました。
 廃刀令が、何故、士族の反乱の原因にになったのでしょうか。
 ヤクザが黒いサングラスに、黒い服を着ます。全身黒で統一します。私は、それを見て、関わりにならないように、見て見ぬ振りをして通り過ぎます。ヤクザはそれがたまらんのだそうです。
 それと同じで、刀を差していると、「お侍さん」と思って、避けます。しかし、刀を差していないと、ドンとぶつかることもあります。
 勉強や部活動で活躍している生徒は、余り着飾ったりしません。皆が認めているからです。しかし、そうでない生徒にとっては、何かに頼って、自分の誇示します。
 神風連の乱をおこした敬神党は、チョンマゲ・帯刀姿で闊歩し、電信線の下を通るときは、扇子で頭をおおって通るほど、頑固な現状維持派でした。
 廃刀令で決起した士族の心理は、それと同じで、食ったり、他人から支持されるような技術を持っておらず、刀を差すだけで、自分を誇示していた人が、それをも奪われたのです。技術を身につけることの大切さを学びました。

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