print home

エピソード

189_01

条約改正T(井上馨の鹿鳴館時代、大隈重信の改正案)
 日本が経済的に近代化を推進する上で、解決すべき外交課題がありました。それは江戸時代、外交に無知な幕府の老中がペリーやハリスと結んだ3つの不平等条約を改正することでした。
 ペリーとの間で結んだ日米和親条約には、@片務的最恵国待遇(条項)がありました。他国に与えている最も良い待遇と同等の締約国にも与えること。日本側だけが一方的に強制された条項だったのです。
 ハリスとの間で結んだ日米修好通商条約には、重要な内容が含まれていました。その1つが、A領事裁判権で、別名治外法権ともいいます。在留外国人の裁判はその本国の領事が行う権利です。外国にいてその国の裁判権に支配されない治外法権の1つでもあります。
 もう1つが、経済的には、もっとも重要な内容です。B協定関税といったり、関税自主権の欠如といったりします。それは、一国が自主的に定める国定(自主)関税に対し、両国で相談した協定税率によって貸す関税のことです。相手国の日本への輸出品の輸出税と、相手国の日本からの輸入品の輸入税には何ら規定がなく、日本のみに貿易章程で拘束されていました。
 1871(明治4)年11月、右大臣@岩倉具視を全権大使とする使節が、横浜港を出発しました。これが岩倉遣欧使節です。しかし、相手にされず、目的を欧米の制度・文物を視察に変えました。
 1875(明治8)年11月、外務卿のA寺島宗則は、関税自主権回復のため、条約改正交渉開始を太政大臣の三条実美に上申しました。
 1877(明治10)年、西南戦争が始まりました。
 1878(明治11)年2月7日、外務卿の寺島宗則は、関税自主権回復を目的とする条約改正方針を決定しました。
 2月20日、横浜イギリス領事裁判所は、アヘン密輸のイギリス人ハルトレーに、「薬用アヘンは禁断品ではない」として、無罪の判決を下しました。
 3月7日、外務卿の寺島宗則は、「条約の偏頗な解釈である」と抗議しました。
 7月25日、外務卿の寺島宗則は、日米条約・協定などを修正し、日本に関税自主権を認める約書の調印しました。
 1879(明治12)年4月、外務卿の寺島宗則は、アメリカとの間で、日本に関税自主権を認める日米条約・協定に批准しました。但し、他国との同様な条約を実施条件としました。その結果、イギリスとドイツが「日本は、国会や憲法もなく、国際的地位も低い」と反対したので、アメリカとの条約改正も白紙に戻りました。
 7月3日、外務卿の寺島宗則は、大阪・神戸に流行しているコレラを予防するため、検疫停船仮規則を列国に通告しました。しかし、イギリス・ドイツ・フランスの公使は、これに異議を申し出ました。
 7月15日、イギリス公使は、外務卿の寺島宗則に対し、「日本政府が連合談判の基礎となる条約案を提出するまでは、条約改正交渉に応じない」と申し入れました。
 9月10日、B井上馨を外務卿に任命しました。
 9月19日、外務卿の井上馨は、駐英公使の森有礼に法権・税権の部分的回復をめざす条約改正新方針を訓令しました。
 1880(明治13)年7月6日、外務卿の井上馨は、条約改正案をアメリカ・清国両公使を除く各国公使に交付しました。
 7月16日、オランダ公使からもれた井上馨条約改正案がジャパン=ヘラルド紙上で公表されました。
 1881(明治14)年7月23日、イギリス外相は、駐英公使の森有礼に対し、日本提出の条約改正案による交渉に反対し、東京で列国公使による予備会議開催を主張しました。
 10月11日、明治十四年の政変がおこりました。
 10月25日、イギリス代理公使は、東京で列国公使による予備会議開催を、外務卿の井上馨に提議しました。
 12月、外務卿の井上馨は、東京で列国公使による予備会議開催を受諾すると回答しました。
 1882(明治15)年1月25日、条約改正に関する第一回各国連合予備会を外務省で開催しました。
 4月5日、外務卿の井上馨は、第九回条約改正予備会議で、日本の法律・裁判権に服せば外国人に全国内地を開放すると宣言しました。
 6月1日、は、外国判事使用などの細目を提案しました。
 7月23日、壬午事変がおこりました。
 12月1日、福島事件がおこりました。
 1883(明治16)年7月、イギリス人のコンドルが設計した鹿鳴館が完成しました。坪数は1350万uで費用は18万円でした。
 11月、内外の高官・紳士淑女600人は、鹿鳴館に集まり、夜会・舞踏会を夜半まで繰り広げました。こうした風潮を欧化主義とか鹿鳴館時代といいます。
 12月、イギリス外相は、条約改正に関する覚書を駐英公使森有礼に送りました。その内容は次の通りです。
(1)予備会で討議の改正税目、関税率引き上げの大要は承認する。
(2)関税率改正条約を結び、その期限後に内地開放を条件に関税自主権を認める。
(3)領事裁判権放棄については留保する。
 1884(明治17)年4月、イギリス公使は、条約改正に関し新覚書を外務卿の井上馨に手渡しました。その内容は、
「関税率改正条約締結12年後に、内地開放を条件として、関税自主権を認める」というものでした。
 8月、外務卿の井上馨は、条約改正に関する覚書を各国公使に送りました。その内容は、「内地開放は領事裁判権の全廃と同時に行う」というものでした。
 10月、秩父事件がおこりました。
 12月、甲申事変がおこりました。
 1885(明治18)年4月18日、天津条約を結びました。
 4月25日、外務卿の井上馨は、条約改正新草案を各国公使に送り、条約改正会議の予備交渉を開始しました。
 12月、内閣制度が確立し、@1伊藤博文が総理大臣、井上馨外務卿外務大臣となりました。
 1886(明治19)年4月、外務大臣の井上馨・外務次官の青木周蔵を、条約改正全権委員に任命しました。
 5月、外務大臣の井上馨は、各国公使と第一回条約改正会議を外務省で開催し、正式に改正条約案を提出しました。これを列国共同会議といいます。
 6月15日、第六回条約改正会議で、イギリス・ドイツ両公使は、日本案を実行不可能とし、両国合同の条約改正案を提出しました。その内容は、通商条約案・裁判管轄条約案などでした。
 6月29日、第七回条約改正会議で、イギリス・ドイツ両国案に基づいて改正交渉を行うことを決定しました。
 10月20日、第八回条約改正会議で、イギリス・ドイツ両国案の審議を開始しました。
 10月24日、イギリス船ノルマントン号は、紀州沖で沈没しまし、イギリス人乗組員27人はボートで脱出しましたが、日本人乗客23人は全員が溺死しました。これをノルマントン号事件といいます。
 12月8日、イギリスの領事裁判所は、船長ドレークに対して、「獄3月」という判決を申し渡しました。この結果、世論に猛烈な非難を浴びました。
 1887(明治20)年4月、第二十六回条約改正会議で、裁判管轄に関するイギリス・ドイツ案を修正して議定しました。その内容は、領事裁判権を撤廃する・関税自主権の一部を回復する(輸入税率を5%から10%に引き上げる)代わりに、次のことを実行するというものです。
(1)批准後2年以内に、日本内地を外国人に開放する。ハリスとの条約では、横浜・神戸などの居留地以外では、外国人は、居住・通商・不動産所有は禁止されていました。領事裁判権も、居留地のみに適用されていました。井上案によると、外国人に内地雑居の地を認める、つまり、どこでも居住・通商が出来ることになります。
(2)そのために、外国人にも通用する西洋主義による法典を編纂する。そのためには、日本の国家主権が制限されます。
(3)内地雑居の地で起きた外国人がからむ事件では、全ての裁判所で、外国人判事・検事を半数、任用するというものです。これは天皇大権を犯すことになります。
 6月、司法省法律顧問のボアソナードは、条約改正に関し、裁判管轄条約案に反対する意見書(井上案は主権を侵害)を内閣に提出しました。
 7月3日、農商務大臣の谷干城は、裁判管轄条約案に反対し、「条約改正は国会開設後に延期せよ」との意見書を総理大臣の伊藤博文に提出し、辞職しました。
 7月18日、外務大臣の井上馨は、第二十七回条約改正会議で、裁判管轄条約案修正のため、本会議を延期と通告しました。
 8月、ボアソナード・谷干城の意見書が、秘密出版で流布されました。
 9月、外務大臣の井上馨が辞任し、総理大臣の伊藤博文が外務大臣を兼務しました。
 10月、大同団結運動がおこり、三大事件建白書が提出されました。
 12月、保安条例が出されました。
 この項は、『近代日本総合年表』などを参考にしました。
外務大臣の覚え方、フォルクスワーゲンと関税、ノルマントン号事件と領事裁判権
 条約改正で、教える方も教わる方も、共に泣かされるのが、外務大臣(卿)の覚え方である。
 幸い、私は、高校時代に、覚え方を教えてもらっていました。ある場面を想像します。「海の真ん中に陸のような大きな島があります。その周りを、大きな青い海と青い小さい珊瑚が広がっています。そこへガンジイさんがやって来た」。これが頭に入ると、簡単です。
 ガンジイとは岩倉の岩(ガン)、寺島の寺(ジ)、井上の井(イ)。大きなとは大隈の大、青いとは青木の青、陸のようなとは陸奥の陸、青いとは青木の青、小さいとは小村の小です。ここには、必要な人物7人・8代が網羅されています。
 ここでは、@岩倉具視A寺島宗則B井上馨を取り扱いました。
 最近、予備校の先生の日本史講義録なるものが書籍化されていました。待ち合わせ時間を利用して、読んでいると、なんと外相の覚え方が載っていました。一部表現を変えていましたが、「私が開発した覚え方」として紹介していました。私が高校時代に知っていることを「私(予備校の先生のこと)が開発した」とありました。予備校の先生の苦労を垣間見た思いです。
 私は、ビートルズが好きです。また、カブトムシ型時代のフォルクスワーゲンが好きでした。余り関係ない?
 今から20年以上も前の話です。姫路の高校に勤めているとき、体育の先生がカブトムシ型時代のフォルクスワーゲンで通勤していました。あまり他人を乗せない先生ですが、一度だけ、高速を走る時に乗せてもらいました。エンジンの音が聞こえない、取り合い口から高速に上がったとき、加速しますが、その時のスーという感じで、とても快適なものでした。それ以来、カブトムシ型時代のフォルクスワーゲンの虜になりました。
 その先生に、購入価格を聞きました。「300万円かな?」と軽くいなされました。100万円位なら買えるかなと思っていただけにショックでした。車に詳しい人の話では「ドイツで買ったら100万円やで」という。国産の日本車を保護するためにベラボウな関税をかけているのです。つまり、競争力に弱い国内企業をまもる味方が関税だったのです。
 当時、単車やカメラは、輸入品が安かったものです。競争力に強い単車やカメラは、関税を軽くしているのです。 
 井上馨は、条約改正を進めるために、西洋風の鹿鳴館を建て、舞踏会を連日開きました。また、日本的風習が条約改正の障害になっているとして、漢字を廃止して、ローマ字を国語化する案を提唱するなど極端な欧化主義に走りました。石川i木もローマ字で日記を書いていました。
 私も英文科の生徒から古くなった英文タイプライターをもらいました。歴史を学ぶ私には、英文タイプライターは使いようがありません。でも、思い出のタイプライターですから、ローマ字で書きました。その時覚えたブランドタッチがワープロ時代に甦ったのです。軽い財産(技術・芸)は、時代を超え、場所に関係なく、身をたすく
 追記:実際に1902(明治35)年に設置された国語調査委員会は、漢字を全廃し、表音表記のためにローマ字かカタカナのどちらがいいか調べるという調査方針を掲げていました。
 その理由は、「国民の文字の読み書き能力、つまり識字率を上げていくことがその国家の発展のために不可欠とされる」からだ。結局、ローマ字にもならず、カタカナも採用されず、「簡易な表記で識字率上昇を図」り、「効率を追い求め、現実的には漢字制限に落ち着いていった」。
 以上は安田敏朗一橋大学助教授の説によります(2007年3月1日付け朝日新聞)
 ベルツは、文明開化といって、日本人が欧米のものを重視し、日本のものを軽視する風潮をこのように日記に記しています。「『いや、何もかもすっかり野蛮なものでした』…固有の文化を…軽視すれば、かえって外人たちのあいだで信望を博することにはなりません」(1876年10月25日付け)。
 気に入られようと媚をふると、相手も分かります。いずれ、バカにされます。それが分からない上司もいます。それをバカな部下にバカな上司といいます。
 ノルマントン号事件おこりました。新聞が書き立てました。どう見ても、イギリス人全員が助かり、日本人全員が溺死しているので、不自然です。
 その点を、イギリスの領事裁判官が尋問しています。イギリス人の船長であるドレイクは、「英語のわからない日本人は、ボ−トに乗らなかったのでやむなく見捨てた」と証言し、無罪に近い獄3ケ月の判決を申し渡しました。
 このことを新聞で知った日本人は領事裁判権(治外法権)という不平等な条約があることを知りました。

index