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エピソード

189_02

条約改正U(大隈重信の改正案)
 1888(明治21)年2月、C大隈重信は、外務大臣に就任しました。
 4月、@2黒田清隆が総理大臣になりました。
 11月26日、外務大臣の大隈重信は、好意的なアメリカ・ドイツ・ロシアと個別交渉の方針に従い、まずドイツ代理公使に新条約改正案および外相宣言案を手渡しました。
(1)新条約改正案の内容は、「最恵国条項は有条件とし、内地開放と領事裁判権撤廃を不可分のものとする」というものでした。
(2)外相宣言案の内容は、「大審院に外国人判事を任用する。民法以下の諸法律を編纂する」というものです。
 11月30日、外務大臣の大隈重信は、メキシコと修好通商条約をワシントンで調印しました。これは最初の対等条約として実施されました。
 12月18日、外務大臣の大隈重信は、国別交渉の方針に従い、アメリカ公使に新条約改正案および外相宣言案を手渡しました。
 12月29日、外務大臣の大隈重信は、国別交渉の方針に従い、イギリス代理公使に新条約改正案および外相宣言案を手渡しました。
 12月30日、外務大臣の大隈重信は、国別交渉の方針に従い、ロシア・オーストリア・イタリア各公使に新条約改正案および外相宣言案を手渡しました。 
 1889(明治22)年1月、外務大臣の大隈重信は、ロシア・イギリス・フランス・オーストリア・イタリア各国駐在公使に回線条約案を送付し、条約改正交渉開始を訓令しました。
 2月11日、大日本帝国憲法が発布されました。
 2月11日、前の駐英公使であった森有礼(文部大臣)が暗殺されました。
 2月20日、アメリカと新通商航海条約を調印しました。
 3月29日、駐米公使の陸奥宗光は、「新日米条約付属の外国人判事任用の宣言は、憲法に抵触する恐れはないか」と外務大臣の大隈重信に請訓しました。請訓とは、「外国にいる外交官などが、本国政府に指示を求めること」です。
 4月19日、『ロンドン=タイムズ』は、大隈外相の条約改正案を公表して論評を掲載しました。
 5月14日、外務大臣の大隈重信は、駐米公使の陸奥宗光に対して、「抵触せず」と回答しました。
 5月31日、日本の新聞各紙が、『ロンドン=タイムズ』の記事を翻訳して、掲載しました。その結果、反対運動が激化していきました。
 6月、ドイツと新通商航海条約を調印しました。
 7月、イギリス公使は、日本・メキシコ間の新条約による内地居住権などに関し、最恵国条項により均霑を要求しました。均霑(きんてん)とは、「みんな同じように利益や恩恵をうけること」です。
 8月3日、外務大臣の大隈重信は、イギリス公使の均霑を要求を拒絶しました。
 8月8日、ロシアと新通商航海条約を調印しました。
 8月25日、条約改正反対派は、全国連合大演説会を東京の千歳座で開きました。
 9月、大隈重信の所属する改進党は、条約改正断行の全国同志大懇親会を東京の新富座で開きました。
 10月11日、枢密院議長の伊藤博文は、大隈外相の条約改正案に反対して、辞表を提出しました。
 10月15日、条約改正に関して御前会議が開かれました。しかし、賛否対立して、結論が出せませんでした。
 10月18日、外務大臣の大隈重信は閣議の帰途、玄洋社員の来島恒喜に襲撃され、負傷しました。
 10月24日、総理大臣の黒田清隆は、大隈外相を除いて、全閣僚の辞表を提出しました。これが辞職です。
 10月25日、黒田清隆の辞表は認め、内大臣三条実美が総理大臣を兼任し、他の閣僚の辞表は却下されました。
 12月10日、閣議は、条約改正交渉延期を決定しました。
 12月13日、総理大臣の臨時代理である三条実美は、アメリカ・ドイツ・ロシア駐在公使に調印済新条約の実施延期を請求するよう訓令しました。
 12月14日、外務大臣の大隈重信は、辞表を提出しました。
 この項は、『近代日本総合年表』などを参考にしました。
外務大臣(卿)の覚え方、大隈重信が爆弾テロに会う
 条約改正で、教える方も教わる方も、共に泣かされるのが、外務大臣(卿)の覚え方である。
 幸い、私は、高校時代に、覚え方を教えてもらっていました。ある場面を想像します。「海の真ん中に陸のような大きな島があります。その周りを、大きな青い海と青い小さい珊瑚が広がっています。そこへガンジイさんがやって来た」。これが頭に入ると、簡単です。
 ガンジイとは岩倉の岩(ガン)、寺島の寺(ジ)、井上の井(イ)。大きなとは大隈の大、青いとは青木の青、陸のようなとは陸奥の陸、青いとは青木の青、小さいとは小村の小です。ここには、必要な人物7人・8代が網羅されています。
 ここでは、C大隈重信を扱いました。
 政治家の大隈重信は、領事裁判権の撤廃に執念を燃やしていました。前の外務大臣である井上毅や逓信大臣の後藤象二郎、それに総理大臣の黒田清隆の大隈重信を支持していました。
 この売国的な条約改正案に面と向かって反対することは出来ません。そこで、使った方法が、大隈の改正案を『ロンドン=タイムズ』に掲載することです。葬り去ることに成功しました。それは誰だったのでしょうか。
 この項で取り扱った人物で、大隈案に異を唱えたのは、駐米公使の陸奥宗光(後の外務大臣)です。大隈重信に反発しているイギリス外相です。それ以外にもいるかも知れませんね。これからの課題です。
 マス=コミの役割は権力者の売国的行為を、情報として国民に知らせるということがよく分かりました。しかし、残念ながら、一部を除き多くの論調が、権力者に媚を売る状態になっているのは、如何なものでしょうか。
 これは当時の「大隈伯遭難」記事です。
 「今日(明治22年10月18日)午後四時過、大隈伯、内閣閣議を終り官邸へ帰途馬車将に同省(外務省)の門を入らんとする時、何者とも知れず爆裂弾を馬車中に投入れたり。伯はこれが為に左脛(右脚)に二個所の傷を負はれたれど、其他に別条無し…然、加害者古島常吉(来島恒喜)年齢二十五六、肉太く色青黒く鼻高し…大臣の帰邸を見て突然躍り出で二間許り隔て爆裂弾を擲げ付けたり、用意の短刀を以て自盡(自害)す」
 負傷の大隈重信を見舞ったのは、医者のベルツです。彼は日記に「脛骨の中間部も同様に全部粉砕されていた。下腿を動かすと、骨が、まるで袋に入っているかのように、手の中でがたがた音を立てた。上腿切断手術よりほかに、施す手段がないことは明白だった」と記述しています。
 しかし、大隈重信は、「片足を切断するくらいなら、死んだ方がましだ」と言ったといいます。しかし、医者(ベルツか手術を担当した佐藤という医師かは不明)が、「死んだつもりで、余生を頑張る手もある」と説得したので、大隈重信は右脚を切断する手術に応じました。現在、早稲田大学の正門に、ステッキをついた大隈重信の銅像が在りますが、格好をつけているのではなく、切断した足を庇っているのです。 
 大隈重信に爆弾を投げつけて自害した来島恒喜については、一部には、テロリストとして高く評価する人もいます。玄洋社で「慷慨義を好み、忠勇君に尽くすの精神、私を忘れて公に奉じ、身を捨て、国に殉する」といった精神・思想を教えたのが、頭山満らです。彼らは、大隈重信の次の演説をよく利用しています。
 その内容は「来島の最後は赤穂浪士の最後よりもすぐれてゐる。たしかにえらい。彼は人を殺して自分だけが生きようなどといふケチな料簡は持ってゐなかった。赤穂浪士は不倶戴天の仇である吉良上野の首級を挙げるとすぐに何故吉良邸で割腹しなかったか。その動機においては赤穂浪士と来島とは天地霄壌の相違があるが、その結果においては来島の方が天晴れである」というものです。
 私は、赤穂に生まれ、赤穂で育ち、最後の学校を地元の高校で終えました。そういう立場から言うと、裁判もなく、仇を討ちことが美徳とされている時代と、法治国家の時代を比較すること事体がナンセンスです。
 次に、赤穂浪士がその場で自害しなかったのは、世論を敵に回して、独裁将軍徳川綱吉がどう裁定を下すか、その力量を試そうとしたためです。彼らは、討ち入った時も死を覚悟しているし、討ち入り後も死を覚悟しています。
 もし、大隈重信が本当にそう言ったとしたら、それは政治家一流のハッタリだと思います。「ワシは赤穂浪士よりも凄い奴に狙われて、名誉の負傷をしたんだ」と。ケガしてもただでは起きないところが凄いと思います。

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