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エピソード

182_02

自由民権運動U(立志社、国会開設期成同盟、集会条例)
 1876(明治9)年9月、元老院(立法機関)に勅語を下し、国憲の起草を命じました。
 10月、元老院は、日本国憲按第一次草稿を作成しました。
 10月24日、神風連の乱がおこりました。
 10月27日、秋月党の乱がおこりました。
 10月28日、萩の乱がおこりました。
 1877(明治10)年1月4日、地租を減ずる詔書が出されました(3%→2.5%)。
 1月30日、西南戦争がおこりました。
 3月1日、西南戦争の情報を知った板垣退助は、土佐に帰り、片岡健吉林有造大江卓ら立志社幹部と会合を開きました。林有造・大江卓らは、西郷隆盛と共闘して、挙兵すべきだと主張しました。
 板垣退助は、言論の戦いを支持し、植木枝盛(21歳)に建白書の起草を一任しました。
 4月下旬、植木枝盛は、建白書草案を、挙兵派にも見せて、修正しました。
 5月、木戸孝允(45歳)が亡くなりました。
 6月9日、片岡健吉(35歳)は、立志社建白を京都の行在所に提出しました。専制政治・地租荷重・外交政策など失政8条を挙げ、国会開設・地租軽減・条約改正などを要求しました。
 6月12日、内閣書記官の尾崎三郎は、天皇への取次ぎを拒否し、立志社建白は却下されました。しかし、建白の意義は、国民を国会開設の方向へ導いたことにあります。
 8月8日、立志社の林有造ら挙兵派40人は、西郷隆盛と連絡を取ったという理由で、逮捕されました。
 9月、西郷隆盛が自害して、西南戦争が終わりました。
 1878(明治11)年4月、第二回地方官会議が開かれました。
 5月、薩摩の大久保利通(47歳)は紀尾井坂で、暗殺されました。これを紀尾井坂の変といいます。この結果、政界は、長州の伊藤博文(37歳)と井上馨(44歳)・肥前の大隈重信(41歳)に対して、薩摩の黒田清隆(39歳)と西郷従道(36歳)という構図になりました。
 6月、元老院国憲取調委員は、日本国憲按第二次草案有栖川宮議長に提出しました。議長は、修正を命じました。
 7月、政府は、三新法を成立させました。三新法とは、郡区町村編制法府県会規則地方税規則をいいます。
(1)郡区町村編成法とは、次のような内容です。
 @従来の大区・小区を廃止し、旧来の郡制を復活し東京・京都・大阪には区を設置しました。
 A郡・区には、官選の郡長・区長を配し、郡の下の町村には戸長が置かれました。
(2)府県会規則とは、次のような内容です。
 @議員の選挙権は、地租5円以上納付の満20歳以上の男子、被選挙権は地租10円以上納付の満25歳以上の男子に与えられました。
 A権限は、地方税で賄う経費とその徴収方法の議定に限る。
 B議案はすべて府知事・県令が提出する。府知事・県令が会議の中止権を持つ。内務卿が解散権を持つ。
(3)地方税規則とは、次のような内容です。
 @従来の府県税や民費を地方税に統合して、地租の5分の1以内とする。
 A営業税・雑種税は戸数割にして徴収する。
 B地方税の徴収方法・使徒などを議定することが、府県会の主な任務である。
 8月20日、大審院は、立志社の挙兵派の林有造・大江卓は禁獄10年、元元老院幹事の陸奥宗光は禁獄5年、片岡健吉は禁獄100日という判決を下しました。板垣退助は、取り調べがありませんでした。
 8月23日、竹橋の兵営にある近衛砲兵隊の一大隊(230人)は、突如暴動をおこし、制止した砲兵大隊長宇都宮茂敏少佐が刺殺されました。また、近くの参議・大蔵卿大隈重信邸に発砲しました。その後皇居に押し入って天皇に直訴しようとして、そこの西寛二郎少佐に阻まれ、武装解除・逮捕されました。これを竹橋事件といいます。
 8月24日、陸軍裁判所で、竹橋事件の審理が始まりました。
 9月、政府の密偵がつきまとう中、板垣退助は、愛国社再興第一回大会大阪で、開催しました。
(1)士族・豪農や都市の商工業者ら13県13政社の代表は、同一行動で一致しました(士族民権から豪農民権へ)。
(2)大阪に常置委員2名を置き、地方の政社と交流することを決定しました。これは民権運動の画期的出来事です。
 10月13日、首謀者である三添卯之助兵卒ら49人が死刑、111人が准流刑、68人が徒刑、17人が戒役、1人が杖、笞・錮が5人という刑が申し渡されました。その原因は、不明のままですが、西南戦争で功績を挙げたにもかかわらず、大蔵省の方針で、俸給が削減されたことが理由とされています。
 1879(明治12)年3月20日、東京府会が開催されました。これが府県会の開催の最初です。
 3月27日、愛国社第二回大会が大阪で開かれ、18県21政社が参加しました。機関紙などの発行を決議しました。
 6月、愛国社第二回大会の決議を受け、植木枝盛(23歳)は『『民権自由論』』を発行しました。
 11月、愛国社第三回大会が大阪で開かれ、福島県の河野広中ら地方の豪農が参加しました。そして国会開設の請願書名を各政社を中心に全国的に拡大することを決議しました。
 12月、各参議に立憲政体に関する意見書を提出するよう命じました。
 1880(明治13)年3月17日、愛国社第四回大会が大阪で開かれ、2府22県27政社と35未加盟政社が参加しました。国会開設の請願者数は8万7000人に達していました。そこで、社名を国会期成同盟と改称し、国会開設の請願書を天皇に提出することを決定しました。
 4月5日、民権運動の盛り上がりに驚いた政府は集会条例を公布しました。その内容は次の通りです。
(1)政治集会・結社は、3日前に届け出て、警察署の事前の許可を必要とする。
(2)臨検警察官に集会解散権を与える。
(3)軍人・教員・生徒の集会禁止、政社相互の連絡禁止、公衆の誘導などを禁止する。
 4月17日、片岡健吉・河野広中らは、上京して、国会開設の請願書を太政官に提出しました。しかし、受理されませんでした。
 5月8日、片岡健吉・河野広中らは、国会開設の請願書を元老院に提出しました。しかし、受理されませんでした。
 5月末、各参議に対して課していた立憲政体に関する意見書を、7参議が提出しました。
 11月10日、国会期成同盟第二回大会が東京で開かれ、2府22県の13万人を代表する同盟委員64人が参加しました。国会期成同盟を大日本国会期成有志公会と改称しました。
 12月23日、集会条例を改正し、警視庁官・地方長官に、政治結社解散権および1年間演説禁止権を与えました。
 12月27日、元老院国憲取調委員は、日本国憲按を議長に提出しました。
 12月28日、議長大木喬任は、日本国憲按を天皇に提出しました。しかし、岩倉具視(56歳)・伊藤博文(39歳)は、「完成した日本国憲按の内容は国体と相いれず」と断じて廃案にすることに決定しました。また、憲法問題では漸進主義をとることを確認しました。
明治維新の三傑の死
 明治維新の三傑とは、木戸孝允・西郷隆盛・大久保利通の3人をいいます。
 木戸孝允は、桂小五郎といい、藩医の家に生まれますが、病弱であったといいます。小五郎は、いたずらをしながら段々元気になていきます。船頭が乗っている船を川にひっくり返すいたずらをした時、船頭から櫓で頭を殴られ、額に大怪我をしました。木戸孝允となって有名人になっても、この傷が自慢だったといいます。
 吉田松陰に学んだとき、松陰は彼を激賞したといいます。ペリーが来航すると、江川太郎左衛門に砲術を学んでいます。
 桂小五郎は、奇兵隊の幹部です。新撰組が襲撃した池田屋事件にも遭遇しますが、難を逃れます。坂本竜馬の仲介で、犬猿の薩摩の西郷隆盛との間で、h長同盟を結んだのが、桂小五郎です。
 先見性があり、その故か、長州藩主の毛利敬親にも信頼されて、木戸姓を与えられ、木戸孝允となります。妻は、京都の芸妓幾松です。結婚して、木戸松子となり、夫を支えます。
 五箇条の御誓文を完成させたことでも有名です。日本の近代化のために、元同僚・元部下がおこした諸隊脱退騒動では、陣頭指揮して、「帰る故郷」を失くしました。
 西郷隆盛の征韓論にも反対し、大久保利通の征台の役の時には参議を辞職するなど、筋を通しています。
 大阪会議では、伊藤博文の仲介で、大久保利通と会い、漸進的な立憲体制への移行を協議しています。
 晩年、木戸孝允が推薦したのが伊藤博文である。壊し、耕した自分の後継に、種をまき、育てる人物に伊藤博文を据えたところに、木戸孝允の眼力のすごさを感じます。その伊藤博文が四賢堂として尊敬するのが、梨堂の三条実美・対岳の岩倉具視・松菊の木戸孝允・甲東の大久保利通です。木戸と伊藤は、お互いに相思相愛というのが面白い。
 西南戦争の最中に、木戸孝允は、見舞いの訪れた大久保利通の手を握り、「西郷、ええかげんにせんか」(関西弁)と言って、畳の上で往生しました。
 西郷隆盛については、別項で詳細に見てきました。こと戦争など、武力を使うことに関しては天才で、戦国時代ならば、天下をとっていたかも知れません。
 しかし、武断派は所詮、文治時代には、「老兵」として消えて行くのみです。その哀愁が、西郷隆盛のカリスマ性を生んでいるのかもしれません。別な項で述べますが、初期の総理大臣は、薩長が交替で務めます。しかし、その後は、徴収の1人芝居となります。西南戦争で、有望な若者を死なせたからです。そのつけが、回ってきたのです。1将有名になって万骨末代まで枯る(私の造語)です。
 3人目が大久保利通です。伊藤博文が指摘するように、薩摩の西郷隆盛には意識がなく、同じ薩摩の大久保利通に尊敬の念を持っている視点は、日本の近代化の基礎を作った功労者ということです。
 大久保利通は、薩摩の下級武士の子として生まれました。西郷隆盛とは同じ郷中で育ちました。
 お由羅騒動(嘉永朋党事件)で、後に藩主島津忠義の実父島津久光(国父)に疎まれますが、久光が「碁好き」と聞き、必死で碁の勉強に励みました。久光が「もう世の相手をする者はいないか」と尋ねると、「おります」と言うので、呼ぶと、それが嫌いな大久保利通だったと言います。碁をしながら、世間話をしているうちに、久光は、利通の非凡さを見つけ、自分の側役に抜擢します。
 大久保利通の日記には、碁仲間の名前が出てきます。長州の伊藤博文や同郷の後輩である松方正義らです。昭和も戦後になって、日本棋院から名誉7段位が贈られたといいます。昔は茶室、明治は碁、今はゴルフでしょうか。名目はどうであれ、密会の場としては、格好の口実を与えてくれます。
 破壊する段階では、大久保利通は、西郷隆盛の裏に隠れて余り目立ちませんでした。しかし、耕し、種をまく段階では、大きな存在となります。「日本の近代化のために、西郷隆盛の武力を背景に、版籍奉還・廃藩置県・地租改正・徴兵制を断行します」という解釈が多いですが、私は、逆に西郷の力を利用して、利通が断行したと考えています。
 岩倉遣欧使節の副使大久保利通は、ドイツの宰相ビスマルクから大きな示唆を与えられます。それが、日本の経済の近代化です。そのために、木戸孝允と同じく「帰る故郷」を失くします。薩摩の士族しか頭にない西郷隆盛とは、戦うスケールが違います。
 大久保利通が暗殺された時、遺産はなく、8000円の借金がありました。
 九州に行ったとき、西郷さんのことをほめる人ばかりでした。大久保さんは、西郷さんを裏切ったという反動で、全く人気がありませんでした。そこでつい、大久保さんのいいところを本音で、書いてみました。
 今の政治家に、「帰る故郷(票田)を失う」覚悟の人がいるかと問いたい。世俗の人間と違い、出家した僧侶や志を立てて立候補した政治家の役割は重い。それ故に、皆が尊敬するのです。
 バカにされる僧侶や政治家は、世俗との垣根が余りにも低いからです。

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