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エピソード

181_01

自由民権運動T(板垣退助、立憲政体樹立の詔、元老院)
 文明開化のスローガンによって、ヨーロッパから文化的な思想、経済的・政治的な思想も、日本に流入しました。この思想と、新政府(藩閥政府)への反発思想とが、結合して誕生したのが、自由民権運動といえます。
 1871(明治4)年7月、太政官制を改めて、正院左院右院を設置しました。
 1873(明治6)年10月、征韓論争により、薩摩の西郷隆盛、土佐の板垣退助後藤象二郎、肥前の江藤新平副島種臣の5参議が辞職しました。板垣退助らは、言論により新政府を批判することを確認しました。
 代わって長州の伊藤博文、薩摩の寺島宗則、幕臣の勝海舟の3人が新たに参議となりました。大久保利通は、この時すでに、「イギリスの自主的に国を支える国民の力を伸ばすことには賛成である」「民撰議院については時期尚早である」という考えを持っていました。 
 1874(明治7)年1月12日、参議を辞職した板垣退助・後藤象二郎・江藤新平は、愛国公党を組織し、「本誓」(綱領)を発表しました。公党といっても、厳密な意味での政党ではなく、政治グループという方が正確かも知れません。
 1月14日、右大臣の岩倉具視は、赤坂喰違坂で、暴漢に襲撃されました。岩倉具視は、足に負傷しましたが、堀に飛び込んで、一命をとりとめました。これを赤坂喰違坂の変といいます。後に土佐の武市熊吉ら9人が逮捕され、処刑されましたが、同じ土佐出身ということで、板垣退助にも嫌疑がかけられており、愛国公党はバラバラになります。
 1月17日、板垣退助(38才)ら8人は、連名で、民撰議院設立建白書を左院へ提出しました。
 板垣退助以外の7人とは、後藤象二郎江藤新平・副島種臣の元参議3人と、越前の由利公正(前東京府知事)、土佐の岡本健三郎(前大蔵大丞)・古沢滋、阿波の小室信夫(イギリス留学から帰国したばかり)の4人です。8人の構成を見ると、薩長藩閥からそれた反主流派という性格が強く出ています。
 1月18日、イギリス人のブラックが主催する邦字新聞の『日新真事誌』に、建白書の全文が掲載されました。その内容は、次の通りです。建白書を読んで感じるのは、『天賦人権論』に裏打ちされた主張だということです。
(1)「藩閥有司専制が続けば、国家は崩壊する。この弊害を救うには、民撰議院を設立することである」
(2)「租税を納める人民は、立法・行政に参加する権利をもっている。民撰議院こそ、そのための機関である。政府は人民は無知であるからと無視する」
(3)「人民の権利と自由をたて、君臣相和して、わが帝国の勢いをたもち…そのためにも、民撰議院の設立を要求する」
 2月3日、加藤弘之(後の東大総長)は、『日新真事誌』に、民撰議院設立尚早論を発表しました。「議院開設は望ましいことではあるが、現在の日本には不学の民が多く、農工商民の多くは政治的な自覚も知識もない。士族にしても理を解し得る者は僅かである。したがって民撰議院を開けば恐らくは愚論の府となり、国家の大害を生じるだろう。現在必要なのは学校を興し、人才を教育することである」というのが趣旨である。
 加藤弘之の意見に対し、様々な意見が掲載されました。こうした動きを自由民権運動といいます。
(1)板垣退助ら愛国公党は、ミルの『[由論』を引用し、即時設立論を発表しました。「人民参政は当然のことで、またそれによって人民の進歩が図られる」「にわかに人民、其名代人を択ぶのは権利を一般にせんと云うには非ず。士族及び豪家の農商等をして独り姑く此の権利を保有し得せしめんのみ」という上流民権説(士族民権)で対抗しました。
(2)左院書記官と大井憲太郎は、「民撰議院開設をしなければ政府の専制を咎めることができない」「選挙権も世襲の士族は人民を相離居すること多年、全く其利害を異にし、曽て人民の痛楚を知らず」「一般人民の参政が必要である」と主張しました。
(3)蕃書調所教授の津田真道は、民撰議院賛成論を発表し、「人民の代議員を出ずには民撰議院は必要だ」と主張しました。
(4)外国事務取扱の西村茂樹は、原則として賛成としながらも、「其の実施方法如何で懸念もある」と述べました。
(5)h摩藩の森有礼(後の文部大臣)は、「現政府を論議しているが、建白者自体(板垣退助ら)、在任中のこととして責任を負うべきではないか」と建白書の内容を批判しています。
(6)蕃書調所教授の西周は、「目下の急務は文部の政を考えることで、一挙に議院開設を望むのはいささか尚早だ」と論じました。
 2月18日、江藤新平らは、県庁を占領しました。これを佐賀の乱といいます。
 4月10日、土佐に帰った板垣退助は、片岡健吉植木枝盛林有造らと士族中心の政社である立志社を創立しました。政社とは、治活動を目指して結成された(団体)をいいます。立志社には、政社と士族授産という性格もありました。社長は片岡健吉です。
 4月18日、参議兼文部卿木戸孝允は、大久保利通らの強権政策(佐賀の乱・征台の役)に反発して、辞表を提出しました。
 4月27日、木戸孝允の辞任対策として、薩摩の島津久光(58歳)を、左大臣としました。
 6月、元参議西郷隆盛は、佐賀の乱を教訓に、薩摩藩の居城である鶴丸城の厩跡に、私学校を設立しました。
 8月、長州の山県有朋(36歳)・薩摩の黒田清隆(35歳)は、参議となりました。
 1875(明治8)年2月11日、長州の伊藤博文が仲介し、薩摩の大久保利通は、下野していた長州の木戸孝允・土佐の板垣退助と大阪で会合し、政治改革で4人の意見(漸次立憲政体樹立など)が一致しました。これを大阪会議といいます。
 2月22日、立志社の呼びかけで、大阪に全国の有志の政社である愛国社を設立しました。板垣退助がいない愛国社は、資金不足で解散します。
 3月、長州の木戸孝允・土佐の板垣退助は、参議に復帰しました。
 4月、明治新政府は元老院大審院地方官会議を設置し、漸次立憲政体樹立の詔を発しました。その内容は「五か条の御誓文の主旨により「漸次ニ国家立憲ノ政体ヲ立テ」というものです。
(1)元老院は、左院を廃して設けられた立法機関で、国家の功労者を任命する。
(2)大審院は司法権を行使する最高機関で、控訴審の最終裁判も行い、皇室犯・内乱罪も裁判する。
(3)地方官会議は、民情を知る為に府知事・県令を招集した会議で、地方民会・三新法など地方自治に関係するものを審議する。
 6月20日、第一回地方官会議(議長は木戸孝允)が開かれました。議題は(1)道路・橋・堤防(2)地方警察(3)地方民会(議会)(4)貧民救助(5)小学校の設立でした。傍聴を許された地方の豪農にとって大切なの地方民会の議事に、なかなか進行しないので、福島の河野広中らは、元老院に意見を出しました。しかし、公選民会は否決され、区・戸長によって民会を代理するということになりました。
 この決定を知った民権派の「評論新聞」「采風新聞」「近事評論」は勿論、一般紙の「日新真事誌」「曙新聞」「朝野新聞」「郵便報知」なども、民権論を支持しました。政府系の新聞「東京日日新聞」(主筆福地源一郎)のみが、反対しました。
 6月28日、そこで、世論を抑えるために、明治新政府は、讒謗律新聞紙条例を発布しました。
(1)讒謗律の讒は「人をおとしいれるために言うつくりごと」のこと、謗は「あばいて言い広める悪口」のこと、律は法律のことです。その内容は、「著作文書もしくは書画肖像をもちい、人をそしり、栄誉をけがすものは、罪を科す」です。
(2)新聞紙条例は、新聞・雑誌についての法律で、その内容は、「政府を変壊し、国家を?覆するの論をのせ、騒乱を扇動せんとしたするものは禁獄1年以上3年までの刑を科す」「成法をそしり、国民法にしたがうの義をみだし、かつ刑律にふれた犯罪をかばう論をなすものは、禁獄1カ月以上1年以下、罰金5円以上100円以下を科す」です。
 7月17日、第一回地方官会議が閉会されました。
 9月、明治新政府は、出版条例を改正しました。
(1)出版物は、許可制から事前届出制に強化されました。
(2)出版禁止事項に、讒謗律・新聞紙条例を適用しました。
 10月、左大臣島津久光と参議板垣退助は、新政府の方針に反対して、辞職をしました。板垣退助は国会即時開設派だとすれば、木戸孝允は反対派、大久保利通はその中間派ということになります。板垣退助とすれば、政府内にとどまるメリットがないということです。
 1880(明治13)年12月、この5年間で、政府が出した諸法令に違反して、禁獄・罰金を受けたものは、200人以上にのぼりました。「評論雑誌」は、発行禁止されるまで、編集者・筆者が19人も逮捕されました。
 これを見ると、「言論は弱し、されど強し」という感がします。
 この項は、『教授資料詳説日本史』などを参考にしました。
立場によって理屈はある。アメとムチの政策
 国会の設立を巡って対立がありました。
 日常生活でも、堅実というか、慎重派の理論は、「まだ早い。もっと勉強してからやるべきだ」である。
 逆に、行動・実行派は、「やらずにいいか悪いか判断できない。やってから、問題点を1つずつ解決すればよい」である。私は、後者の立場である。体験的に、こちらの方が、積極的な人間が育ちます。
 国会論議でも同じだと思います。
 板垣退助は、民権派にリーダーに様に言われますが、戊辰戦争時代は、討幕派に属していました。
 東山道軍参謀として会津戦争の指揮をとりました。この時、会津藩の存亡の危機にあっても、一般庶民が傍観的であったのに感ずるところがありました。その後、四民平等・自由がなければ、祖国という気持ちが湧かないのだということを、痛感したといいます。
 征韓論争の時、再強硬派だった板垣退助を誤解する人もいるようですが、不平士族の不満を外にそらして中央集権化を強め、その上で国会開設に着手する意図だったといいます。
 民撰議院設立建白書の意義は、「人民の権利を主張することは、君を愛し、国を愛することである」という考えです。ただひたすら天皇や将軍・大名への忠義を愛国心というのでなく、自分の権利・幸福と結びついた愛国心を主張したのです。
 別の項でも言ったことがありますが、私は部活の指導を依頼されたとき、現コーチの解任を条件に引き受けます。
 私は、どちらかというと嫌われ役です。コーチは、選手の聞き役です。コーチは、私の所へ、選手の不満などを連絡します。私は、一貫して、同じ姿勢が指導します。コーチが、パイプ役となって、選手に私の真意を伝えてくれます。
 指導者がムチの政策です。コーチがアメの政策です。練習時間は短くても強いチームに変心します。
 政治の世界でも同じで、「いずれ国会は作るからガタガタするなよ」とアメの政策を行います。そして、「それでも、政府のいうことが聞けず、新聞や雑誌や演説で政府の悪口を言うなら、処罰するぞ。自業自得だ」というムチの政策をおこないます。歴史は、民衆と妥結しながら、徐々に、進んでいることがわかります。
 民撰議院建白書に署名した8人のその後を調べた本がありました。
 板垣退助は、自由民権運動と、参議とを出たり入ったりの行動をしています。
 古沢滋は、『自由新聞』主筆から官界入りし、その後、勅選の貴族院議員となりました。
 岡本健三郎は、その後、経済人となりました。
 後藤象二郎は、一時経済人となりましたが、やがて、自由党の結成とともに幹部となります。その後、逓信相・農商務相を歴任しました。
 江藤新平は、佐賀の乱を起こし、捕られて死刑しました。
 副島種臣は、民権運動に加わらず、その後、内相となりました。
 小室信夫は、阿波に帰り、自助社を興して民権運動を盛りあげるが、その後、実業家として名をあげ、のち、勅選の貴族院議員となりました。
 由利公正は、元老院議官に任命され、のち、勅選の貴族院議員となりました。
 政治家の野望というものを感じました。

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