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エピソード

190_01

条約改正V(青木周蔵、陸奥宗光、小村寿太郎)
 1889(明治22)年12月、@3山県有朋は、総理大臣に就任しました。総理大臣の山県有朋は、D青木周蔵(46歳)を外務大臣に任命しました。青木周蔵の夫人は、当時としては珍しいドイツ人でした。外国で信頼を得やすい。
 1890(明治23)年2月8日、閣議は、外務大臣の青木周蔵が提出した相互対等とする条約改正に関する方針を決定しました。その内容は、次の通りです。
(1)外国人判事の採用は中止し、6年後の領事裁判権は撤廃する。
(2)外国への法律編纂の公約は中止する。
 2月28日、外務大臣の青木周蔵は、条約改正に関する覚書をイギリス公使、次いで関係ある各国公使に提示しました。
 7月15日、イギリス公使は、イギリス政府起草の通商条約案および議定書を提出し、日本側の覚書にほぼ同意しました。イギリスが、日本に接近した背景には、ロシアのシベリア鉄道起工による東アジア進出を警戒したことが考えられます。
 10月、教育に関する勅語が発布されました。
 11月、第一議会が開かれました。
 1891(明治24)年3月3日、閣議は、条約改正方針を決定しました。
 3月24日、外務大臣の青木周蔵は、イギリス公使に条約改正案を手渡しました。その内容は、法典実施を領事裁判権撤廃の前提とする規定の削除などです。しかし、イギリス外相が更迭されたので、交渉は進展しませんでした。
 5月6日、@4松方正義は、総理大臣に就任しました。総理大臣の松方正義は、D青木周蔵を外務大臣に任命しました。
 5月11日、滋賀県大津で、巡査津田三蔵(38歳)は、来日中の大国ロシアの皇太子アレクサンドロビッチ(後のニコライ世)に切りつけ負傷させました。これを大津事件といいます。政府は、御前会議を開き、能久親王・西郷従道内相・青木周蔵外相を京都に派遣しました。
 5月12日、元老の伊藤博文貴族院議長・松方正義首相・山田顕義法相・後藤象二郎逓信相・陸奥宗光農相・黒田清隆枢密院顧問らが会合し、大津事件の犯人に皇室に対する罪(大逆罪)を適応する方針を了承しました。
 5月13日、明治天皇は、ロシア皇太子を見舞いました。
 5月19日、ロシア皇太子は、帰国の途につきました。
 5月19日、大審院長児島惟謙(55歳)は、津田三蔵の行為は謀殺未遂罪に該当する旨の意見書を松方正義首相および山田顕義法相に提出しました。
 5月27日、検事総長三好退蔵は、「津田三蔵を刑法116条により死刑に処すべきだ」と論告しました。
 大審院は「刑法116条は日本の皇室以外には適用せず」として、謀殺未遂罪により津田三蔵に対し、無期徒刑との判決を下しました。これは、行政の圧力にも屈せず、司法権の独立を守ったとして、内外から高く評価されました。
 5月29日、外務大臣の青木周蔵は、辞任しました。後任に榎本武揚が就任しました。
 1892(明治25)年3月、外務大臣の榎本武揚は、貴族院議長の伊藤博文・駐独公使の青木周蔵と会合し、条約改正につき討議しました。
 4月、伊藤博文貴族院議長・榎本武揚外相・後藤象二郎逓信相・副島種臣内相、黒田清隆・寺島宗則・井上毅の枢密院顧問は、条約改正案調査委員に就任しました。
 8月、@5伊藤博文は、総理大臣に就任しました。伊藤博文は、E陸奥宗光を外務大臣に任命しました。
 1893(明治26)年3月、ハワイ国公使は、外務大臣の陸奥宗光に対し、領事裁判権の放棄およびハワイ国民の日本内地での居住営業を希望する旨を申し入れました。日本政府はこれを受諾しました。
 7月8日、臨時閣議は、条約改正案・交渉方針を決定しました。その内容は次の通りです。
(1)内地雑居を認め、領事裁判権を廃棄する。
(2)関税率を改定する。
(3)イギリス・ドイツ・アメリカ3国から国別に交渉を開始する。
 7月10日、ホノルル総領事藤井三郎は、外務大臣の陸奥宗光に対し、アメリカ国のハワイ併合の動向につき、在留日本人保護のため、軍艦の派遣を要請しました。
 11月14日、海軍大臣の西郷従道は、軍艦浪速にハワイ行きを命令しました。
 11月22日、条約改正交渉のため、駐独公使の青木周蔵に、駐英公使兼任を命じました。
 12月29日、衆議院は、外務大臣の陸奥宗光の条約励行案反対の演説後、14日間の停会を命じられました。
 12月30日、衆議院は、解散を命じられました。
 1894(明治27)年1月、近衛篤麿・谷干城ら貴族院議員38人は、総理大臣の伊藤博文に忠告書を送り、衆議院の条約励行論抑圧に抗議しました。
 3月、東学党の乱がおこりました。
 7月16日、陸奥宗光外相と青木周蔵駐英大使は、念願の日英通商航海条約・付属議定書・付属税目に調印しました。その内容は次の通りです。関税自主権の一部を回復し、最恵国と領事裁判権の問題は解決しました。イギリスが大幅に譲歩した理由は、ロシアの南下政策への防衛策がありました。
(1)一方的最恵国約定を改めて、相互の最恵国約定とする。
(2)領事裁判権は廃止する。
(3)関税自主権の一部を回復し、重要品目の片務的協定税率を残すが、関税率引揚げを実現する。
 8月1日、日清戦争が始まりました。
 11月12日、アメリカ公使は、清国の依頼により講和条件の基礎を提議しました。
 11月22日、日米通商航海条約・付属議定書を調印しました。
 11月27日、外務大臣の陸奥宗光はこの提議を拒否し、「清国側の講和全権委員任命を先決とする」と回答しました。
 12月20日、清国は、「張蔭桓らを講和全権委員に任命する」の旨を、アメリカ公使を通じて通告してきました。
 1895(明治28)年2月1日、日清両国全権は、広島県庁で会議を開きました。
 2月2日、日本全権の伊藤博文首相と陸奥宗光外相は、清国全権委任状の不備を理由に交渉を拒絶しました。
 2月19日、清国は、講和全権に李鴻章を任命する旨をアメリカ公使を経て通告してきました。
 3月20日、日本全権の伊藤博文首相と陸奥宗光外相は、下関の春帆楼で李鴻章と会談しました。
 3月24日、李鴻章は、第三回講和会談終了後、帰途につく途中で襲撃され、負傷しました。
 4月17日、日清講和条約を調印しました。
 4月23日、ドイツ・フランス・ロシア各国公使は、遼東半島の清国への返還を勧告する覚書を提出しました。これを三国干渉といいます。
 6月8日、日露通商航海条約・付属議定書を調印しました。
 1896(明治29)年4月、日独通商航海条約・付属議定書を調印しました。
 8月、日仏通商航海条約・付属議定書を調印しました。
 9月、@6松方正義は、総理大臣に就任しました。松方正義は、大隈重信を外務大臣に任命しました。これを松隈内閣といいます。
10  1898(明治31)年1月、@7伊藤博文は、総理大臣に就任しました。伊藤博文は、西徳二郎を外務大臣に任命しました。
 3月、外務大臣の西徳二郎はロシア公使に、ロシアが韓国に対する助言・助力を日本に一任すれば、満州は日本の利益範囲外と認める旨を通告しました。これを満韓交換論といいます。
 4月、西徳二郎外相は、ロシア公使のローゼンと、韓国に関する議定書に調印しました。内容は以下の通りです。
(1)韓国の独立を承認する。
(2)韓国への勧告・助言・顧問の任命などについては両国は事前に協議する。
(3)ロシアは日本の商工業の発達を妨害しない。
11  6月30日、@8大隈重信は、総理大臣に就任しました。大隈重信は外務大臣を兼任しました。板垣退助は、内務大臣に就任しました。これを隈板内閣といいます。
 10月、尾崎行雄の共和演説事件で、隈板内閣が崩壊しました。
12  11月、@9山県有朋は、総理大臣に就任しました。山県有朋は、F青木周蔵を外務大臣に任命しました。
 1899(明治32)年12月、アメリカ公使は、青木周蔵外相に対し、清国内の租借地・利益範囲において、通商航海上の均等な待遇の保障を求める覚書を提出しました。これを門戸開放提議といいます。
 1900(明治33)年5月、義和団事件がおこりました。
 7月、イギリス代理公使は、青木周蔵外相に対し、日本軍2万人を清国に増派すれば、100万ポンド援助と通告しました。
13  10月19日、@10伊藤博文は、総理大臣に就任しました。伊藤博文は、加藤高明を外務大臣に任命しました。
 1901(明治34)年3月、ドイツ駐英代理大使は、駐英公使の林薫に対し、日英独三国同盟を提唱しました。これが日英同盟交渉の端緒となりました。
 4月、山県有朋は、伊藤博文首相に日英独三国同盟の推進を建言しました。
14  6月、@11桂太郎は、総理大臣に就任しました。桂太郎は、G小村寿太郎を外務大臣に任命しました。
 9月、伊藤博文は、日露協定交渉のため、横浜を出港しました。
 10月16日、駐英公使の林薫は、イギリス外相と公式の同盟交渉に入りました。
 11月6日、イギリス外相は、日英同盟条約草案を駐英公使の林薫に手渡しました。
 12月2日、伊藤博文は、ロシア外相と日露協定につき交渉を開始しました。
 12月4日、伊藤博文は、朝鮮についての日露協定案に関する覚書をロシア外相に提出しました。
 12月6日、伊藤博文は、ベルリンより桂太郎首相に日露協定を先決とし、日英同盟締結の延期を勧告しましたが、政府は同調しませんでした。
 12月7日、桂太郎首相・小村寿太郎外相は、元老会議に出席し、日英同盟修正案を可決しました。その後、明治天皇より裁可されました。 
 12月23日、伊藤博文は、ロシア外相に日露協定の交渉打ち切りを通告しました。
15  1902(明治35)年1月30日、日英同盟協約が、ロンドンで調印されました。
 1904(明治37)年2月10日、日露戦争が始まりました。
 2月23日、日韓議定書が調印されました。その内容は、次の通りです。
(1)日本は韓国皇室の安全と領土保全にあたり、軍事上必要の地点を臨機に収用する。
(2)韓国は日本の忠告をいれて使節を改善する。
(3)これに反する協定を第三国と結ばない。
 1906(明治39)年、@12西園寺公望は、総理大臣となりました。西園寺公望は、加藤高明を外務大臣に任命しました。
 1908(明治41)年7月、@13桂太郎は、総理大臣に就任しました。桂太郎は、G小村寿太郎(57歳)を外務大臣に任命しました。
 1911(明治44)年2月、外務大臣の小村寿太郎は、念願の日米新通商航海条約および付属議定書を調印しました。ここに初めて関税自主権を回復し、不平等条約の完全に改正することが出来ました。アメリカが最初の回復国になった理由として日露戦争後の日本の国際的地位の向上を上げています。もっと戦略的なことがなかったのか、調べています。
 この項は『近代日本総合年表』などを参考にしました。
戦争と外交、事実を見ないウソ史観
 条約改正で、教える方も教わる方も、共に泣かされるのが、外務大臣(卿)の覚え方である。
 幸い、私は、高校時代に、覚え方を教えてもらっていました。ある場面を想像します。「海の真ん中に陸のような大きな島があります。その周りを、大きな青い海と青い小さい珊瑚が広がっています。そこへガンジイさんがやって来た」。これが頭に入ると、簡単です。
 ガンジイとは岩倉の岩(ガン)、寺島の寺(ジ)、井上の井(イ)。大きなとは大隈の大、青いとは青木の青、陸のようなとは陸奥の陸、青いとは青木の青、小さいとは小村の小です。ここには、必要な人物7人・8代が網羅されています。
 ここでは、D青木周蔵E陸奥宗光F青木周蔵G小村寿太郎を取り扱いました。
 実際には、@岩倉→A寺島→B井上→C大隈→D青木→榎本武揚→E陸奥→大隈重信→西徳二郎→大隈重信→F青木→加藤高明→G小村→加藤高明→G小村となり、明治4年〜明治44年の間に、15人の外務大臣(卿)が就任したことになります。
 予備校的にいうと、@〜Gの外相と、重要事項をどう結びつけて覚えるか。暗記でなく、歴史物語として覚えるのがベターです。世の中にはベストはない。ベストを目ざしてベターに落ち着くのです。
 難関私大では、基本的な問題では差がつかないので、@〜G以外をどう理解するかでしょう。しかし、そんな瑣問に関わるより、大問で稼ぐ王道を行きましょう。10割(100%)でなく、7割(70%)取れれば、合格です。
 不平等を押し付けた国はそのままの方が、有利です。押し付けられた方は、解消しようと努力します。締結の時のエネルギーに比べると、何倍ものエネルギーを消耗します。
 日常生活においても、契約する時は、入り口で「喧嘩」(吟味)するのが、いかに大切かということが、よく分かります。
 解消に膨大なエネルギーを消耗した日本外交でしたが、解決の糸口は、日清戦争であり、日露戦争でした。
 国と国との契約は、個人よりはるかにエネルギーが必要です。戦争という破壊的なエネルギーをうまく利用した日本外交でした。
 他の国を、紙の上で取り引きする様がよく分かりました。世界史で、列強が植民地をパイに見立てて、ナイフとフォークで切り裂いている写真を見たことがあります。他国の主権を無視して、強国が武力で切り裂いて自国の領土にすることを帝国主義とありました。
 明治時代は、帝国主義の時代だったのです。当時、帝国という言葉は、強いという憧れで、日本でも、帝国憲法とか帝国ホテルという名称が使われています。
 今の視点で、当時を計る愚は避けたいものです。今、私たちが喜んで使っている事・物が、後世では物笑いの種になることだってあります。今の基準と後世の基準が違えば、当然のことです。
 人間は神ではありません。素晴らしいことや正しいこともする、間違いを犯したり、誤ったりもする。だから「私が正義だ」といえない。それが人間なんです。そこで、事実は事実として正・邪を学ぶのです。一部では、自虐史観とかいう人もいるようですが、邪の部分を切り捨て、美しく着飾った部分を誇張しても、事実を無視したところからは、ウソ史観・恥史観しか誕生しません。

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