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エピソード

188_02

初期議会U(第一議会〜第二議会、蛮勇演説・選挙干渉)
 1890(明治23)年7月1日、*1最初の衆議院議員総選挙が行われました。有権者は45万人(人口のわずか1.1%)で、投票率は実に93.7%でした。
(1)民党の合同派である九州同志会21人・愛国公党35人・大同倶楽部55人・自由党17人合計130人、それに改進党41人を合わせると、衆院の過半数を上回る171人となります。
(2)吏党は大成会79人・国民自由党5人で、84人です。その他は、諸派・無所属の45人です。
 11月29日、第一回通常国会が開会されました。これを第一議会といいます。会期は99日間でした。定員399人のうち290人が登院し、初代議長に立憲自由党の中島信行を、初代副議長に大成会の津田真道を選出しました。貴族院議長は伊藤博文、副議長は東久世通禧が就任しました。
 12月、@3山県有朋は、施政方針演説を行いました。「列強、特にロシアの脅威に対するためには、主権線利益線の防衛が必要である」と強調し、その分の軍費(5年間に530万円)を加えた一般会計歳出額8332万円という予算案を提出しました。
 主権線とは国家固有の国境線のことで、利益線とは隣接地域(ここでは朝鮮)のことを指しています。
 1891(明治24)年1月8日、衆議院予算委員長の大江卓(立憲自由党)は、「民力休養(減税)・経費節減(予算削減)」を掲げる民党の多数意見を尊重し、軍艦建造費など800万円以上を削減する大幅な軍縮予算案を査定し、これを内閣に報告しました。
 1月9日、蔵相松方正義は、衆議院本会議で「この査定案に不同意である」と明言しました。
 2月5日、蔵相松方正義は、「歳出の廃除削減は、確定議前に1院(衆議院・貴族院)ごとに政府の同意を求めるべきである」と言明しました。首相山県有朋も、衆議院で同趣旨の演説をしました。
 2月20日、与党の大成会は、「憲法67条にもとづく歳出に関し確定議前に政府の同意を求めるべきだ」との動議を提出しました。憲法67条には、「憲法上ノ大権ニ基ツケル既定ノ歳出及法律ノ結果ニ由リ又ハ法律上政府ノ義務ニ属スル歳出ハ政府ノ同意ナクシテ帝国議会之ヲ廃除シ又ハ削減スルコトヲ得ス 」という規定があります。
 自由党土佐派など旧愛国公党系の議員28人は、立憲自由党を裏切って動議案に賛同したため、わずか2票差で可決されました。
 2月21日、中江兆民は「衆議院は腰抜けだ。無血虫の陳列場だ」と叫んで、辞表を提出しました。
 2月24日、林有造植木枝盛ら土佐派29議員は、立憲自由党を脱党しました。
 2月26日、板垣退助も脱党し、大成会など政府支持派と共に予算成立に協力しました。
 3月2日、衆議院は、政府との妥協による予算案を修正(歳出削減幅を651万円に縮小)して、可決しました。
 3月、脱党していた土佐派の片岡健吉ら25議員は、自由倶楽部を結成しました。立憲自由党は打撃をうけました。
 3月19日、欧米から帰国した星亨は、立憲自由党大会を開催し、党名を自由党として再結成し、板垣退助を総理に迎えました。その後、自由倶楽部を結成を結成していた片岡健吉ら25議員も、自由党に復帰しました。
 4月、山県有朋は、第一議会終了を機に、勇退を決意して、辞表を提出しました。
 5月6日、@4松方正義は、蔵相兼第四代総理大臣に就任しました。
 5月11日、警護の津田三蔵は、ロシア皇太子に切りつけ、傷を負わせました。これを大津事件といいます。
 11月8日、大隈重信は、板垣退助と会見し、自由党・改進党の連合を話し合いました。
 11月12日、これを知った松方正義は、大隈重信の枢密顧問官の地位を諭旨免職にしました。
 11月21日、第二通常議会が開会されました。これを第二議会 といいます。会期は30日間でした。衆議院の正副議長は留任し、貴族院議長は蜂須賀茂韶、副議長は細川潤次郎が就任しました。民党は自由党92人・改進党44人・自由倶楽部25人・巴倶楽部17人合計178人、中立は独立倶楽部19人、吏党は大成会52人、無所属は51人となっています。
 12月、政府は、前年度比550万円増の軍拡予算案(軍艦11隻・水雷艇60隻建造)を提出しました。多数派の民党の意見を受け、衆議院予算委員長の松田正久は、軍艦建造費・製鋼所設立費など892万円減の査定案を政府の報告しました。
 12月、政府は、軍艦2隻建造案に縮小して提出しました。しかし、民党は、「海軍部内の腐敗が粛正されなければ、海軍の経費支出も認めない」と聞き入れませんでした。
 12月22日、海軍大臣樺山資紀は、激昂した余りに、「これまで海軍は国権をけがし、名誉を傷つけたことはなかった。現政府を薩長政府とか、何政府とかいうけれども、国家の安寧を保ち、4000万の生命を保ったのはこの政府ではないか」と藩閥擁護の演説をしてしまいました。これを樺山資紀の蛮勇演説といいます。
 12月25日、議場は騒然とし、衆議院は、民党主張の予算大削減案(軍艦建造費・製鋼所設立費など892万円減)を可決してしまいました。
 12月25日、総理大臣の松方正義は、衆議院を解散しました。山県有朋は、内務大臣の品川弥二郎を呼び寄せて指示を与えました。それを受け、品川弥二郎は内務次官の白根専一らと相談し、全国の知事や警部長に選挙干渉を指令しました。
 12月28日、大隈重信は、立憲改進党に入党し、代議士総会長に就任しました。
 1892(明治25)年1月22日、枢密院議長の伊藤博文は、大成会を基盤として天皇主権主義の政党組織の計画を上奏しましたが、天皇の賛成を得られず、この計画は中断しました。
 1月28にち、緊急勅令で、選挙取締りを目的とする、予戒令を公布しました。その内容は、壮士の集会立ち入りなど政治運動を禁止する権限を地方長官・警視総監に与えるというものです。
 2月9日、内務省警保局は、自由・改進両党連合による議員候補者の推薦は、集会および政社法違反であるとして大隈重信・板垣退助を告発しました。
 2月9日、内閣は、高知県下に保安条例の一部(印刷物の事前検閲など)を20日間適用する旨公布しました。
 2月15日、*2第二回衆議院議員総選挙が行われました。投票率は、91.59%でした。激しい選挙干渉(死者25人・負傷者388人や投票箱の海中投棄など)にもかかわらず、民党は自由党94人・改進党38・独立倶楽部31合計163人で過半数と超えました。吏党は中央倶楽部95人・無所属42人合計137人でした。
 2月23日、総理大臣の松方正義は、官邸に伊藤博文・黒田清隆らの元老を集めて、伊藤博文の政党組織問題や品川弥二郎の選挙干渉の善後措置を協議しました。伊藤博文は、選挙干渉を行った官憲を処分を主張して、枢密院議長の辞表を提出しました。
 3月11日、内務大臣の品川弥二郎は、選挙干渉の責任問題で辞職しました。後任に副島種臣が就任しました。
 3月18日、明治25年度予算案が成立しなかったので、憲法に従い、前年度予算施行の件が公布されました。
 4月29日、東京地方裁判所は、「大隈重信・板垣退助の集会および政社法違反は、証拠不十分」として、免訴しました。
 この項は、『近代総合日本史年表』などを参考にしました。
初期議会の言論の戦い、解散と総選挙はセット
 政府は、地方制度を改革し、貴族院も準備したのに、衆議院では反政府派(民党)が常に過半数を上回り、議長まで多数派に占められました。
 第一回総選挙で選出された議員の内訳は、地主(144人)・官吏(60人)・弁護士や公証人(24人)・商工業者(22人)・新聞や雑誌記者(20人)・その他(30人)で、地主が約50%を占めています。
 また、地租30円以上なら地主が約半数、地租90円以上なら3分の1を地主が占めていました。
 府県会議員・市会議員の経験者が70%以上を占めていました。
 初期議会は、地主と地方的利害を中心に議論が活発化したといえます。
 初めての国会(言論活動)になれていない薩長藩閥政府は、今までのように上意下達方式で乗り切るわけにはいかず、蛮勇演説や選挙干渉がおこります。
 樺山資紀の「現政府を薩長政府とかいうけれども、この日本を作ったのは、薩長ではないか」と演説しました。「それもそうだ」と納得していた時、尾崎行雄が「薩長でなければ、もっといい日本を作っている」と反論すると、樺山の演説が蛮勇だと見抜かれ、大混乱したといいます。
 「戦前、朝鮮半島における日本の投資のおかげで、朝鮮の近代化が進んだ」という議論をする人がいます。しかし、「そういう点もあるが、朝鮮が日本に植民地化されていなければ、もっと近代化が進んでいた」という朝鮮人の学者もいます。
 こうした議論は、相手からどう評価されるかが分岐点だと思います。
 歴史用語に「解散」「総辞職」「総選挙」という言葉が飛び交います。
 最近(2005年)、小泉純一郎首相の執念の郵政民営化で、国会はフィバーしています。歴史を教えるものには、格好の資料(材料)になります。
 ある衆議院議員は「法案否決なら総辞職だ」とか「失職しない参議院が郵政法案を否決したからといって、なんで衆議院解散総選挙になるんだ」とか言ったという新聞記事があります。
 総辞職とは、総理大臣以下全閣僚が辞職することです。参議院は、解散はなく、半数が6年毎に改選されます。
 衆議院は解散されると、その時点で失職(失業)します。そして総選挙で当選すると、議員に就職(?)します。解散と総選挙はセットなのです。
 品川弥二郎の選挙干渉がありました。
 立憲改進党の大隈重信の本拠である佐賀県では、死者10人、負傷者66人を出し、松田正久や武富時敏ら全員が落選しました。
 自由党の板垣退助の本拠である高知県では、死者8名、負傷者92名を出し、片岡健吉や林有造ら有力幹部が落選しました。後に、片岡健吉や林有造は、不正が認められて、当選者になったそうです。

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