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民権運動の激化U(三島通庸、秩父事件、大同団結運動、保安条例) | |
1 | 伊藤博文は、ヨーロッパを視察し、日本の「国体」をプロシア式(絶対的立憲君主制)にするという決意で、帰国しました。 伊藤博文らにとっては、最後の仕上げです。フランス式(共和政)・イギリス式(民主的立憲君主制)を排除することが出来るのか。 |
2 | 1883(明治16)年9月、福地源一郎は、立憲帝政党を解党しました。政府の思惑第一号です。 11月、自由党総理板垣退助の変節により、解党を考える右派と抗戦派(左派)が対立する中、妥協して浅草で、自由党臨時大会が開かれました。80人の出席者のほとんどが、東日本の自由党員でした。内部で争っては、エネルギーが消耗され、外部に目が行きません。 |
3 | 1884(明治17)年2月、抗戦派の大井憲太郎は、埼玉県の秩父に遊説に来ました。松方デフレ政策により、秩父の養蚕農家(住民の90%)は生糸の暴落で壊滅的な打撃を受けていました。地元で生糸の仲買人をしている井上伝蔵は、自由党に入り、高岸善吉らの青年にも入党させました。ここに秩父困民党が組織されました。 3月、政府は、宮中に制度取調局を設置しました。伊藤博文は、そこの長官となって、憲法および皇室典範の起草に着手しました。 3月、自由党大会が、浅草で、開かれました。土佐からは板垣退助・片岡健吉、左派の大井憲太郎、中間派の星亨・植木枝盛ら61人が出席しました。 |
4 | 4月、群馬の青年自由党員らは、福島事件にも参加し、「専制政府を打破し、貧民を救済するには、実力行使あるのみ」という信念で、各地で演説し、「天に代わりて逆賊を誅す」と主張しました。賛同する者は、竹槍を持ち、ムシロ旗を掲げて行進し、抑えようとする警察官と衝突しました。 5月5日、群馬の青年自由党員らは、日本鉄道高崎線の開通式に出席する政府高官を暗殺するために、準備していましたが、警察からの連絡で、開通式は延期となりました。 5月13日、群馬の青年自由党員らは、手をこまねいたのでは大衆の熱気が冷めると思い、妙義山の麓の陣馬ケ原に動員をかけると、3000人の農民が集合しました。 5月16日午前2時、高利貸専門会社に乱入し、松井田検察分署を襲撃しました。その後、42人が逮捕されました。これを群馬事件といいます。自由党員の軽挙に農民が蜂起した事件といえます。 7月、華族令を制定しました。 8月、秩父困民党の井上伝蔵らは、高利貸や秩父郡役所に返済の延期を申し入れましたが、拒否されました。 |
5 | 9月、秩父困民党の会合が、吉田村の高岸善吉の家で開かれました。大宮の没落旧家である田代栄助ら105人が参加しました。高利貸に対して「借金の10カ年据え置き、40年賦」の申し入れを決議しました。しかし、効果はありませんでした。 9月10日、青年壮士らは、東京の質屋から6円の現金を奪って逃走しました。彼らは、自由党の有一館(幹事は磯山清兵衛)に出入りする若者で、「県令三島通庸暗殺」用の爆弾製造費用を調達するため、強盗を働いたのです。この時、三島通庸は、福島県令から栃木県令になっていました。 9月22日、茨木県の有為館(幹事は田宮太平)が関東一円の武装蜂起を計画していると聞き、爆弾を製造した青年壮士らも駆けつけました。合計16人になりました。 9月23日、茨城県の加波山神社に本拠を移し「革命軍を加波山にあげ、自由の公敵である専制政府を転覆し、自由立憲政体をつくりだす」という檄文を配布しましたが、挙兵する農民はいませんでした。 9月24日、警官隊と衝突し、逮捕されました。その後、7人に死刑などの判決が出ました。これが加波山事件です。 |
6 | 10月12日、秩父困民党の幹部は、井上伝蔵の家に集まり、今までの方法を批判し、「一命を投げ出し、高利貸の家から書類を奪う」という武装蜂起を決議しました。その日を「11月1日とする」ことが決まりました。 10月29日、板垣退助は、自由党を解党しました。政府の思惑第二号です。解党の理由は、以下の通りです。 (1)党員の知識が低く、団結の行動が取れないこと (2)政府が干渉して自由な行動が取れなかったこと 10月、名古屋地方の自由党員は、挙兵資金のための強盗殺人容疑で、逮捕されました。後に、名古屋重罪裁判所は、20人に対して、無期徒刑などの判決を申し渡しました。これを名古屋事件といいます。 |
7 | 11月1日、秩父の農民3000人は、椋神社に集結しました。総理は田代栄助、参謀は長野から来た菊池菅平、会計長は井上伝蔵が任命されました。総理の田代栄助は「貧民を救う正義の兵である。悪い高利貸をやっつけてもよいが、一般の人には乱暴をしてはいけない」と演説しました。その夜、諏訪神社に野営しました。これを秩父事件といいます。 11月2日、荒川を渡り、秩父の中心部の大宮に入りました。菊池管平の進言で、郡役所に本部を移しました。参加者は、1万人の増加しました。 11月2日、これを知った政府は、東京鎮台の一個大隊を派遣しました。民衆運動に軍隊が出動した最初です。 11月3日、秩父困民党軍は、政府軍と皆野で交戦しました。 11月4日、秩父困民党軍の武器は300の旧式火縄銃で、政府軍は新式の村田銃です。困民党軍は総崩れになりました。菊池管平らの一隊は、長野県佐久地方に敗走する途中、警察や高利貸を襲撃しました。 11月9日、秩父困民軍は、佐久地方で政府軍と交戦し、壊滅しました。その後7人が死刑、4000人が処罰されました。 |
8 | 12月4日、朝鮮の京城で親日派のクーデターがおこりました。しかし、失敗しました。これを甲申事変といいます。 12月6日、愛知・長野の自由党員らの挙兵計画が発覚し、村松愛蔵らが逮捕されました。後に、軟禁獄7年以下の判決が申し渡されました。これを飯田事件といいます。 12月17日、立憲改進党総理の大隈重信・副総理河野敏鎌は、同党から脱党しました。事実上立憲改進党は解党されたことになります。政府の思惑第三号で、完結です。 |
9 | 1885(明治18)年4月、甲申事変の処理として、日本と清国との間で、天津条約が締結されました。内容は、朝鮮からの両軍の撤退などでず。 11月、旧自由党の大井憲太郎・磯山清兵衛・景山英子らは、大阪で会合し「甲申事変失敗を機に、朝鮮の保守政権を打倒し、独立党政権を樹立し、日本国民に政治の関心を喚起し、それによって民権運動の再興を図ろう」としました。朝鮮渡航直前に発覚し、大井憲太郎ら130人が逮捕されました。その後、大阪重罪裁判所は、36人に有罪を申し渡しました。これを大阪事件といいます。 |
10 | 1886(明治19)年9月、外務大臣井上馨が提出した裁判管轄条約案(外国人判事・検事の任用)を各国が了承しました。 1887(明治20)年7月、農商務大臣の谷干城は、井上馨の裁判管轄条約案に反対して、辞職しました。 8月、条約改正に反対して辞職した谷干城を支持する300人のデモがおこりました。 10月、旧自由党・改進党の幹部である後藤象二郎・星亨らは、「小異を捨て大同につく」という大同団結運動を提唱しました。 10月、高知代表の片岡健吉らは、三大事件建白書を元老院に提出しました。三大事件とは@言論の自由A地租軽減B外交失策挽回(対等条約の締結)の三項目で、事件という名を使っていますが、事件ではありません。 12月15日、2府18県の代表も、三大事件の建白事項の処理を元老院に申し込みました。 12月26日、民権運動の盛り上がりに、政府は、保安条例を公布しました。その内容は次の通りです。 (1)民権派を3年間、皇居外3里の地に追放する。 (2)秘密の結社集会を禁止する。屋外の集会運動を制限する。 (3)尾崎行雄・片岡健吉・中江兆民・星亨ら570人が東京から追放されました。 |
11 | 1888(明治21)年4月、黒田清隆内閣が成立し、後藤象二郎は、逓信大臣に任命されました。それにより、大同団結運動は、諸派に分裂しました。 1889(明治22)年2月、大日本帝国憲法が公布されました。 2月、大井憲太郎は、憲法発布の大赦で出獄し、後に、東洋自由党を結成して、「対外強硬」を主張しました。これを転向といいます。 |
* | この項は『物語日本近代史』・『近代日本総合年表』などを参考にしました。 |
民権運動の激化で思い出す学生運動 | |
1 | 民権運動の激化を文書化していると、何故か、私の学生時代を思い出しました。授業が始まるまでの空き時間に、学生運動家が、アジテーションにやって来て、難解な用語を使って、なにやらまくしたてていました。大学の教授がくると、「失礼しました」と挨拶して、去って行きました。授業にはあまり支障はありませんでした。 大学の4年生の頃になると、民権運動で語られるような過激な発言もありました。ジーパンに、顔を何故か日本手拭で隠して、ゲバ棒を持ってデモに参加する同級生も増えていきました。 しかし、就職を目前に控えると、あの勢いは何処に行ったかと思うほど、スーツ姿のリクルートファッション(当時はその用語はありませんでした)に身を固めていました。 扇動していたリーダーは、親から仕送りを受け、大学に居残って、今や大学の教授です。真剣についていった(?)真面目な下部ほど、就職では、本音を言って、困ったようです。 |
2 | 次に3億円事件を思い出しました。その内容は、次の通りです。 1968年(昭和43年)12月10日午前9時30分、日本信託銀行の支店から東芝府中工場へボーナス3億円を輸送中に、事件はおきました。白バイが輸送車の前で停車し、「この輸送車にもダイナマイトが仕掛けられている」と言って行員を車から降ろさせました。白バイの警察官が 「爆発するぞ! 早く逃げろ」と避難させ、輸送車ごと運転して逃走したのです。当初、犯人が残した遺留品が120点もあり、楽観ムードがありました。 警察官を延べ17万人投入し、容疑者リストの11万人を取り調べましたが、結局、犯人は検挙できず、時効となりました。 1970年は、安保改定の年です。1968年、現場の学生を対象に、アパートローラー作戦が実施されました。この結果、学生運動を鎮圧することに成功しました。このことから、今も、この3億円事件は、警視庁公安部による謀略だったという説があります。この説は、たけしのTV番組でも紹介されていました。 |
3 | この民権運動の激化の時代、たくさんの事件が発生しました。生徒は、「どれから覚えたらいいのですか」と聞いてきます。私は、在職中、予備校からお呼びがありました。しかし、断りました。その理由は、「テストに出る」と脅迫して、歴史を覚えさせる指導に疑問をもっていたからです。今、書店に行ってみると、予備校講師の本が満開の状態です。 私は、「重要だから、覚えるのであり、重要だからテストに出るのだ」という持論です。福島事件は激化した最初の事件であり、秩父事件は民衆運動に軍隊が出動した最初の事件です。だから、重要なのです。私は、「ここをテストに出すから(大学入試に出るから)よく覚えておくように」などと、言ったことはありません。 |
4 | 秩父事件を調べるうちに、「秩父暴動」により裁判で7人が死刑、4000人が処罰されたと知り、郷土の恥ずべき歴史と考えていた人がいることを知りました。 しかし、暴動に参加していた人に対する聞書きを通じて、史実が解明され、郷土の誇るべき歴史だと信ずるようになった人がいることも知りました。 人間の歴史には、裏も表もあるということです。 |
5 | 保安条例の第四条に、次のような規定があります。 「皇居又は行在所を距る3里以内の地に住居又は寄宿する者にして内乱を陰謀し又は教唆し又は治安を妨害するの虞ありと認むるときは、警視総監又は地方長官は内務大臣の認可を経、期日又は時間を限り退去を命じ、3年以内同一の距離内に出入・寄宿又は住居を禁ずることを得」 3里の1里とは、36町で、3.9キロにあたります。3里とは、約12キロです。1キロは徒歩15分なので、徒歩3時間の距離です。皇居は固定していますが、行在所(天皇の仮の住居)は移動します。つまり、天皇を利用して、政敵は、どこにでも追放できるということです。 3年以内とは、どういう意味でしょうか。明治十四年の政変の時、天皇が公約した国会開設の時期は明治二十三年です。西暦でいえば、1890年です。保安条例が出されたのは、1887年12月26日ですから、3年後とは1890年12月25日、つまり1891年になって、政敵は東京に帰れるのです。その間、政府が思うような国会を作れる意味です。 法治国家とはいえ、便利なものですね。 |
6 | 私は、「坂本竜馬を暗殺した黒幕は後藤象二郎である」と考えています。三大事件建白運動という民衆運動を利用して、大臣になると、さっさと民衆運動から離れる男です。 政府から危険な人物として遠ざけられた人に、尾崎行雄・片岡健吉・中江兆民・星亨らがいます。しかし、いくら探しても、後藤象二郎や板垣退助の名はありません。TVに出て、ある程度政府のことを批判しても、政府のお先棒を担ぐ評論家がいます。 大井憲太郎のように、恩赦を条件に、牙を抜かれた政治屋もいます。 戦前「鬼畜米英」と称して、国民を太平洋戦争に駆り立てた人が、戦後アメリカの核の傘を利用して、日本の安全を説く人もいます。 |