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エピソード

184_01

民権運動の激化T(板垣退助の外遊問題、福島事件、高田事件)
 自由民権運動は、人間の基本的な欲求である自由でありたい、自分が認められたいという自然な発想による運動です。しかし、それが相手に危害を加えるような過激な行動に変化します。何故なのか、その理由を、探って見ました。
(1)大蔵卿(後の大蔵大臣)松方正義は、松方デフレ政策(増税と紙幣整理)を推進し、その結果、農村の分解が進みました。
(2)政府に保護された形の寄生地主は、殖産興業に力を注ぐようになり、民権運動から離脱していきました。
(3)宮総代(リーダー層)が抜けた後の農村では、制止する人がいなくなり、過激化していきました。
(4)板垣退助らリーダーを失った自由党員が、暴走して、過激化していきました。
 多くの書籍を見ても、自由党や農民に過激化の原因を探っています。
 私は、別な視点を持っています。中央政府側の動きです。福島事件を見ても、「暴動を起こさせ、それを原因で弾圧する」意図が見て取れます。
 伊藤博文や山県有朋らは、先の遣欧使節から、プロシア式の憲法・国会を受け継ぎました。国王が絶対的権限を握った憲法・国会です。
 国王がいる点では、イギリスと同じですが、「君臨すれども統治せず」です。フランスは、国王がいない共和政です。日本の「国体」と相容れない憲法・国会は、断固、排除するという方針が採用されていたのではないでしょうか。
 1877(明治10)年、山形県の県令三島通庸は、「ワッパ事件」で山形の民権運動を弾圧し、「土木県令」とか「鬼県令」と恐れられました。
 1881(明治14)年10月、自由党が結成されました。この時の党員は101人でした。
 1882(明治15)年2月、「鬼県令」の三島通庸は、山形県から福島県に着任しました。
(1)三島通庸は、薩摩閥で、大久保利通直系の官僚です。
(2)「火つけ強盗と自由党とは管内に一匹もおかぬ」と豪語し、福島自由党を弾圧するためにやってきたのです。
(3)福島県は、東日本では最も古い民権運動の歴史を持ち、福島自由党は27人の県会議員を出し、県会議長に河野広中を出し、県会を牛耳っていました。
 3月、県令三島通庸は、会津6郡の郡長を召集し、会津三方道路の開設を命じました。
(1)会津三方道路とは、@若松〜米沢〜山形A若松〜大田原〜東京B若松〜新潟を結ぶ道路で、延べ170キロの道路のことです。
(2)会津6郡に住む15歳以上60歳までの男女は貧富の差なく毎月1日ずつ、2年間夫役(無賃労働)に出る。夫役に出られぬ者には、男は1日15銭、女は1日10銭の代夫賃を出す。それも出せない者は家財道具を押収する。
(3)国庫金が下付された場合、負担は重くないと説明し、地元民の了承を得ました。
 3月、長州の参議伊藤博文は、憲法を調査するため、欧米に出発しました。
 4月、板垣退助は、遊説中、暴漢に襲われ、負傷しました。これを岐阜事件といいます。
 4月、県令三島通庸は、県会を招集しました。それと同時に集会条例で、自由党の演説会を弾圧しました。三島通庸が提案した内容は次の通りです。@予算案は前年後の33%の増額A地方税地租別の負担は2倍半でした。
 5月4日、福島県会は、県令三島通庸の出席を何度も要請しましが、三島通庸は一度も出席しませんでした。そこで、議長の河野広中は、「人民の膏血たる数千万の地方税は、いたずらに敵に糧をかし、盗人に鍵を与えるのとどこにちがいがあろうか」と三島通庸を弾劾しました。
 5月6日、三島通庸が提案した議案(道路工事強行や地方税議案)は、23対22で否決されました。
 6月3日、集会条例を改正しました。その内容は、次の通りです。
(1)地方長官に1年以内の演説禁止権・解社命令権を与える。
(2)内務卿に一般的な結社集会禁止権を与え、政治結社の支社設置禁止などを追加する。
 6月6日、三島通庸は、内務卿に直訴しました。内務卿は、再申請させた予算執行権を三島通庸に与えました。
 6月29日、三島通庸は、三方道路の路線の査定を命令し、6郡長に「3月に遡って代夫賃を徴収するように」と命じました。しかし、6郡長は「工事も始まっていない」と反対すると、三島通庸は「応じなければ強制執行する」と脅しました。
 6月30日、県令三島通庸は、会津士族に16万円を与え、テロ集団の会津帝政党を作らせました。
 7月、三井を中心とした半官半民の共同運輸会社が、三菱汽船会社の独占を打破するために、設立されました。渋沢榮一や長州の井上馨らが支援しました。
 8月17日、三島通庸は、会津三方道路の工事を強行しました。
 8月17日、福島本部から応援に来ていた自由党員や地元の自由党員幹部が泊まっている旅館を、会津帝政党員が襲撃しました。旅館の主人が警察に届けようとしたときには、警察官が出動していました。これを知った若松裁判所の検事が憤慨すると、三島通庸は、子分の検事と交代させました。
 8月23日、三島通庸は、代夫賃を出さない農民から、家財道具や種籾などを押収して競売にかけました。
 9月9日、改進党系『東京横浜毎日新聞』は、「板垣退助の外遊は、政府の術中に陥るものである」と非難しました。
(1)政府の伊藤博文・井上馨・山県有朋(共に長州閥)は、費用は三井から出させ、後藤象二郎を抱き込み、板垣退助を説得させたことがわかりました。
(2)その根拠は、「フランスを見たこともない板垣退助が、フランス流自由主義を宣伝する理由がわからない」というものでした。
 9月17日、自由党員の馬場辰猪田口卯吉らは、外遊資金の出所に疑惑が出てきたので、「板垣退助総理の外遊反対」を決議しました。しかし、板垣退助は、幹部の馬場辰猪らに「他日若し今回の事件にして、余に一点汚穢の事実の確証する者あらば、余は諸君に対して、其罪を謝するに割腹を以てせん」と誓約しました。
 9月20日、会津の耶麻郡の42カ村2600人の代表が「工事服役不服訴訟」の訴状を若松裁判所に提出しました。しかし、若松裁判所の検事はこれを却下しました。
 10月17日、会津の民権家の代表は上京して、県会事件を参事院に訴えるため上京していた河野広中と会い、自由党本部からの応援壮士の派遣を依頼しました。しかし状況を理解できない河野広中は、「一部のためにかかわっておれない」と冷淡でした。
 10月24日、自由党系の『自由新聞』は、改進党と三菱会社の関係を暴露して、「偽党撲滅」を主張しました。
 11月11日、板垣退助・後藤象二郎は、横浜を出発し、ヨーロッパに向かいました。憤激した馬場辰猪や田口卯吉らは、自由党を脱党しました。
 11月14日、会津の民権家の代表は、8000人の委任状を添えて、「工事服役不服訴訟」の訴状を宮城控訴裁判所に提出しました。
 11月18日、緊迫する情勢に、福島に帰ってきた河野広中らは、会津代表の宇田成一・自由党本部派遣員と会談して、訴訟に集中して取り組むことを決定しました。
 11月19日、耶麻郡長は、警察官を同行して、もっとも強硬な農民12人に対し、公売落札品を押収しました。
 11月20日、喜多方警察署に抗議した代表2人が逮捕されました。
 11月23日、代表2人の護送を阻止しようと、1000人の農民が集合しました。
 11月24日、県令の三島通庸は、指導者宇田成一らを逮捕しました。
 11月28日、福島県民数千人は、道路事業中止を要求した指導者の宇田成一らが逮捕されたことに抗議して、弾正ヶ原に集会しました。代表3人が、宇田成一らの釈放を要求している間に、集会に参加していた間者(スパイ)が、警察署の窓ガラスに石を投げつけました。これを合図に、警官隊が農民に襲いかかりました。
 11月29日、警官隊は、福島の自由党本部を包囲して、幹部40人を逮捕しました。また、福島県下で1000人の農民が検挙されました。
 12月1日、福島県自由党幹部の河野広中ら400人は、裁判闘争を重視していたにも拘らず、政府転覆の盟約を作成したという容疑で逮捕されました。これを福島事件といいます。
 1883(明治16)年3月、北陸地方の自由党員26人は大臣暗殺・内乱陰謀のかどで逮捕されました。これを高田事件といいます。しかし、起訴されたのは、自由党員の赤井景紹だけでした。
 4月、自由党大会は、改進党攻撃を決議し、「偽党撲滅演説会」を各地で開きました。
 5月、三井系の共同運輸会社は、郵便汽船三菱会社と対抗するため、神戸・横浜間の航路を開始しました。
 6月、板垣退助・後藤象二郎は、外遊から帰国しました。板垣退助は、フランスに失望し、「日本の生活は低いが、政治は進歩している」「海軍を大増設しなければ、日本はあぶない」と演説する変貌ぶりでした。多くの自由党員が板垣退助から離れていきました。
 7月、右大臣だった岩倉具視が病死しました。時に59歳でした。
 8月、憲法調査のため外遊していた伊藤博文らは、横浜港に帰着しました。
 9月1日、東京高等法院は、福島事件の被告河野広中ら6人に軽禁獄7年以下の判決を言い渡しました。
 9月24日、立憲帝政党は、解散を公告しました。
 12月、東京高等法院は、赤井景紹に対して、重禁獄9年の判決を言い渡しました。
 1885(明治18)年6月、郵便汽船三菱会社と三井系の共同運輸会社の競争は、激烈を極め、四日市・東京間の運賃を米100石につき10円に引き下げました。
 7月、郵便汽船三菱会社と三井系の共同運輸会社の両社は、運賃を70%割引き、その上、菓子付き競争にエスカレートしました。
 9月、政府の勧告で、郵便汽船三菱会社と三井系の共同運輸会社の両社は合併し、日本郵船会社が設立されました。
 この項は、『教授資料詳説日本史』『物語日本近代史』などを参考にしました。
板垣退助は、さっぱり分からん
 改進党系の『東京横浜毎日新聞』や『郵便報知新聞』は、自由党総理板垣退助外遊をめぐり、その費用が政府から支出されたと暴露しました。
 それに対して、自由党は、「偽党撲滅大演説会」を行い、「海坊主退治」を主張ました。偽党とは改進党のことです。海坊主とは、改進党と関係のある岩崎弥太郎の三菱会社のことです。岩崎弥太郎は、内務卿大久保利通・大蔵卿大隈重信の庇護により政商として巨万の富を蓄積しました。三菱と共同運輸事件が背景にあります。
 在野の改進党と自由党が「鼻クソ目クソ」の争いをすれば、政府にとってはありがたいことです。それを狙っての板垣外遊が、成功した理由は、どこにあるのでしょうか。
 板垣退助ほどの人物が、政府のワナにひっかかったとは思いたくありません。私は、この暴露合戦が、板垣の洋行後だと思っていました。しかし、暴露合戦の渦中に出かけているのです。しかも、「噂のように三井から金が出ているなら切腹する」と幹部に誓約して、出かけています。板垣退助の心理が、私のような凡人には理解できません。
 自由党の東日本の拠点である福島自由党を弾圧するために、三島通庸は県令として、福島に乗り込みました。自由党員やその支持者の農民が弾圧されて、一触即発の最中に、板垣退助は、外遊しています。
 まさに敵前逃亡です。板垣退助の心理が、私のような凡人には理解できません。
 福島事件を丹念に調べると、三島通庸が福島自由党を弾圧するためのワナであったように思います。
 言論に対する弾圧は、限界があります。そこで武力蜂起させるように、仕組んだのではないでしょうか。喧嘩の仲裁は難しいが、喧嘩をさせることは簡単です。嫌がらせをすればいいのです。
 分かっていても、武力蜂起してしまう、そんなムードが背景にあったのでしょう。

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