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エピソード

186_01

大日本帝国憲法(明治憲法)の制定U
 伊藤博文は、板垣退助や大隈重信などの大物の民権運動家とも戦い、過激な民権運動とも戦いながら、アジアで最初の憲法を制定しました。今回は、その過程と内容を見ていきます。
 1884(明治17)年7月、華族令を定めました。
 1885(明治18)年12月、内閣制度が確立しました。伊藤博文は、初代総理大臣に就任しました。
 1887(明治20)年4月20日、鹿鳴館で舞踏会が催され、欧化主義として批判されました。
 4月30日、ロエスレルは、憲法私案を法制局長官の井上毅に提出しました。
 5月9日、政府は、板垣退助大隈重信後藤象二郎勝海舟伯爵森有礼ら13人に子爵の位を与えました。
 5月23日、法制局長官の井上毅は、憲法草案甲案を総理大臣の伊藤博文に提出しました。
 6月、伊藤博文・伊東巳代治金子堅太郎は、相模の金沢で、憲法草案の検討を開始しました。その後、井上毅も参加して、夏島にある伊藤博文の別荘で検討しました。秘密裏に、何回も場所を変えて検討しています。
 7月、農商務大臣の谷干城は、井上馨の裁判管轄条約案に反対して、辞職しました。
 8月、伊藤博文らは、修正憲法草案を作成しました。
 9月28日、伊藤博文は、地方長官を召集し、「憲法の天皇親裁に異議を唱える者」「外交を人民の公議に付せと唱える者」を抑えるよう指示しまし。
 10月3日、旧自由党・改進党の幹部である後藤象二郎星亨らは、「小異を捨て大同につく」という大同団結運動を提唱しました。
 10月15日、伊藤博文・井上毅・伊東巳代治・金子堅太郎は、東京高輪にある伊藤博文の私邸で憲法草案を討議しました。
 10月、高知代表の片岡健吉らは、三大事件建白書元老院に提出しました。
 12月、民権運動の盛り上がりに、政府は、保安条例を公布しました。政府にとって危険と思われる人物570人を東京から3年間追放しました。
 1888(明治21)年2月、イギリス風議会を主張していた大隈重信は、外務大臣に就任しました。
 4月5日、総理大臣の伊藤博文は、内大臣三条実美に憲法・皇室典範草案の脱稿を報告しました。
 4月25日、ドイツ人顧問モッセの助言を受け、内務大臣山県有朋は、市制・町村制を公布しました。これは、国政の変動に左右されない地方行政の制度です。
(1)市制の行政担当者
 @市会が推薦し、内務大臣から任命された市長
 A市会が選任する参事会員で構成する市参事会
(2)町村制における町村長は、名誉職で、無給で、町村会で公選する。
(3)議員の選挙
 @直接国税2円以上の納入者による等級選挙法などの制限選挙
 A地方財産家・地主などの名望家が議員に選ばれるような仕組み
 4月30日、枢密院官制が公布されました。伊藤博文は総理大臣を辞職し、初代枢密院議長となり、内閣に列しました。
(1)明治憲法草案審議のために特別に設置されました。
(2)明治憲法(第56条)では憲法制定後も天皇の最高諮問機関と規定し、重要な国事を審議します。
(3)内閣の政策を左右する権限を持っている機関です。
 4月30日、薩摩の黒田清隆は、第二代総理大臣に就任しました。
 5月8日、枢密院が開院し、明治天皇は、皇室典範と憲法の草案諮詢の勅語を下しました。
 5月25日、皇室典範草案を審議しました(〜6月15日)
 6月18日、憲法草案を審議しました(〜7月13日)
 7月21日、枢密院議長の伊藤博文は、書記官長の井上毅に、枢密院で問題になった点につき、憲法草案の再検討を指示しました。
 9月12日、地方制度編纂委員会は、府県制・郡制法案を内閣に提出しました。
 9月17日、枢密院は、議院法の審議を開始しました(〜10月31日)。 
 10月21日、書記官長の井上毅は、ドイツ人顧問のロエスレルとモッセに、君主の軍隊編成権と議会の予算議定権の関係について意見を求めました。
 11月26日、枢密院は、衆議院議員選挙法の審議を開始しました(〜12月17日)
 12月13日、枢密院は、貴族院令の審議を開始しました。
 1889(明治22)年1月13日、憲法修正案が確定しました。
 1月16日、枢密院は、憲法修正案につき再審会議を開きました(〜1月31日)。
 2月11日、紀元節の日に、大日本帝国憲法が発布されました。
憲法名 主権 天皇 国会 内閣 国民の権利 軍隊
明治憲法 天皇 元首、大権、
神格、三権総攬
天皇の諮問機関 天皇に
対し責任
法律の範囲内 兵役の義務
天皇に統帥権
昭和憲法 国民 象徴、
国事行為
国権の最高機関
唯一の立法機関
国民に
対し責任
基本的人権
として保障
永久平和、戦力
不保持、戦争放棄
 2月11日、皇室典範が制定されました。官報に登載せず、非公式に発表しました。内容は@皇室の継承・天皇の即位式A皇族の継承・摂政の制などです。
 2月11日、議院法が公布されました。内容は@帝国議会の開・閉会A衆議院・貴族院の構成・活動などです。
 2月11日、貴族院令が公布されました。内容は@皇族・公爵・侯爵よりの互選議員、伯爵・子爵・男爵からの互選議員A勅選議員B多額納税者よりの互選議員などです。
 2月11日、衆議院議員選挙法が公布されました。内容は@定員300人A選挙人は15円以上の直接国税(地租・ 所得税)を納める25歳以上の男子B被選挙人は同資格の30歳以上の男子C記名投票などです。直接国税を15円納入できる人は、西日本では田地1町歩(1ヘクタール)、東日本では2町歩をもつ地主という事になります。現在1町歩以上の百姓を、専業農家といいます。それ以下だと、農業だけでは生活できないので、兼業農家になります。
 2月11日、大赦令が公布され、多くの民権運動家が釈放されました。元過激派の大井憲太郎の姿もありました。
 2月12日、総理大臣の黒田清隆は、鹿鳴館に地方長官を招集し、「政府は超然として政党の外に立つ」との方針を訓示しました。これを超然主義といいます。
 3月、大同団結内部からの反対の声を無視して、後藤象二郎は黒田内閣の逓信大臣に就任しました。
 4月、大同団結内部では、政社組織を主張する河野広中らと、ゆるい連合組織を主張する元過激派の大井憲太郎らが対立しました。
 10月11日、伊藤博文は、外務大臣である大隈重信の条約改正案に反対して、枢密院議長を辞職しました。
 10月24日、大隈重信外相以外の全閣僚が辞表を提出しました。
 10月25日、内大臣三条実美を総理大臣に任命し、他の閣僚の辞表を却下しました。
 12月14日、大隈重信は、外務大臣を辞職しました。
 12月19日、板垣退助は、愛国公党組織の方針を発表しました。
 12月24日、総理大臣三条実美は、内務大臣の山県有朋を総理大臣に、青木周蔵を外務大臣に任命しました。
 12月24日、内閣官制を公布しました。内容は@軍機軍令事項の上奏は陸軍大臣・海軍大臣より首相に報告A帷幄上奏権の根拠などです。
 1890(明治23)年5月、府県制郡制を公布しました。その内容と特徴は、次の通りです。
(1)知事は官選、府県会議員は市会・郡会などの間接選挙で選ぶ
(2)府県会は知事と府県参事会が担当し、郡会は郡長及び郡参事会が担当する
(3)選挙制度
 @府県会議員は、郡会議員の投票による間接・等級選挙法(財産と教育ある名望家による議員)
 A郡会議員は、町村会議員の投票と大地主の互選(政争の地方波及防止)
(3)ドイツの中央集権的・官僚制的な自治制を導入しています。
 この項は、『近代日本総合年表』などを参考にしました。
明治憲法は、アジア最初の憲法なのだ
 私は、「アジアで最初の憲法を作ったのが日本である」ということを、正直、誇りたいと思います。ペリー・ハリスにより強制的に近代国家に仲間入りさせられた日本が、明治維新から22年目に、昭和20年まで46年間も有効な憲法を作ったのです。
 憲法だけではありません。憲法に付随する諸法律も完成させていたのです。それを達成した政治家・官僚・学者のレベルの高さには、驚きました。
 今の昭和憲法を、アメリカの押し付けだという勢力が増えてきました。当時を知る人は、日本人が作った自前の憲法は、余りにひどかったので、押し付け憲法を喜んだといいます。
 この明治憲法を、ドイツのコピーといえばコピーです。しかし、これをコピー憲法とはいわない。つまり。押し付けとかコピーとかいうのは、どうでもよくて、戦前の憲法を支持しているのです。
 本文でも書きましたが、明治憲法は、政治家や権力者には、実に都合よく出来ています。神格化して批判できない天皇から、さまざまな命令を出してもらおうというのです。
 伊藤博文は、「敵に玉(ぎょく)を渡すな」と言っています。これは幕末の尊王攘夷派の一部が天皇を「玉」と言っている思想と同じす。 
 私の在職中、ある部長が、ある提案を持ってきました。私が「それを今する理由が分かりません」と答えると、「これは校長命令であっても拒否するのか」と凄い剣幕で、怒鳴られました。私は「やらないと言っているのではありません。今なぜ、それをするのか、理由を聞いているのです」と答えると、その部長は「わかった。校長に言っとくからな」と憎まれてしまいました。私は何も反対しているのではありません。同じ教科の先生に納得してもらって気持ちよくやって欲しかったからです。
 自分で説明責任を果たせない上司は、神格化した天皇や水戸黄門のような人が必要なのでしょう。
 私は、今の象徴天皇性を支持しています。しかし、説明責任を果たせない人が、天皇を政治的に利用しようとしていることには、反対です。天皇自身も望んではおられないでしょう。
 最近、「国という字は”玉を囲む”と書くが、玉とは天皇を意味する言葉である。国から玉がなくなれば、空っぽの外枠しか残らない。古代から、天皇を崇拝していたことが分かる」という文章に出合いました。しかし、元々のクニは「國」という字で、唐の則天武后が□の中の「或」(惑う)を嫌って定めて文字で、玉がなければ□の中はカラッポという説は成り立ちません。
 玉座ということから分かるとおり、天子を尊ぶ言葉です。字源は、横長の大理石を3個横に並べてつないだ姿で、王と同じで、区別するため「.」を付けたのです。
 大日本帝国憲法を明治憲法といいます。明治21年に制定されたからです。欽定憲法とも言います。欽定の「欽」は字源的には、「金」と「欠」に分解できます。「金」は金で、「欠」は体をかがめるということから転じて、天子が神に挨拶する様を表し、天子に関する物事につける尊敬のことばということになります。大いに転じて、天皇が神に誓って定めた憲法ということになります。
 当時の世相を見てみましょう。
(1)「東京全市は、11日の憲法発布をひかえてその準備のため、言語に絶した騒ぎを演じている。…だが滑稽なことには、誰も憲法の内容をご存じないのだ」(2月11日付けドイツ人医学者ベルツの日記)
(2)「折角憲法を拝受しながら其何たるをさへ弁へざる者少なからざる……甚だしきに至ては憲法様の御迎に何処まで行くのかと問ひ憲法発布を絹布の法被を給るが為なりと誤解する者あるを見て…」(2月14日付け読売新聞)
(3)「国民に委ねられた自由なるものは、ほんのわずかである。しかしながら、不思議なことにも、以前は”奴隷化された”ドイツの国民以上の自由を与えようとはしないといって憤慨したあの新聞が、すべて満足の意を表しているのだ」
(2月16日付けドイツ人医学者ベルツの日記)
(4)「われわれに授けられた憲法が果たしてどんなものか。玉か瓦か、まだその実を見るに及ばずして、まずその名に酔う。国民の愚かなるにして狂なる。何ぞかくのごときなるや」(中江兆民)
天皇  昔の人は今の若者の現状を見て、戦前の憲
法や教育勅語の方がよかったと言います。
 かなりリベラルな私でも、今の若者の考えや
行動を全て支持している訳ではありません。
 でも、昔の法律がよかったとは思いません。
 左の図を見ると、天皇を利用して、命令はど
んどん下りてきます。その命令に対して、唯一
意見が言えるのは、衆議院を通じてです。そ
の衆議院も、財産による制限選挙で、有権者
は人口1%だったのです。
 天皇の命令が間違っていた時、天皇は神格
化されており、私たちは意見がいえません。
 このシステムが、悲劇的な戦争を生んだので
す。
枢密院 ━╋━ 軍隊統帥部
内大臣府 元老・重臣
宮内省
裁判所 ━╋━ ━━━━━━ 帝国議会
内閣 内閣総理大臣



各大臣
臣           民

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