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エピソード

187_01

諸法典の編纂(皇室典範、民法典論争、明治民法)
 憲法を字源的に調べてみました。憲法の「憲」は「目や心の行動を押さえるわく」のことです。「法」は「池の中の島に珍獣をおしこめて、外に出られないようにしたさま」のことです。ともに、規制を意味します。とくに、「憲法」は他の法律や命令で変更することのできない「規制」(国家のおきて)ということになります。
 今回は、他の法律や命令を調べてみることにしました。
 1870(明治3)年、明・清律を基本に公事方御定書を加味した新律綱領を公布しました。これには、身分による刑罰の差がありました。
 1873(明治6)年、新律綱領の不備を補充して改定律例を制定しました。ナポレオン法典を参考にして、残虐刑を緩和しました。
 1880(明治13)年、フランス人ボアソナード(49歳)が起草した近代的刑法である@刑法を公布しました。その内容は、次の通りです。
(1)罪刑法定主義(法律の規定がなければ罰しない)
(2)大逆罪・不敬罪(皇室への犯罪)や内乱罪(政治犯罪)の規定
(3)姦通罪廃止
 1880(明治13)年、フランス人ボアソナード(49歳)が起草した近代的刑事訴訟法である治罪法を公布しました。これは、フランスの治罪法が参考にして、拷問の禁止・証拠法採用などを規定しています。
 1882(明治15)年、ボアソナード刑法が施行されました。
 1889(明治22)年2月11日、A大日本帝国憲法が公布されました。
第1章では、天皇の規定があります。
第1条「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」(日本は天皇が統治する)
第2条「皇位ハ皇室典範ノ定ムル所ニ依リ皇男子孫之ヲ継承ス」(天皇の位は皇男子孫が継承する)
第3条「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」(天皇は神にして批判することを許さない)
第4条「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ」(天皇は日本の元首(代表)で、統治権をすべておさめる。但しその統治権は、この憲法に従って行う)
第5条「天皇ハ帝国議会ノ協賛ヲ以テ立法権ヲ行フ」(天皇は、議会の協賛を得て法律を作る)
第6条「天皇ハ法律ヲ裁可シ其ノ公布及執行ヲ命ス」(天皇は、法律を認め、法律を公布し、法律の執行を命ず)
第7条「天皇ハ帝国議会ヲ召集シ其ノ開会閉会停会及衆議院ノ解散ヲ命ス」(天皇は、議会の召集・開会・閉会・停会・解散を命ず)
第8条
 @「天皇ハ公共ノ安全ヲ保持シ又ハ其ノ災厄ヲ避クル為緊急ノ必要ニ由リ帝国議会閉会ノ場合ニ於テ法律ニ代ルヘキ勅令ヲ発ス」(天皇は、緊急の時には、天皇大権により、法律に代わる勅令を発することが出来る)
 A「此ノ勅令ハ次ノ会期ニ於テ帝国議会ニ提出スヘシ若議会ニ於テ承諾セサルトキハ政府ハ将来ニ向テ其ノ効力ヲ失フコトヲ公布スヘシ」
第9条「天皇ハ法律ヲ執行スル為ニ又ハ公共ノ安寧秩序ヲ保持シ及臣民ノ幸福ヲ増進スル為ニ必要ナル命令ヲ発シ又ハ発セシム 但シ命令ヲ以テ法律ヲ変更スルコトヲ得ス」(天皇は、必要なときには、天皇大権により、命令を発することが出来る)
第10条「天皇ハ行政各部ノ官制及文武官ノ俸給ヲ定メ及文武官ヲ任免ス、但シ此ノ憲法又ハ他ノ法律ニ特例ヲ掲ケタルモノハ各々其ノ条項ニ依ル」(天皇は、文官・武官の給料を定めたり、任命したり、罷免したりできる)
第11条「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」(天皇は、すべての軍隊をまとめ、指揮する)
第12条「天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム」(天皇は、陸海軍の編成および常備軍の兵士の数を決定する)
第13条「天皇ハ戦ヲ宣シ和ヲ講シ及諸般ノ条約ヲ締結ス」(天皇は、宣戦・講和をしたり、条約を結ぶ)
第14条(天皇は、戦時または非常時には、軍隊に行政権や司法権を与え、全国・一地域を警戒することができる)
 @「天皇ハ戒厳ヲ宣告ス」
 A「戒厳ノ要件及効力ハ法律ヲ以テ之ヲ定ム」
第15条「天皇ハ爵位勲章及其ノ他ノ栄典ヲ授与ス」(天皇は、爵位・勲章・栄典を与えることができる)爵位=公(こう)・侯(こう)・伯(はく)・子(し)・男(だん)の爵(しゃく)の階級。勲章=国家・社会に対する功労者を表彰して国家から与えられる記章で栄典の一つ。栄典=位階・勲章・爵位・褒章など,国家や公共に対する功労者を表彰するため,国家が与える待遇・地位・称号などの総称。
第16条「天皇ハ大赦特赦減刑及復権ヲ命ス」(天皇は、大赦・特赦・減刑・復権を命ずることができる)
第17条(摂政は、天皇の名において天皇大権を行使できる)
 @「摂政ヲ置クハ皇室典範ノ定ムル所ニ依ル」
 A「摂政ハ天皇ノ名ニ於テ大権ヲ行フ」
 第2章は、臣民の権利・義務です。
第18条「日本臣民タルノ要件ハ法律ノ定ムル所ニ依ル」
第19条「日本臣民ハ法律命令ノ定ムル所ノ資格ニ応シ均ク文武官ニ任セラレ及其ノ他ノ公務ニ就クコトヲ得」
第20条「日本臣民ハ法律ノ定ムル所ニ従ヒ兵役ノ義務ヲ有ス」
第21条「日本臣民ハ法律ノ定ムル所ニ従ヒ納税ノ義務ヲ有ス」
第22条「日本臣民ハ法律ノ範囲内ニ於テ居住及移転ノ自由ヲ有ス」
第23条「日本臣民ハ法律ニ依ルニ非スシテ逮捕監禁審問処罰ヲ受クルコトナシ」
第24条「日本臣民ハ法律ニ定メタル裁判官ノ裁判ヲ受クルノ権ヲ奪ハルヽコトナシ」
第25条「日本臣民ハ法律ニ定メタル場合ヲ除ク外其ノ許諾ナクシテ住所ニ侵入セラレ及捜索セラルヽコトナシ」
第26条「日本臣民ハ法律ニ定メタル場合ヲ除ク外信書ノ秘密ヲ侵サルヽコトナシ」
第27条
 @「日本臣民ハ其ノ所有権ヲ侵サルヽコトナシ」
 A「公益ノ為必要ナル処分ハ法律ノ定ムル所ニ依ル」
第28条「日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ信教ノ自由ヲ有ス」
第29条「日本臣民ハ法律ノ範囲内ニ於テ言論著作印行集会及結社ノ自由ヲ有ス」
第30条「日本臣民ハ相当ノ敬礼ヲ守リ別ニ定ムル所ノ規程ニ従ヒ請願ヲ為スコトヲ得」
 1889(明治22)年2月11日、皇室典範は「臣民の敢て干渉する所に非ざるなり」という理由で、非公開で出されました。現在の施行されている『皇室典範』に対して、明治時代に施行されていた皇室典範を『旧皇室典範』といいます。両方の皇位継承の条目を見てみましょう。
 まず『旧皇室典範』です。
「第1章 皇位継承
第1条 大日本国皇位ハ祖宗ノ皇統ニシテ男系ノ男子之ヲ継承ス
第2条 皇位ハ皇長子ニ伝フ
第3条 皇長子在ラサルトキハ皇長孫ニ伝フ 皇長子及其ノ子孫皆在ラサルトキハ皇次子及其ノ子孫ニ伝フ 以下皆之ニ例ス
第4条 皇子孫ノ皇位ヲ継承スルハ嫡出ヲ先ニス 皇庶子孫ノ皇位ヲ継承スルハ皇嫡子孫 皆在ラサルトキニ限ル
第5条 皇子孫皆在ラサルトキハ皇兄弟及其ノ子孫ニ伝フ
第6条 皇兄弟及其ノ子孫皆在ラサルトキハ皇伯叔父及其ノ子孫ニ伝フ
第7条 皇伯叔父及其ノ子孫皆在ラサルトキハ其ノ以上ニ於テ最近親ノ皇族ニ伝フ
第8条 皇兄弟以上ハ同等内ニ於テ嫡ヲ先ニシ庶ヲ後ニシ長ヲ先ニシ幼ヲ後ニス
第9条 皇嗣精神若ハ身体ノ不治ノ重患アリ又ハ重大ノ事故アルトキハ皇族会議及枢密顧問ニ諮詢シ前数条ニ依リ継承ノ順序ヲ換フルコトヲ得」
 現行の『皇室典範』です。
「第1章 皇位継承
第一条 皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを継承する
第二条 皇位は、左の順序により、皇族に、これを伝える。
 一 皇長子
 二 皇長孫
 三 その他の皇長子の子孫
 四 皇次子及びその子孫
 五 その他の皇子孫
 六 皇兄弟及びその子孫
 七 皇伯叔父及びその子孫
2 前項各号の皇族がないときは、皇位は、それ以上で、最近親の系統の皇族に、これを伝える。
3 前二項の場合においては、長系を先にし、同等内では、長を先にする。
第三条 皇嗣に、精神若しくは身体の不治の重患があり、又は重大な事故があるときは、皇室会議の議により、前条に定める順序に従つて、皇位継承の順序を変えることができる。
第四条 天皇が崩じたときは、皇嗣が、直ちに即位する」
 1890(明治23)年、ドイツ法を模範とするB民事訴訟法が公布されました。
 1890(明治23)年、治罪法を改訂してC刑事訴訟法が公布されました。
 1890(明治23)年4月、外国法を参考に、ドイツの法学者ロエスレルが起草したD商法が公布されました。しかし、実施は1893(明治26)年1月1日まで延期されました。
 1890(明治23)年4月、フランス法のボアソナードの意見を参考に、大木喬任が起草した民法(旧民法)が公布されました。施行の予定は1893(明治19)年1月1日と決まりました。その内容は@個人主義採用A単位は家でなく夫婦という画期的なものでした。
 5月、帝国大学法科大学の卒業生で組織している東大法学士会は、「ブルジョア革命によって封建体制を崩壊させた上で成立したフランス民法を模倣した民法の編纂は、日本古来の法や慣行を崩すことになり、それは、有害無益なものである」と抗議しました。
 8月、東京法学院講師穂積八束は、「(キリスト教的な)民法出デテ(日本固有の)忠孝亡ブ」という論文を発表しました(『法学新報』)。
 1892(明治25)年5月、旧民法断行派(箕作麟祥・大木喬任ら)は、「法典ノ実施ヲ延期スルハ国家ノ秩序ヲ紊乱スルモノナリ」と反論しました(『法治協会雑誌』)。
 5月、民法典論争により、旧民法は、1896(明治29)年12月31日まで修正のためその施行が延期されました。
 1893(明治26)年3月、法典調査会規則(勅令第2号)を公布し、法典調査会を新たに設置しました。
 1898(明治31)年6月、ドイツ法の影響を受けたE民法(明治民法)が公布されました。
(1)ドイツ法の穂積陳重(穂積八束の兄)・梅謙次郎が作成しました。
(2)戸主権(封建的な家族制度)を温存しました。
(3)満300才以下の男、25才以下の女は戸主の同意がなければ結婚できない。
(4)妻の法的無能力的規定などがあります、
 1899(明治32)年、ロエスレルの商法は、梅梅謙次郎らの法典調査会で修正され、新商法として施行されました。
 @〜Eが六法といいます。明治31年には六法がすべて成立していたことは驚ろきです。
明治憲法・旧皇室典範・明治民法とは
 明治憲法の第4条「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ」を見て、江戸時代との違いを感じました。天皇は、元首で統治権を掌握しても、憲法の条規に従ってこれを実行する、つまり天皇といえでも法律に従うという点です。歴史は進んでいると感じました。
 明治憲法の第23条「日本臣民ハ法律ニ依ルニ非スシテ逮捕監禁審問処罰ヲ受クルコトナシ」を見て、1215年に成立したイギリスの『マグナ=カルタ(大憲章)』の第39条を思い出しました。そこには「いかなる自由人も、彼と同輩の者の判決によるか、または国法による以外には、逮捕され、監禁され、また自由を奪われ、また法の保護外におかれ、また追放され、またいかなる方法にてもあれ侵害されることはなく」と書かれています。
 次に思い出したのが、1628年のイギリスの『権利の請願』です。そこには「議会の同意なしに課税や不当な逮捕投獄は行えない」とありました。遅れてはいるが、歴史は進んでいると感じました。
 最近「女系天皇論」が盛んです。いずれ、立太式もやってくるでしょう。しかし、皇位を決める皇室典範には「男系の男子が、これを継承する」とあります。男系の男子とは「父が天皇で、その男子」と言う意味です。明治の皇室典範も「男系ノ男子之ヲ継承ス」と表現が変わっているだけで内容は同じです。
 現在、皇太子ご夫妻には愛子さましかいません。愛子さまは「男系の女子」です。歴史上10代8人存在します。
 愛子さまが結婚され、その間に生まれた宮が男子の場合、「女系の男子」ということになります。歴史上未だ存在していません。
 「男系の男子」を維持するためには、宮家の復活が考えられます。
 それらをめぐって、皇室典範会議などが集中的に論語を行っているのです。
 最近の若者の考えや行動に対して、かなり厳しい批判が高まっています。「戦前には、あんな若者はいなかった。軍隊で厳しく訓練を受けていたから」とか「先生に反抗する子供はいなかった。教育勅語があったから」とか「子供が親に反抗することはなかった。明治時代の法律(民法)がしっかりしていたから」という話が、徐々に説得力をもって、浸透しています。確かに、最近の状況は、異常です。しかし、若者や子供だけの問題でしょうか。
 最近(2005年)、「オレオレ詐欺」(振り込め詐欺)やかなり高齢の1人暮らしを狙った詐欺から、談合のトライアングルや政治家との癒着問題、高級官僚の裏金問題、果ては財閥系企業の不祥事など、21世紀が始まったばかりなのに、世紀末の信じられない症状です。
 「子供を見れば、親が分かる」といいます。若者への批判は、私たち親に帰ってくるのです。
 ここで、しっかりしていたという「明治民法」を見てみましょう。
「第14条  妻が左に掲けたる行為を為すには夫の許可を受くることを要す
 第749条 家族は戸主の意に反して其居所を定むることを得す
 第750条 家族か婚姻又は養子縁組を為すには戸主の同意を得ることを要す
 第801条 夫は妻の財産を管理す」
 妻は、法的無能力で夫の許可がなければ、一切の契約は出来ませんでした。妻の財産も夫が管理しました。強い夫です。妻を話し合いで説得できない弱い夫からすれば、うらやましいでしょう。
 女の子が大学に進学する時、「家から通え」と言う父には逆らえませんでした。結婚も同じで、父が反対する相手とは結婚できませんでした。父らしいこともせず、父として信頼を得ていない父にはしっかりした法律でしょう。
 昔、映画『戦場に架ける橋』を見ました。捕虜のイギリス人指揮官が、捕虜収容所の日本人所長に、「部下に信頼されることをして、部下がついてくるのが指揮官だ」と語るシーンがありました。思わず、息を飲み込みました。回りもシーンとしていました。

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