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エピソード

188_01

初期議会T(超然主義、帝国議会、最初の衆議院議員選挙)
 憲法が制定され、衆議院議員選挙法による選挙が実施され、そして約束の国会が明治23年に開かれました。江戸時代では考えられない時代の幕開けです。内閣のなかで、初期議会とどう取り組むかが、話し合われました。
 伊藤博文と山県有朋は、超然内閣では一致いました。「超然」とは民選された人々で構成される衆議院に対して、何を言ってもきても超然(とらわれない)とするということです。
 しかし、民選されてきた政党に対する考えでは異なりました。山県有朋は政党に対しては露骨に反感をもっていましたが、伊藤博文は政党に対してはむやみに反対できない、状況を見て対応したらいいという考えでした。
 1885(明治18)年12月、内閣制度が確立しました。@1伊藤博文は、初代総理大臣に就任しました。
 1888(明治21)年4月30日、枢密院官制が公布されました。伊藤博文は、総理大臣を辞職し、初代枢密院議長となり、内閣に列しました。
 4月30日、薩摩の@2黒田清隆は、第2代総理大臣に就任しました。
 1889(明治22)年2月11日、紀元節の日に、大日本帝国憲法が発布されました。こその後、枢密院議長の伊藤博文は、府県会議長を招集し、「こんご議会を開いても、政党にに内閣を組織させようとのぞむことは、このうえもなく危険なことである」と政党政治を否認しました。
 2月11日、衆議院議員選挙法が公布されました。
 2月11日、文部大臣の森有礼(43歳)が暗殺されました。
 2月12日、総理大臣の黒田清隆は、鹿鳴館に地方長官を招集し、「政府は超然として政党の外に立つ」との方針を訓示しました。これを超然主義といいます。これには以下のような意味があります。
(1)政党に基礎を置かないで、内閣を組織する。
(2)政党によって左右されないで、政府は施政を行う。 
 帝国議会は、天皇の協賛機関にもかかわらず、政府(内閣)と激しい論争をしています。その理由が、私にはよく分かりませんでした。私がわからなければ、生徒はもっと分かりません。予備校の先生の本を読んでも、「ここは何々大学の入試で出題された」とか「ここの組織図はよく覚えておこう」というハウ・ツーはあっても、私の知りたい部分は皆無に近い状況でした。そこで、明治憲法の原文から、帝国議会の役割を調べてみました。
「第3章 帝国議会
第33条 帝国議会ハ貴族院衆議院ノ両院ヲ以テ成立ス
第35条 衆議院ハ選挙法ノ定ムル所ニ依リ公選セラレタル議員ヲ以テ組織ス
第37条 凡テ法律ハ帝国議会ノ協賛ヲ経ルヲ要ス
第38条 両議院ハ政府ノ提出スル法律案ヲ議決シ及各々法律案ヲ提出スルコトヲ得
第48条 両議院ノ会議ハ公開ス、但シ政府ノ要求又ハ其ノ院ノ決議ニ依リ秘密会ト為スコトヲ得
第67条 憲法上ノ大権ニ基ツケル既定ノ歳出及法律ノ結果ニ由リ又ハ法律上政府ノ義務ニ属スル歳出ハ政府ノ同意ナクシテ帝国議会之ヲ廃除シ又ハ削減スルコトヲ得ス
 憲法第37条は、予算・法律などの成立には帝国議会の同意が必要であると規定しています。ここにはないが、予算案は衆議院が先に審議するという規定があります。これを衆議院の予算先議権といいます。
 憲法第38条は、帝国議会は法律案を提出することができるという規定です。これが衆議院の法律発案権です。
 憲法第48条は、帝国議会は公開を原則とするという規定です。これを衆議院の公開性といいます。
 民選の議員は、制限つきながら、この予算先議権と法律発案権と公開性を徹底的に利用しようとしたのです。ここに「議会の神様」が誕生する理由があります。
 3月、大同団結内部からの反対の声を無視して、後藤象二郎は、黒田内閣逓信大臣に就任しました。
 4月、大同団結内部では、政社組織を主張する河野広中らと、ゆるい連合組織を主張する元過激派の大井憲太郎らが対立しました。
 5月、政社派の河野広中・犬養毅は、大同倶楽部を結成しました。
 10月11日、伊藤博文は、外務大臣である大隈重信の条約改正案に反対して、枢密院議長を辞職しました。
 10月24日、大隈重信外相以外の全閣僚が辞表を提出しました。
 10月25日、内大臣三条実美を総理大臣に任命し、他の閣僚の辞表を却下しました。
 12月14日、大隈重信は、外務大臣を辞職しました。
 12月19日、板垣退助は、愛国公党組織の方針を発表しました。
 12月24日、総理大臣三条実美は、内務大臣の@3山県有朋を総理大臣に、青木周蔵を外相に任命しました。
 1890(明治23)年1月3日、板垣退助は、愛国公党趣意書を発表し、各地を遊説しました。
 1月21日、自由党結党式が行われました。
 5月5日、九州同志会は、総選挙前に当って、愛国公党・大同倶楽部・自由党・改進党に対して、民党大合同を提案しました。改進党以外は、合同に賛成しました。
 5月17日、府県制郡制を公布しました。
 6月、最初の貴族院多額納税議員選挙が行われました。45人が当選しました。
 7月1日、最初の衆議院議員総選挙が行われました。投票率は、93.91%でした。
(1)民党の合同派である九州同志会21人・愛国公党35人・大同倶楽部55人・自由党17人合計130人、それに改進党41人を合わせると、衆院の過半数を上回る171人となります。民党とは、野党(政府からは在野の党)という意味ですが、英語のNon-Govermental Partyの方が分かりやすいです。
(2)吏党は大成会79人・国民自由党5人で、84人です。大成会は旧立憲帝政党系で、杉浦重剛・元田肇らが結成しました。その他は、諸派・無所属の45人です。吏党とは、与党(政府に与する政党)という意味ですが、英語のGovermental Partyの方が分かりやすいです。
 7月10日、最初の貴族院伯子男爵議員互選選挙が行われ、伯爵15人・子爵70人男爵10人が当選しました。
 7月25日、集会および政社法を公布しました。その内容は@結社・政治集会の取り締まり強化A各政党の連携を禁止などでした。
 9月15日、九州同志会・愛国公党・大同倶楽部・自由党が解党して、立憲自由党を結成しました。
 9月、海軍大臣の樺山資紀は、海軍力を現有および建造中の5万トンから12万トンに拡張する案を閣議に提出しました。
 10月20日、元老院を廃止しました。
 10月24日、伊藤博文は、初代の貴族院議長に就任しました。
 10月30日、「教育ニ関スル勅語」(教育勅語)が発布されました。
 11月29日、第一回通常国会が開会されました。これを第一議会といいます。
 @1〜@3は歴代の総理大臣です。
人殺しが総理大臣?、森有礼暗殺の謎
 「人殺しが総理大臣?」。ミステリー小説のタイトルになりそうな話です。
 授業では「妻を殺したと噂されている人物が総理大臣になった。それは誰でしょうか?」というと、ほとんどの生徒は目を三角にしてびっくりします。そして、私の次の話を待っています。
 明治11年3月28日、陸軍中将で北海道開拓使長官だった黒田清隆の妻清は、深夜に、急逝しました。
 3月30日、葬儀の直後から、清は夫清隆に殺害されたという噂が流れました。その噂によると、黒田清隆は、ちょっとだけ口答えをした妻清に対し、酔った勢いで、日本刀で切り殺したというのです。
 4月4日、この日の号の『民間雑誌』で、福沢諭吉は黒田清隆の妻清の死因を虚弱体質によると解説して、死亡診断書を書いた医者の所見をも併記しました。このタイミングの好さが逆に、噂を真実化させる働きをし、「黒田清輝の妻殺害」はすっかり本物となってしまいました。そこで、薩摩の大警視である川路利良は、清の墓を明け、「明らかに病死である」と発表して、一件落着させました。
 黒田清隆の話はそれだけでは終わりません。妻清が亡くなってしばらくして、清隆は、若い芸者を妻に迎えました。若い妻は、身近な世話をする下男を同行することを条件に黒田家に嫁ぎました。清隆が見た下男は、自分よりはるかに若い青年でした。黒田清隆は、勤務中に、若い妻が気になり、急に自宅に戻って来ました。若い妻は、自分に見せたことがないような打ち解けた様子で、若い下男とじゃれあっていました(邪推男には、そう見えただけのことです)。
 気を紛らすために大酒の飲んだ清隆は、ちょっとの粗相を見つけて、若い下男を日本刀で切り殺そうとします。若い妻は「その人を殺すなら、私も殺して」と必死で庇います。清隆は、その言葉に逆上して2人とも殺そうとしますが、純粋な若い妻の目・形相に我を取り戻しました。
 その後、酒も避け、ついに総理大臣のなりました。
 今の感覚から、当時を裁くことは出来ません。当時の男尊女卑は厳しく、妻が夫に口答えする例はありません。主人が雇い人を殺しても、理由があれば、罪にならなかったのです。ただ殺人ともなると、世間体が悪く、出世に差しさわりがあったことは事実です。
 特に薩摩地方は男尊女卑・長幼の序がひどかった。私の大学の友人で、鹿児島出身がいました。親戚の人が来て土産を渡すのは長男だけです。長男は、次男・三男のその土産を渡します。次男・三男はそれを受け取るとき、長男に「有難うございます」と土下座したいいます。食事の時も、長男のみが脚のあるお膳に「尾頭つき」で、次男・三男は脚のないお膳に「切り身」だけだっといいます。
 洗濯タライ・物干し竿も男子用・女子用と別々で、女子の洗濯物の下を男児がくぐると出世の妨げになるとして、妻は夫から厳しく注意されたといいます。時には、父が母を暴力で制裁するのを見たこともあると友人は話してくれました。
 文部大臣の森有礼が暗殺されました。文官の森有礼が暗殺された理由を考えてみました。
 明治5年、森有礼は、不正確な日本語を廃止して、英語に変える国語廃止論を主張しました。
 明治6年、森有礼は、明六社に参加し、明六雑誌に「妻妾論」で一夫一妻を主張し、蓄妾の弊風を攻撃しました。
 明治8年、森有礼は、開拓使学校女子校卒の広瀬常(津田梅子らと同級生)と「契約結婚式」をしました。証人兼司会は福沢諭吉でした。一夫一妻制を主張した森有礼の結婚式は大きな話題となりました。
 明治18年、森有礼は、文部大臣になり、この頃には、国家主義者に転向しています。
 明治20年、森有礼は、伊勢神宮の内宮に参拝した時、内陣の御簾の中に、そのまま入いろうとしました。これを宮司に留められて、森有礼は、あわてて御簾の前で参拝しました。新聞はこれを「森有礼、ステッキで御簾を開け」と報道されました。
 明治22年、憲法発布の日に、森有礼は暗殺されました。国家主義者になったとはいえ、西洋かぶれのレッテルが取れていなかったことが暗殺の理由でしょうか。言葉と行動のギャップは誰にでもあることです。

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