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エピソード

182_02

自由民権運動W(政党の結成、自由党、立憲帝政党、私擬憲法)
 明治十四年の政変で、政府は、「明治23(1890)年、つまり10年後」の国会開設を公約しました。
 国会が開設されつと、国会議員が必要です。国会議員は、政党が必要です。政党とは、治上同じ考えや理想をもつ人々が集まり、政権を取ってその考えや理想を実現するためにつくった(団体)のことです。 
 1881(明治14)年4月、交詢社矢野文雄馬場辰猪ら)は、「私擬憲法案」を発表しました。
 5月、立志社は、「日本憲法見込案」を発表しました。
 7月、開拓使長官の黒田清隆は、開拓使官有物払下を太政大臣に申請し、官有物払下げ事件がおきました。
 8月、植木枝盛は、「東洋大日本国国憲按」を発表しました。その中には、「政府が国憲に背き、人民の権利を侵害し、建国の趣旨を妨げるときは、日本国民は、これを覆滅し新政府を建設することができる」という内容もありました。
 10月、千葉卓三郎らは、「日本帝国憲法」(「五日市憲法草案」)を発表しました。
私擬憲法(憲法私案の総称)
起草者 私擬憲法名 系列 特徴
交詢社 「私擬憲法案」 改進党系 立憲君主制・政党内閣・二院制・制限選挙
立志社 「日本憲法見込案」 自由党系 人民主権・一院制・抵抗権・人権の保障
植木枝盛 「東洋大日本国国憲按」 自由党系 人民主権・連邦制・一院制・革命権・女性参政権
千葉卓三郎 「五日市憲法草案」   議院内閣制・三権分立・君民共治・人権の保障
 10月12日、明治十四年の政変がおき、「明治23年に国会を開設する」旨の詔勅が出されました。
 10月18日自由党結成会議が、東京浅草で開かれ、自由党盟約・自由党規則を決定しました。
(1)党首は板垣退助、党員は中島信行後藤象二郎片岡健吉河野広中大井憲太郎星亨らです。
(2)主張はフランス系急進的自由主義です。
(3)支持者は弁護士・士族などの知識人、地方農村の豪農・地主・農民、商工業者らです。
 1882(明治15)年2月、矢野文雄・尾崎行雄犬養毅らは、東洋議政会を組織しました。
 3月3日、伊藤博文は、憲法調査のため、欧州に出張しました。ベルリン・ウィーンでグナイストシュタインモッセらから講義を聞きました。
 3月14日、河野敏鎌前島密小野梓らは、嚶鳴社(沼間守一ら)・東洋議政会(尾崎行雄ら)と協議して、立憲改進党の趣意書を発表しました。
 3月18日、福地源一郎・丸山作楽らは、立憲帝政党を組織しました。
政党名 党首 参謀 政策 国会 主権 選挙 支持層
自由党 板垣退助 後藤象二郎・
星亨
フランス流急進
的自由主義
一院制 在民 普通 士族
豪農
改進党 大隈重信 犬養毅・
尾崎行雄
イギリス流漸進
的立憲主義
二院制 君民
同治
制限 知識層
ブルジョワ
帝政党 福地源一郎 丸山作楽 国粋主義
政府保護
二院制 在君 制限 官僚・神官
僧侶・国学者
 4月、自由党総裁の板垣退助は、遊説中、岐阜で襲撃されました。
 5月、福島県会は、県令三島通庸の道路工事強行に反対し、地方税議案を否決しました。
 6月、中江兆民は、『民約訳解』を出版しました。
 6月、集会条例を改正しました。その内容は、次の通りです。
(1)地方長官に1年以内の演説禁止権・解社命令権を与える。
(2)内務卿に一般的な結社集会禁止権を与え、政治結社の支社設置禁止などを追加する。
 7月、壬午事変がおこりました。
 9月、自由党員の馬場辰猪らは、総理である板垣退助の外遊反対を決議しました。
 10月、自由党系の新聞「『自由新聞』は、立憲改進党と三菱の関係を攻撃しました。
 11月11日、板垣退助・後藤象二郎は、横浜を出発し、ヨーロッパに向かいました。
 11月28日、福島県民数千人は、道路事業中止を要求した総代が逮捕されたことに抗議して、警官と衝突しました。
 12月1日、福島県自由党幹部の河野広中らは、政府転覆の盟約作成の容疑で逮捕されました。これを福島事件といいます。
 12月7日、右大臣の岩倉具視は、府県会が政府蔑視の勢いにあるとして、断固府県会を中止すべしとの意見書を太政大臣に提出しました。
 1883(明治16)年1月、馬場辰猪は、『天賦人権論』を発表しました。
 1月、植木枝盛は、『天賦人権弁』を発表しました。 
「板垣死すとも自由は死せず」の真偽?
 以前、私は、教科書に出てくる史跡は全て回るということで、斉藤道三が築城したという稲葉山城(岐阜城)に行ったことがあります。金華山に築かれた稲葉山城は、周囲を長良川に囲まれ、とても近づくことが出来ない、天然の要害でした。時間の制約もあり、徒歩で天守閣まで登れないので、ロープウエーを利用することにして、乗り口に移動した時、「板垣君殉難の碑」を発見しました。そういえば、稲葉山城は岐阜にありました。
 その場所で演説中、暴漢に襲われ、「板垣死すとも自由は死せず」と言ったということになっています。格好いいじゃないですか。
 これを機会にもっと詳しく調べることにしました。
 明治15年4月6日、板垣退助は、岐阜市内の会場が警察の妨害で使えず、市外の厚見郡富茂登村(現岐阜市)で演説会を開きました。板垣退助は、演説を終わって会場の玄関を出たとき、1人の男が「国賊」と叫んで、短刀で襲ってきました。板垣退助は素手で身をかわしましたが、手と胸に傷を受けました。病院で治療中、「自分が死んだらどうなるか」と言ったのが、翌日の新聞では、「板垣死すとも自由は死せず」と書きたてられました。
 しかし、この言葉が独り歩きし、大衆を感激させ、板垣退助は、「自由民権の神」とされたということが分かりました。
 最近(2005年)の若貴(兄の横綱若乃花と弟の横綱貴乃花)騒動を思い出させます。マス=コミは、この2人を理想の兄弟のように仕立て上げ、2人をそのように演じさせてきて、大衆に媚び、視聴率を上昇させてきました。
 実態と報道の間には、大きな距離があるということです。
 明治14年、五日市の学校の先生らが、私擬憲法の動きの中で、憲法をつくりました。これを「五日市憲法草案」といいます。江戸時代における教育レベルの高さを象徴する出来事です。その条文を調べてみました。
(1)45条「日本国民ハ各自ノ権利自由ヲ達ス可シ、他ヨリ妨害ス可ラス、且国法之ヲ保護ス可シ」(基本的人権の規定です)
(2)76条「子弟ノ教育ニ於テ其学科及教授は自由ナルモノトス、然レドモ子弟小学ノ教育ハ父兄 タル者ノ免ル可ラサル責任トス」(教育権と義務教育の規定です)
(3)86条「民撰議院ハ行政官ヨリ出セル起議ヲ討論シ又国帝ノ起議ヲ改竄スルノ権ヲ有ス」(国会と天皇の規定です)

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