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エピソード

188_03

初期議会V(第三・第四・第五・第六・第七議会、元勲内閣・建艦詔勅)
 1892(明治25)年5月6日、第三回特別議会が開かれました。これが第三議会です。会期は40日間でした。衆議院議長は自由党星亨、副議長は曾根荒助が就任しました。貴族院の正副議長は留任しました。
 5月11日、貴族院は、選挙干渉に関する決議案を可決し、政府に反省を求めました。
 5月14日、衆議院は、選挙干渉(問責)決議案を可決しました。
 5月31日、衆議院は、予算を修正し、軍艦建造費などを削減して可決しました。
 6月6日、貴族院は、復活修正して衆議院に回付しました。
 6月9日、衆議院は、「予算案に関し貴族院が衆議院の削除した款項を復活するのは不法である」と議決して、再度予算案を貴族院に返付しました。
 6月10日、貴族院は、「復活修正は合法である」と議決しました。
 6月11日、予算案に関し、勅裁を求める上奏案を可決します。
 6月13日、明治天皇は、予算問題に関する貴族院の上奏を枢密院に諮詢(参考にして問いはかる)し、憲法上予算に対する協賛権に両院の差はないと勅裁しました。つまり、貴族院の復活修正案を認めたのです。
 6月14日、両院協議会は、予算案修正につき妥協し、修正案を両院で可決しました。
 6月22日、中央交渉部および中立議員有志は、国民協会を結成しました。西郷従道品川弥二郎らは、これを支援しました。
 7月27日、陸軍大臣の高島鞆之助・海軍大臣の樺山資紀は、内務大臣の河野敏鎌の選挙干渉善後措置に反対して辞表を提出しました。
 7月30日、総理大臣の松方正義は、閣内不一致を理由に辞表を提出しました。
 8月8日、@5伊藤博文は、各元勲の入閣を条件に組閣を承認しました。これが第5代総理大臣で、元勲内閣ともいわれます。それは、長州の山県有朋(陸軍大臣)・井上馨(内務大臣)、薩摩の黒田清隆(逓信大臣)、土佐の後藤象二郎(農商務大臣)ら元勲といわれた人が入閣したからです。
 11月、第四通常国会が開かれました。これを第四議会といいます。会期は92日間です。衆議院・貴族院の正・副議長は留任しました。
 12月1日、政府は、田畑地価修正法案を衆議院に提出しました。
 12月7日、衆議院は、田畑地価修正法案を可決しました。 
 1893(明治26)年1月7日、自由党の星亨は、改進党を攻撃する演説会をしました。改進党との対立が激化して、自由党は、政府の伊藤博文に接近していきます。
 1月12日、衆議院は、明治26年度予算案を修正(軍艦建造費削減、官吏俸給・官庁経費の減額など871万円を削減)して議決しました。
 1月16日、政府は、「予算案修正は不同意である」と表明しました。
 1月23日、衆議院は、内閣弾劾上奏案を上程し、15日間の停会を命じられました。
 1月26日、貴族院は、田畑地価修正法案を否決しました。
 2月7日、衆議院は、181対103で、内閣弾劾上奏案を可決しました。
 2月10日、「在廷ノ臣僚及帝国議会ノ各員ニ告グ」の詔書が出されました。その内容は「軍備拡張のため、内廷費毎年30万円ずつ6年間下付、同期間中は文武官俸給の1割を納付させて製艦費補助にあてることを命ずる」というものでした。これを建艦詔勅(和衷協同の詔勅)といいます。つまり、「余も宮廷費を削るので、民党も政府に協力するように…」です。
 2月22日、衆議院は、予算案を修正(製艦費を認め262万円のみ削減)して可決しました。
 2月26日、貴族院は、修正予算案を可決しました。 
 11月25日、第五通常国会が開かれました。これを第五議会といいます。会期は33日間でした。衆議院議長の星亨は不信任案を可決されたため、同盟倶楽部(後に立憲革新党)の副議長である楠本正隆が昇格し、副議長は安部井磐根が就任しました。貴族院議長は留任し、、副議長は西園寺公望が就任しました。与党化した自由党に対して、民党の立憲改進党に、品川弥二郎の率いる国民協会が接近しました。これを対外硬派連合といいます。
 11月29日、衆議院は、星亨議長の不信任の動議を可決しました。
 12月1日、衆議院は、星亨が議長の辞職を拒否したので、不信任上奏案を可決しました。
 12月2日、明治天皇は、「上奏は議長更迭の誓願か、議院の不明を謝する意か」と質問しました。衆議院は、「後者の意」との奏答案を可決しました。
 12月4日、衆議院は、農商務省の汚職問題を弾劾する官紀振粛上奏案を可決しました。
 12月29日、衆議院は、外務大臣の陸奥宗光の条約励行案反対の演説後、14日間の停会を命じられました。
 12月30日、衆議院は、解散を命じられました。
 1894(明治27)年1月8日、農商務次官の斎藤修一郎、ついで農商務大臣の後藤象二郎が辞職しました。
 1月24日、近衛篤麿谷干城ら貴族院議員38人は、総理大臣の伊藤博文に忠告書を送り、衆議院の条約励行論抑圧に抗議しました。
 2月10日、総理大臣の伊藤博文は、「解散はやむを得ず」と回答しました。
 3月1日、*3衆議院議員総選挙が行われました。投票率は88.76%でした。民党は自由党119人・改進党48人合計167人で過半数を上回りました。吏党は立憲革新党37人、国民協会26人、無所属70人合計133人でした。
 4月、犬養毅ら5議員は、改進党を脱党し、中国進歩党を結成しました。
 5月3日、桶本正隆ら37議員は、立憲革新党を結成しました。
 5月15日、第六特別議会が開かれました。これを第六議会といいます。会期は19日間でした。衆議院議長は留任し、副議長は自由党の片岡健吉が就任しました。
 5月31日、衆議院は、内閣弾劾上奏案を可決しました。
 6月1日、東学党の乱の報告がもたらされました。
 6月2日、宮内大臣は、「内閣弾劾上奏案は不採用」と伝達されました。
 6月2日、閣議は、清国の出兵に対抗して、混成1個師団の朝鮮派遣を決定しました。
 6月2日、衆議院が解散させられました。第六議会は、泥沼の様相を呈しました。
 8月1日、日清戦争が始まりました。
 9月1日、*4衆議院議員総選挙が行われました。投票率は84.84%でした。自由党105人、改進党45人、立憲革新党40人、国民協会30人、無所属80人でした。
 9月15日、大本営を広島に移し、明治天皇は、広島に着きました。
 10月18日、第七臨時議会が広島で開かれました。これを第七議会といいます。会期は、4日間でした。衆議院議長は留任し、副議長は改進党の島田三郎が就任しました。貴族院議長は留任し、副議長に黒田長成が就任しました。
 10月24日、衆議院は、日清戦争という外圧に対し、満場一致で、臨時軍事費特別会計法(明治27年6月1日にさかのぼり、戦争終結までを)を可決し、公布しました。
 この項は、『近代総合日本史年表』などを参考にしました。
国会用語、外圧と団結
 「通常国会」と「特別国会」という歴史用語があります。国会は、来年度予算を審議するために、年1回行われます。総選挙の後に開かれる国会を特別国会といいます。総選挙と特別国会はセットです。選挙のない年の国会を通常に開かれるので、通常国会といいます。
 民党は、激しく政府を攻撃していました。ところが、朝鮮半島で東学党の乱が起きました。清国から天津条約により朝鮮出兵の通告が着ました。これが日清戦争への序曲です。
 民党は、政府に協力して戦争予算を可決します。これは、外圧を利用した国内改革パターンといいます。近代のルーツがここにあります。
 アメリカ大統領選挙の前には必ずといって、国威高揚の行事があります。平和的には、宇宙衛星を打ち上げる。戦時的には、外国との交戦です。外圧を利用して、大統領選挙を有利にしようという作戦です。
 日本でも、共産主義国ソ連・中国(国名を呼ばず中共と言う政治家・評論家もいる)脅威論を叫び、軍事費が膨張させるグループがいます。今は、ソ連が解体しました。そこで出てきたのが中国・北朝鮮脅威論です。私は、リベラルと相容れない全体主義を支持しません。いずれ自由に向かうでしょう。しかし、体制の問題とそこに住んでいる人とは、異なります。 外圧を国内問題に利用していないか、注視したいものです。
 第八議会は明治27年12月24日に開会され、明治28年3月23日に閉会されていますが、記録(『近代総合日本史年表』)では、一度も開催されておりません。国会(言論)の機能も麻痺させます。
 戦争は、始まれば、勝たねばなりません。理屈はいりません。しかし、戦争は、しないように、巻き込まれないように、したいものです。

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