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エピソード

185_01

大日本国帝国憲法(明治憲法)の制定T
 アジアで最初の憲法を持ったのは、日本です。
 『阿Q正伝』を書いた魯迅は、日本に留学しました。中国革命の父孫文の家には、日本人形が飾られていました。
 明治時代の日本は、アジアのあこがれの国だったのです。
 江戸時代には、民主化が出来ていたというヒゲの漫画家がいますが、民主化の意味をご存知なのでしょうか。まず最初に法律を作ります(立法権)。それに基づいて、参勤交代などを命じます(行政権)。それに違反した場合、法によって裁きます(司法権)。この三権が分立している状態を、民主主義といいます。
 江戸時代は、将軍が法律を作り、自分で様々な命令を出し、そして自分で裁きます。これを独裁政治といいます。
 民撰議院とは国会(立法府)のことで、法律をつくります。それに従って、内閣(行政府)が宣戦したり道路を作ったりします。法律に違反した命令を出すと、裁判所が「違憲」として、中止させます。
 明治時代、まず、貴族院の基礎も出来ました。民撰議院がどんな法律を成立させても、貴族院で廃案にできる制度を考えました。内閣制度ができました。ともかく法律を作って、それに従って強力な政治をする制度が出来ました。
 あとは、基本となる法律です。その経過を見ていきます。
 1878(明治11)年8月、賃金がカットされたことで、近衛兵が暴動しました。これを竹橋事件といいます。
 1881(明治14)年10月11日、御前会議で、(1)立憲政体に関する方針(2)開拓使官有物払下げ中止(3)大隈重信の参議罷免を決定しました。これを明治十四年の政変といいます。
 10月12日、「明治23年に国会を開設する」旨の詔勅が出されました。これを国会開設の勅諭といいます。
 これを受けて、政府の要人は、対応を協議します。
(1)太政官大書記官の井上毅は、岩倉具視に対して、プロシア風の欽定憲法を説明しています。
 @ドイツの内閣は国王の内閣にて、政党の内閣にあらず
 A政府は国王の政府にして、議会の政府にあらず
(2)公家の岩倉具視は、憲法制定に関する意見書を明治天皇に上奏しました。その内容は、@天皇大権の強大化A政府権限の絶大化でした。
 1882(明治15)年1月、竹橋事件や民権運動を背景に、山県有朋が起草した軍人勅諭(「陸海軍軍人に賜はりたる勅諭」)が陸軍卿大山巌に下されました。岩倉具視は「陸海軍や警察を左右にして、きびしく下にのぞみ、民心をふるえあがらせるべきである」とその趣旨を述べています。
 全文(文字数は2700字)を軍人に暗誦させるために、ひらがな交じりの平易な文章になっています。
(1)一 軍人は忠節を尽すを本分とすへし
(2)一 軍人は礼儀を正しくすへし
(3)一 軍人は武勇を尚ふへし
(4)一 軍人は信義を重んすへし
(5)一 軍人は質素を旨とすへし
 3月、長州の参議伊藤博文(41歳)は、伊東巳代治西園寺公望らと、憲法を調査するため、欧米に出発しました。この時、岩倉具視は、西園寺公望に「伊藤博文は国の柱石となる人物である。助力せよ」と伝言したといいます。
 5月、伊藤博文らは、ウィ−ン大のシュタイン(68歳)・ベルリン大のグナイスト(67歳)・法学者のモッセ(37歳)にプロシア憲法・ドイツ諸邦の憲法・立憲国家に於ける政治・法律諸制度を学びました。
 この時通訳にあたったのが、ドイツ人を妻に持つ青木周蔵でした。
 1883(明治16)年6月、板垣退助後藤象二郎は、外遊から帰国しました。板垣退助は、フランスに失望し、「日本の生活は低いが、政治は進歩している」「海軍を大増設しなければ、日本はあぶない」と演説する変貌ぶりでした。多くの自由党員が板垣退助から離れていきました。
 7月、右大臣だった岩倉具視が病死しました。時に59歳でした。
 8月、憲法調査のため外遊していた伊藤博文らは、横浜港に帰着しました。
 9月、福地源一郎は、立憲帝政党を解党しました。
 1884(明治17)年3月、宮内卿の伊藤博文は、制度取調局(のちの内閣法制局)を宮中に設置し、自らが長官になりました。御用掛に井上毅・金子堅太郎・伊東巳代治、顧問にドイツ人ロエスレルを任命しました。そして、憲法と皇室典範の起草を命じました。
 5月、高利貸専門会社に乱入し、松井田検察分署を襲撃しました。その後、42人が逮捕されました。これを群馬事件といいます。自由党員の軽挙に農民が蜂起した事件といえます。
 7月、華族令を制定し、従来の公卿・旧大名に、新たに士族出身の官僚・軍人や維新の功臣の子孫を加えました。
(1)五爵(公・侯・伯・子・男)を定め、世襲としました。制度的に特権的身分を保障しました。
(2)「華族は皇室をまもる藩屏である」として、国会開設の際の貴族院の準備をしました。
(3)プロシア制度を参考に、定員100人の内薩摩29人+長州23人=52人の過半数となるように設定しました。
 9月、警官隊と衝突し、逮捕されました。その後、7人に死刑などの判決が出ました。これが加波山事件です。
 10月、板垣退助は、自由党を解党しました。
 11月1日、秩父の農民3000人は、椋神社に集結しました。これを秩父事件といいます。
 12月6日、愛知・長野の自由党員らの挙兵計画が発覚し、村松愛蔵らが逮捕されました。これが飯田事件です。
 12月17日、立憲改進党総理の大隈重信らは、同党から脱党しました。立憲改進党は解党されました。
 1885(明治18)年11月、旧自由党の大井憲太郎らは、甲申事変失敗を機に、朝鮮の保守政権を打倒し、独立党政権を樹立させようとしました。これを大阪事件といいます。
 12月、太政官制を廃止して、行政府の強化・能率化を目指して内閣制度を設けました。
(1)天皇の指名する内閣総理大臣が各省の長官である国務大臣を率いて内閣を組織する制度です。
(2)宮内省を閣外に設置し、太政大臣であった三条実美を内大臣に任命して、宮中を政治から分離しました。
(3)こうして出来た内閣(政府)を薩長藩閥内閣(長州4、薩摩4、土佐1、幕臣1の構成)といいます。
 1886(明治19)年3月、帝国大学令を公布し、帝国大学を官僚の養成機関に位置づけました。
 6月、宮内大臣の伊藤博文は、帝室典則案(皇室典範の基礎)を内大臣の三条実美に提出しました。
 この項は、『近代日本総合年表』などを参考にしました。
伊藤博文のすごさ
 明治憲法の制定で活躍するのは井上馨ではなく、井上毅です。井上)の(孫か曾孫が元東大教授で、日本史担当の井上光貞氏です。有名私大の教授に請われた時、井上光貞氏は「東大生でも勉強を教えるのに疲れている。なんで私大なんかに行けるか」と言って物議をかもしたことがありました。「明治の元勲の末裔なら言いそうなこと」だと妙に納得したものです。(学者一族と覚えれば、馨と毅の違いが分かります。
 元立教大学の日本史担当の教授に大久保利鎌氏がいました。ロッキード事件の時、丸紅の専務で大久保利春氏の名が出てきました。敬虔なクリスチャンで、誰もが「記憶にございません」という中、利春氏だけは正直に答えていたのが「記憶にございます」。2人とも、「大久保利」までは同じなので、調べてみると、やはり、大久保利通の末裔でした。
 追伸1:先日(2006年2月)、私が退職まで勤務していた学校に次の様な連絡がありました。
 「…井上毅の孫か曾孫が元東大教授で、日本史担当の井上光貞氏ってあるのは井上馨氏の曾孫でいらっしゃいます。井上毅の血縁も戦前から終戦の3年までは医学教育として現国公立・私立医大で教えていました。現在の子孫は、世田谷区で病院を開業しています…」。
 文面を主を確認すると、住所は「世田谷○○」となっており、名前も「井上○○」となっています。この文面から推察すると、連絡を頂いた方は、井上毅の子孫の方ではないでしょうか。
 今から10年ほど前、授業で「井上光貞氏」を取り扱った時、先祖を調べました。そこには、「先祖に井上毅がいる学者一族」という文がありました。それ以来、生徒には間違ったことを教えていたことになります。ここで、お詫びします。
 追伸2: そこで、このホームページをインターネットでご覧になった方から、訂正の連絡が入り、インターネットで、「井上馨■井上光貞」と検索すると、「井上光貞は井上馨の孫」とありました。世田谷の方の指摘では曾孫です。孫か曾孫か、私なりに検証しました。
 井上馨は1835年に誕生しています。井上光貞氏は1917年に誕生しています。その差は82年です。それぞれ25歳で結婚・子供誕生という計算をすると、曾孫が正解となります。私は世田谷の方の指摘に軍配をあげます。
 そこで、井上)の(孫か曾孫が元東大教授と訂正し、(学者一族と覚えれば、馨と毅の違いが分かります。)以降を削除しました。
 エピソード高校日本史をアップするとき、「退職時に全てのデータを廃棄処分したため、記憶を辿りながらの記述になります」と前置きしており、そのため、不十分な点があります。ネット上で、厳しい指摘をお願いします。より正確なエピソード高校日本史にしたく思います。
 明治の家族制度で、公爵に選ばれたのが、徳川将軍家・徳川慶喜家・鹿児島島津家です。侯爵に選ばれたのが、加賀前田家・福井松平家・宇和島伊達家・佐賀鍋島家・熊本細川家です。ここまでは別格です。
 伯爵に選ばれたのが、盛岡南部家・一橋徳川家・津和野亀井家です。伊藤博文や松方正義らと同格です。子爵に選ばれたのが、会津松平家・竜野脇坂家で、森有礼や榎本武揚と同格です。男爵に選ばれたのが北海道松前家です。
 江戸時代、徳川幕府は、天皇家・皇室を政治から遠ざけるため、徹底した兵糧攻めを行いました。
 明治時代、天皇制絶対主義を標榜する政府は、皇室料地を拡大することで、権威・権力の裏付けにしました。その結果、明治15年に1110町歩だった皇室料地は、明治18年には2万2000町歩、明治23年には365万町歩に増大していきました。つまり、日本の皇室は、日本一の大地主になりました。
 明治の三傑亡き後、日本の命運を託されたのが、伊藤博文です。
 自ら武力を使わず、言論と智恵を使い、短時間で、日本を近代国家の仲間入りさせたのは、伊藤博文です。恐れ入りました。これから、当分の間、伊藤博文の凄さとお付き合いしていただきます。
表の見方(長州閥、薩摩閥)
総理大臣 外務大臣 内務大臣 大蔵大臣 陸軍大臣 海軍大臣 司法大臣 文部大臣 農商務大臣 逓信大臣
伊藤博文 井上 馨 山県有朋 松方正義 大山 巌 西郷従道 山田顕義 森 有礼 谷 干城 榎本武揚
長州・伯 長州・伯 長州・伯 薩摩・伯 薩摩・伯 薩摩・伯 長州・伯 薩摩・子 土佐・子 幕臣・子

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