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エピソード

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自由民権運動V(官有物払下げ事件、明治十四年の政変、国会開設の勅諭)
 1880(明治13)年5月末、各参議に対して課していた立憲政体に関する意見書を、7参議が提出しました。その多くが漸進を基調にしていました。
 1881(明治14)年3月、これを知った大隈重信は、突如、国会開設意見書を左大臣有栖川宮熾仁親王に提出しました。その内容は、「明治16年に国会を開設し、イギリス風の政党内閣制をめざす」というものです。
 4月、交詢社矢野文雄馬場辰猪ら)は、「私擬憲法案」を発表しました。
 5月、立志社は、「日本憲法見込案」を発表しました。
 6月、伊藤博文は、太政大臣を通じて大隈意見書を借覧しました。
 7月5日、伊藤博文は、大隈重信に面会し、「君権を人民に放棄するものだ」と非難しました。
 この頃、国会の早期開設派と漸進派の対立が鮮明化しました。
(1)早期開設・英国風議院内閣制を主張する代表
 @肥前の参議兼大蔵卿大隈重信で、国会開設意見書を発表しています。
 Aこれを支持するのが、三菱福沢諭吉らの交詢社です。
(2)国会開設漸進派の代表
 @長州の伊藤博文・岩倉具視で、天皇制の絶対化を目指しています。
 Aこれを支持するのが、三井井上馨です。
 7月21日、参議兼開拓使長官の黒田清隆は、開拓使官有物払下を太政大臣に申請しました。
 開拓使所属の官有物と牧畜所・造船所など(1500万円)を39万円の無利子30年賦で、薩摩の長官黒田清隆が関西貿易社(経営は薩摩の政商五代友厚)に払下げるという内容だったので、左大臣の有栖川宮熾仁と参議兼大蔵卿大隈重信が反対し、紛糾しました。三菱の岩崎弥太郎は、明治13年の払下を申し出て、拒否されていました。
 しかし、閣議は、薩摩閥のごり押しで、払下を決定しました。
 7月26日、『横浜毎日新聞』は、社説で、「関西貿易の近状」と題して、開拓使払下げ事件を暴露しました。これを読んで、世論の批判が広まりました。これを開拓使官有物払下げ事件といいます。
 8月25日、沼間守一福地源一郎らは、東京新富座で開拓使払下げ反対の演説を行いました。仕事を投げ打って参加したものが数千人もいました。大阪でも数千人が参加しました。各地でも反対の演説会が開かれました。民権運動は、豪農から都市民へと拡大しました。
 8月、植木枝盛は、日本国憲法草案を発表しました。その中には、「政府が国憲に背き、人民の権利を侵害し、建国の趣旨を妨げるときは、日本国民は、これを覆滅し新政府を建設することができる」という内容もありました。
 9月12日、陸軍中将の鳥尾小弥太谷干城や少将の三浦悟楼らは払下の取り下げを主張しました。
 9月23日、尾崎行雄ら大隈重信系の政治家は、板垣退助に対して、払下げ事件で高揚した倒閣運動への結集を訴えましたが、板垣退助は大隈派との提携を拒否して、政党の結成を優先しました。
 9月28日、元老院の谷干城・佐々木高行らは、開拓使払下と民権運動の双方に反対しました。
 10月1日、国会期成同盟第二回大会に出席のため出京していた有志は、自由党の組織化を決議しました。
 10月2日、元老院の谷干城・佐々木高行らは、大隈打倒と中正党の組織などを協議しました。
 10月8日、参議の伊藤博文は、右大臣の岩倉具視に対して、「人心を収攬するためには、国会開設の期日決定は急を要すること」「期日は明治23年を適当とする」を進言しました。伊藤博文の考えは、民権派の機先を制して、国会開設を政府主導で行うことにあります。
 10月11日、御前会議で、(1)立憲政体に関する方針(2)開拓使官有物払下げ中止(3)大隈重信の参議罷免を決定しました。これを明治十四年の政変といいます。
 10月12日、「明治23年に国会を開設する」旨の詔勅が出されました。これを国会開設の勅諭といいます。
 この時、岩倉具視の提案で、欽定憲法の基本方針が決定されました。プロシア風の統師権や文武官の任免権を含む天皇の強大大権、二院制、議院内閣制の否定、制限選挙制までも検討されていました。
大隈重信とはどんな人?
 薩長中心の歴史では、大隈重信は、明治十四年の政変で、突如、歴史の表舞台に出た感じです。ここで、傍系肥前から、歴史の中央に名を成したのかを調べてみました。
 大隈重信は、肥前の藩士の長男として生まれました。藩校である弘道館に入りますが、肥前藩の葉隠思想に反発して、蘭学を学ぶために蘭学寮に入りました。長崎に出て、アメリカ人宣教師のフルベッキに新約聖書とアメリカの独立宣言のことを学び、ショックを受けました。その後、藩主鍋島直正にオランダ憲法を教授して、注目を浴びるようになりました。オランダ語より英語が重要だとわかると、英語の勉強もします。
 大隈重信は、藩主鍋島直正に討幕運動への参加を訴えましたが、聞き入れられなかったので、脱藩して、大政奉還運動に参加しました。
 その運動により、明治新政府では、外国官副知事になったり、参議・大蔵卿に出世します。維新の三傑がなくなると、参議筆頭として、早期の国会開設を図って、明治十四年の政変をおこします。
 慶応3年6月、長崎奉行が浦上のキリスト教徒68名を逮捕する浦上信徒事件がおこりました。列国は、これに対して激しく抗議しました。新政府は、その対応に苦慮しました。
 イギリス公使のパークスは、「大隈の如き身分低き輩と談判はできぬ」と発言すると、大隈重信(30歳)は、「天皇の御名により政府を代表する者を拒むは、自らこれまでの抗議を撤回したものと見なすが、如何か?」と反撃しました。次いで、パークスが浦上信徒事件を取り上げて追求すると、大隈重信ははキリスト教史や万国公法を例に出して、逐一反論をし、パークスらの要求を内政干渉として、拒否しました。ディベートの達人でもあります。
 大蔵卿として大隈重信がやったことは、貨幣制度です。従来の貨幣の形を改め、「外国貨幣が円形で携帯に便利である」として、円形の貨幣を鋳造させたり、従来の四進法を外国にならって十進法にしました。外国に行かなくても、学問によって、先進の文化を導入できる人でもあります。
 近代的郵便制度の父といえば、すぐ前島密をあげるでしょう。しかし、傍系(越前高田藩士で、後に幕臣)の前島密を駅逓司の駅逓権正に抜擢したのが、民部大輔であった大隈重信です。
 江戸時代、飛脚として蔑視されていた郵便制度を、国家事業としたのが、大隈重信です。「信書往復ハ全国之景況声息ヲ通ジ物貨平準之路ヲ疏シ実治国之重件世上交際之要務」というのです。
 これは、後に分かったことですが、明治十四年の政変で、大隈重信が罷免されると、前島密も辞任し、第二代東京専門学校(今の早稲田大学)の校長に就任しています。
 前島密が郵便制度の父なら、大隈重信は郵便制度の祖父ということになります。
 傍系の人が、出世するには、並大抵の努力と、実力と、時代を見る目が必要だということがよく分かります。

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