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エピソード

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親日トルコとエルトゥールル号事件(今年は120周年)
 私は、在職中に何度も外国旅行をしていました。日本史と関連がある各史跡を廻るためです。家族で行ったり、妻と行ったりしました。
 退職後、時間的な余裕ができたのですが、外国旅行する目的が失われたので、その意欲が減退しました。
 妻から「体が元気な間に外国旅行をしていないと、後で行きたいと思っても行けない。悔いが残るよ」という言葉に励まされ、一切のプランは妻が責任をもって考えるという。その結果、退職前を含め、ヨーロッパの主要国は殆ど行くことが出来ました。
 残りは、近場のアジア廻りの予定をしていると、妻の友人の多くから「トルコがいいよ」と勧められていました。近所の歯科医院の若い女医先生は、何度もトルコに行っていますが、次の休暇にもトルコに行くと言う。
 たくさん集めったパンフレットから、妻は1つのプランを持ってきました。私たち夫婦は、第二土曜日と第四土曜日は、相生市が指定する定期講座(「ホームページ作成講座」)の講師をしています。夏休み・冬休みなどの長期休暇を避けて、2週間の国外旅行には、大きな制限があります。
 相生市では、5月の最終日曜日とその前々日の土曜日に「ペーロン祭り」と前夜祭の花火大会があります。受講生の方の家でも来客があり、そのため、定期講座を休講にしています。つまり5月の第二土曜日以降から6月の第二土曜日以前迄に限定されます。
 全ての条件が克服された、2010年5月下旬から6月上旬にかけてトルコに行ってきました。
 乗り換えるため、飛行場で時間待ちをしました。その間、出来るだけ、現地では現地語を使おうと、トルコ語を勉強していました。ツア・コンダクター(ツア・コン)が迎えに来たので、乗降口に移動しようとすると、隣に座っていたトルコ人家族が「サヨナラ」と日本語で言います。高校生らしき年齢の若者もその中に2人程いました。すっかりトルコ人に親近感を覚えました。
 世界遺産のブルー・モスク(イスタンブール)に行ったときです。体験学習中の小学生と出会いました。記念撮影をしていました。可愛かったので、先生の許可を得て、彼らを撮影しました。私のカメラを見て、小学生がどっと集まってきました。彼らのカメラを見てくれというのです。ソニーもあれば、ニコン・キャノンなどほとんどが日本製でした。その間、先生はニコニコ笑って、黙認してくれました。日本なら「もう行きますよ」と扱われただろう事を思うと、トルコの安全性を確認できました。
 買い物に出ても、「こんにちわ」とか「いらっしゃい」とか日本語で応対されます。トルコ以外の海外では「チャイニーズ?」と聞かれることが殆どでした。この親日的な態度はどこから来るのでしょうか。
 世界の三大料理は「フランス料理」「中華料理」とすぐ言えます。もう一つは「イタリア料理」「日本料理」と思いきや、「トルコ料理」だったのです。いやー、本当、まったく違和感なく、しかも美味しかったです。
 そこで、親日トルコ人のルーツを探ってみることにしました。
 その前に、この事件を忘れることが出来ません。
 それは、イラン・イラク戦争(イ・イ戦争)中に起きました。イ・イ戦争は、ペルシア湾に注ぎ込むチグリス・ユーフラテス川の下流域にあるシャトル・アラブ川の使用権をめぐって対立がありました。シャトル・アラブ川は石油の輸出にとって重要な拠点であり、イラン・イラクの国境にあったのです。
 1980年9月22日、イラク(フセイン大統領)がイランの空港を爆撃し、それに対してイラン(ホメイニー師)が迎撃して始まりました。
 1985年3月12日、イラク軍は、テヘラン(イランの首都)を空爆しました。

 3月17日、イラクのフセイン大統領は、「3月19日20時半以降はイランの上空を飛ぶすべての飛行機を撃ち落とす」という声明を発表しました。日本人以外のイラン在住外国人は、無事、自国の飛行機で脱出しました。日本政府は、救出作業に手間取り、イラン在住日本人215人は、脱出できませんでした。
 その間、フセイン大統領が命令した攻撃の時間が迫ってきました。
 そこで、在イラン・日本大使館は、在イラン・トルコ大使館に日本の現状を訴えました。在イラン・トルコ大使館から連絡を受けたトルコ政府は、トルコ航空機の派遣を決定しました。攻撃開始1時間ほど前に、トルコ航空機の2機がテヘラン空港から日本へ離陸しました。この時、トルコ政府は「エルトゥールル号の恩義」を口にしたといいます。
 2006年1月12日、小泉純一郎首相(当時)は、トルコ・イスタンブール市内のホテルで、日本人215人を救出したトルコ航空の機長だったアリ・オズデミルさん(75歳)と面会しました。小泉首相が「砲弾が飛び交うなか、救出して頂いたことに、日本人が皆感動した」と言うと、オズデミルさんは「邦人救出は任務」と答えました。
 駐日トルコ大使ウトカン氏はトルコと日本の友好の原点について次のように語っています。
 「1887年に(日本の)皇族がオスマン帝国(今のトルコ)を訪問したのを受け1890年6月、エルトゥルル号は初のトルコ使節団を乗せ、横浜港に入港した。3カ月後、両国の友好を深めたあと、エルトゥルル号は日本を離れたが、台風に遭い和歌山県の串本沖で沈没してしまった。この時、乗組員中600人近くが死亡した。しかし、約70人は地元民に救助された。手厚い看護を受け、その後、日本の船で無事トルコに帰国している。当時日本国内では犠牲者と遺族への義援金も集められ、遭難現場付近の岬と地中海に面するトルコ南岸の双方に慰霊碑が建てられた。エルトゥルル号遭難はトルコの歴史教科書にも掲載され、私も幼いころに学校で学んだ。子供でさえ知らない者はいないほど歴史上重要な出来事だ」
(1995年1月9日付け「産経新聞」)

 ここで、親日トルコ人誕生のルールであるエルトゥールル号遭難を検証します。
 露土戦争(1877〜1878年)に敗れたオスマン・トルコは、不平等条約に悩んでおり、近代化を図る目標を日本の明治維新に求めました。
 1887(明治20)年、小松宮彰仁親王は、ヨーロッパ訪問の後、オスマン・トルコのイスタンブール立ち寄りました。
 1889(明治22)年7月、それに応えることを目的に、オスマン・トルコ皇帝ハミル2世は、オスマン・トルコ帝国海軍の軍艦エルトゥールル号(乗員650人)を、練習航海を兼ねて、日本へ親善派遣しました。
 1890(明治23)年6月13日、日本に到着したエルトゥールル号のパシャ司令官は、明治天皇に拝謁しました。
 9月15日、日本は台風が近いこと理由に出航の延期を申し入れましたが、台風の怖さを知らないパシャ司令官は、品川出航を強行しました。
 9月16日、エルトゥールル号は、和歌山県串本町大島沖で台風に遭遇し、座礁しました。串本町の樫野崎灯台守の記録によると、「真夜中、服はボロボロで裸同然、傷だらけの男がやってきた。海で遭難した外国人であることはすぐにわかった。『万国信号書』を見せると、彼がトルコ軍艦に乗っていたトルコ人であること、また多くの乗組員が海に投げ出されたことがわかった。救助に向かった村の男たちが岩場の海岸におりると、おびただしい船の破片と遺体があった。男たちは裸になって、息がある人たちを抱き起こし、冷え切った体をあたためた」とあります。この事故で518人が死亡し、69人が大島村の漁民による介護により救助されました。
 10月、日本海軍の軍艦「金剛」と「比叡」は、救助されたトルコ人を送り届けると同時に、日本海軍の威容を誇示することを使命として、日本を出航しました。この「金剛」に乗船した軍人に秋山真之がいました(『坂の上の雲』(司馬遼太郎)で有名)。
 1891(明治24)年1月2日、「金剛」と「比叡」は、イスタンブールに到着しました。
 日露戦争(1904〜1905年)に際しても、ロシアの南下に苦しんでいたトルコは、陰に陽にロシアの情報を日本に与えていました。日露戦争で、有色人種の国・日本が白人の国・ロシアに勝利したことは、有色人種のトルコ人に大きな夢を与えました。
 トルコでは、自分の子供の名に、バルチック艦隊を撃破した東郷平八郎にあやかって「Togo(トーゴー)」と付けたといいます。
 首都アンカラには、「トーゴー通り」があります。イスタンブールには、「乃木通り」があります。
10  歴史を知ることの大切さを本当に理解できました。
 この項は「Wikipedia」などのホームページを利用しました。関係諸氏にお礼申し上げます。
エルトゥールル号と現在
 世界史では有名なボスポラス海峡があります。この海峡は、トルコのヨーロッパ部分(オチデント)とアジア部分(オリエント)を隔てています。北は黒海、南はマルマラ海に通じる南北に細長い(約30km)海峡です。幅は最も広い所で3700m、最も狭い所で800mです。
 ロシアは、黒海から地中海・大西洋に出るには、どうしてもボスポラス海峡を通る必要があります。マルマラ海とエーゲ海をつなぐ海峡がダーダネルス海峡です。
 私たちは、ボスポラス海峡上の小さな浮き島で夕食をしました。船から降りると、その浮き島は、浪のしぶきをかぶるくらい、海水とすれすれでした。現地ガイドさんに質問すると、「トルコでは台風は無い」ということでした。
 司馬遼太郎原作の『坂の上の雲』がNHKTVで、2009年から3年間にわたって放映中です。
 主人公の秋山真之に本木雅弘さんが扮しています。
 1897年、秋山真之太尉は、アメリカに留学しました。元海軍大学校校長マハンに師事し、アメリカ海軍の兵術の理論研究に努力しました。
 1898年、米西戦争が起ると、秋山大尉は、米海軍の作戦・実戦を観察する機会を得ました。アメリカ海軍がキューバの港を閉塞する作戦(サンチャゴ海戦)も見学できました。この時の経験が、のちの日本海海戦に役立ったと言われています。
 1900年、秋山大尉は、日本に帰国しました。
 日露戦争の時、連合艦隊の作戦参謀に任じられ、日本海海戦の作戦立案を立案しました。アメリカで体験した丁字戦法によって、ロシアのバルチック艦隊を殲滅させました。最終階級は海軍中将
 大島村の漁民が介護した詳細があります。
 「暖房のない時代、しかも台風で火を燃やすこともできません。そこで漁民たちは、フンドシ1つの裸になり、トルコ人の寝ている布団に入り、トルコ人の冷え切った体を温めました。これは古来から伝わる漁師の蘇生術でした。浴衣などの衣類を提供したが、背の高いトルコ人には、子供服でした。しかし、その気持ちが喜ばれました。
 大島村には50戸400人が住んでいました。その時は、台風で漁にも行けません。しかし、69人の「異人さん」に卵やサツマイモ、最期には非常食用のニワトリまで提供しました」。
 2008(平成20)年6月7日、トルコのギュル大統領は、国家元首としては初めて和歌山県を訪問しました。その時の様子を地元紙が以下のように伝えています。
 「串本町と深い友好関係にあるトルコ共和国のアブドゥッラー・ギュル大統領(57歳)が同町樫野にあるトルコ軍艦「エルトゥールル号」遭難慰霊碑前で開かれた追悼式典に出席した。殉職将兵の霊を慰めるとともに「住民の献身的な救助は日本の伝統文化の象徴。大変意義深い贈り物だった」と語り、串本町とのさらなる交流を誓った。
 追悼式典にはトルコからの150人を含め、町や県の関係者、住民ら計560人が参列した。黙とうの後、ギュル大統領や松原町長、仁坂知事、二階俊博衆院議員が追悼の言葉を述べた。
 ギュル大統領は約580人の将兵を祭る慰霊碑に菊の花輪をささげ、ほかの参列者も献花した。
 地元の大島小学校の児童と大島中学校の生徒計78人が、将兵を追悼する「追悼歌」を斉唱した。しっとりとした歌声が響き渡り、ギュル大統領も聴き入った」
(2008年6月7日付け紀伊民報)
 2010年6月3日、日本トルコ友好120周年『エルトゥールル号』遭難慰霊祭が串本町で行われました。日本からは皇族、トルコからは在日トルコ大使が出席しました。大島小・中学生と大島婦人合唱団は、「トルコ使節艦エルトゥールル号追悼歌」を披露しました。
 「トルコ使節艦エルトゥールル号追悼歌」(作詞:泉 丈吉、作曲:打垣内 正)です。
1.陽は落ちぬ 悲しびふかし
 はるけきか 一つ星なる
 海鳴りの いよいよ冴えきて
 白塔の ひらめきうつし
 堪えがたく 祈る声とも 
2.ああはるか 歳を経ぬるとも
 うち仰ぐ 波の旺らば
 とつくにの もののふあわれ
 船甲羅 うらみに呑みて
 使節船 とわに影なく 
3.樫野なる 熊野の浦へは
 老い老いし 漁人ら
 指さして 声をひそめる
 風黒く 暴れの夜なりし
 ああわれら とわに語りめ
 2010年(平成22)年9月1日、2008(平成20)年6月の返礼として、仁坂和歌山県知事や串本町長らがトルコのギュル大統領を表敬訪問しました。仁坂知事は、再会を喜ぶとともに、日本とトルコとの友情について語りあい、「困ったときに助け合える本当の友人」の関係を末永く続けていきたいとの知事の発言に大統領も賛同した。
 また、トルコ航空に関空便の増便の要請を行ったことを説明したほか、串本町が中心となって進めているエルトゥールル号とテヘラン救出事件の映画化について、大統領から協力するとの暖かい応援の言葉がありました。
 9月2日16時、熊野詣の平安衣装に身を包んだ5名のトルコ人女性や、和服・浴衣などの日本の伝統的な装いをしたツアー参加者らが、串本通り(トルコのメルシン市)をパレードしました。パレードには、海上自衛隊の幹部候補生やブラスバンドも加わり、沿道の多くのメルシン市民から熱烈な歓迎を受けました。
 9月2日18時、トルコのメルシン市にあるエルトゥールル号殉難将士慰霊碑の前で、和歌山県からの訪問団や演習訓練のためメルシン市に寄港中の海上自衛隊員を含む約700人が参列し、エルトゥールル号殉難将士の慰霊式典が執り行われました。
(和歌山県の広報誌より)
 駐日トルコ大使ウトカン氏は、「エルトゥルル号遭難はトルコの歴史教科書にも掲載され、私も幼いころに学校で学んだ。子供でさえ知らない者はいない」と語っています(上述)。その詳細はどうなのでしょうか。それを紹介している記事がありました。
 5人のトルコ人に尋ねました。
 「トルコ人はエルトゥールル号事件を知っているか?」(全員が知っている)
 「学校の教科書に載っているか」(2人が小学校の教科書、3人が高校の歴史教科書)
 トルコの旅行会社に勤務する日本人は「トルコ人は知らないんじゃないでしょうか。教科書には載ってないみたいです」と答えたといいます。

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